3-9
そのアパートの二〇二号室には表札がかかっていなかった。しかし、窓の向こうに洗剤のようなものが置いてあるのが見えた。キッチンなのだろう。人が住んでいそうではある。
兄がインターホンを押した。しばらくして、女性の声がした。
「……はい」
「六角明日香さんですか?」
「……えっ」
「四門遥香さんの件で来ました。お心当たりは?」
「そう……ですか。わかりました」
顔を出したのは、髪の長いくたびれた女性だった。目元には黒いくま。げっそり痩せた頬。よれよれのスウェットを着ていた。キャバ嬢だった頃の面影はまるでない。
「警察じゃないんですか……?」
俺は名刺を出した。
「探偵です。五味といいます」
ポケットに入れっぱなしだった名刺が役に立った。兄と相談して、俺が五味のフリをした方が話が早く進むだろうということになったのだ。
「そして、こちらは霊能者の九楽です。信じられない話かもしれませんが……四門遥香さんの霊と話してここを突き止めました」
「……霊?」
兄がずいっと前に出た。
「試しに質問してもらえれば、僕の力が本物だとわかってもらえるかと」
「……どうぞお入りください」
入ってすぐにキッチン。奥に和室。敷かれたままの布団が見えた。小さなテーブル。畳に座り、そのテーブルを挟んで、おそらく六角明日香であろう女性と向き合った。
「じゃあ聞きます。私と彼女が呼び合っていたあだ名」
兄はヘアゴムに手をかざして言った。
「あーち。はるっぺ」
「正解です……」
「ん? ああ……ピーマンがお嫌いなんですね。それでも作ったけど、あれは
「本当に……はるっぺなんですね」
彼女は、六角明日香だ。
「わわっ、四門さんちょっと待って。そんなに色々一気に言われても伝えられませんからね、ええ、ええ」
「はるっぺは何と……?」
「ん……その。あーちのこと、もう許してるよ、仕方がなかったんだよって」
六角明日香は両手で顔を覆い、小刻みに震えはじめた。
「ごめん……ごめんねはるっぺ……あの時はどうかしてた……今は後悔してるの……」
俺は言った。
「では、認めますね? あなたは六角明日香さん。そして、四門遥香さんを殺し、火をつけた」
「はい……認めます……きちんと罪を償います……」
思ったより呆気なかった。抵抗されたりシラを切られたりすることも覚悟していたのだが。
スウェットの袖でぐしぐしと涙をぬぐった後、六角明日香は言った。
「九楽さん、でしたっけ。警察に行く前に、はるっぺともう少しお話することはできますか」
「大丈夫ですよ。四門さんも話したいみたいですし」
六角明日香はスマホをテーブルの上に乗せた。
「小説の結末。自分で書きました。これを、むーむーねことして発表してもいいかどうか、ということです」
そして、兄に結末部分を読ませた。
「そうですか。エリーナは王太子と逃避行するんですね?」
「はい。二人の行く末は誰も知らない。そういう終わり方にしました」
俺には小説のことはわからない。果たしてそういう終わり方でいいのか判断がつかない。しかし、六角明日香は、四門遥香に頼らずに自分の作品を自分で終わらせた。問題は、四門遥香の気持ちだ。
「四門さんは……これでいいよ、と。エリーナを一番近くで応援していたファンとしては、王太子と結ばれてほしかったと」
「じゃあ、いいの、はるっぺ」
「四門さんは仰ってます。四門遥香という名前が残せないのは悲しいけど、エリーナというキャラクターが読者の心に残ればそれでいいんだと」
六角明日香は、再び涙をこぼし、長い間嗚咽を漏らしていた。俺と兄は、ただただ彼女が落ち着くのを待った。
スマホを兄が預かり、タクシーを呼んで六角明日香を北森市の警察署に連れて行った。俺たちは中へは入らず、見送ることにした。もう彼女は逃げないだろうと確信していたからである。最後に彼女は俺たちに向かって深々と礼をした。
そして、ネットカフェでまだ寝ていた五味を回収した。五味が腹が減ったと言うので定食屋に行った。
「弟くんナイス判断! オレが解決したってことになったわけね?」
「うん、まあ、そういうこと」
「よっしゃ! 頼まれたのは六角明日香の親で捕まえたのは六角明日香だけど……事件を解決したことには変わりない!」
そう言ってサバの味噌煮をどんと米に乗せ、味噌汁をかけてかき回し始めた。兄が六角明日香のスマホを取り出した。
「これ、淳史くんに渡しておくね。むーむーねこの編集とは連絡つくんでしょう?」
「おう。こりゃ一大ニュースになるぞ? やべぇ、美容院行ってこよう」
俺は言った。
「その前に服装何とかしたら? いっつもヨレヨレじゃないか」
「新しいシャツ買うか! 金なら気にしなくていい! これから入ってくる!」
もう北森市に用事はない。また夜行バスに乗って湊市に戻り、ようやく五味と別れることができた。
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