2-7
いよいよ異界の檻へ行く日が来た。遼に七宮家まで転移させてもらい、和室の鏡の前に立った。七宮さんが遼に木でできた札を渡した。
「これで檻に入れます。遼、頼みましたよ。少しでも危険を感じたら、お二人を戻すように」
「承知いたしました」
今度は七宮さんは着いてこない。万一莉子ちゃんが暴走した場合、こちらの世界に来ないよう、外側から異界の門を閉じる必要があるのだという。その代わりの案内人となるのが遼だ。
「ほな、行くで」
遼に付いて、鏡の中に入った。また、あの感覚だ。やはり意識が飛び、気付くと蛇の姿で兄の腕に抱かれていた。
「ふふっ。こっちのナオくんも可愛いね」
首を伸ばして辺りを伺うと、遼の姿も見えたのだが、店での姿でも鴉の姿でもなかった。人間の形をしていて、下は裾の広いズボンをはいていたが、上半身は裸。背中から黒くて大きな翼が生えていた。
「へへーん。カッコええやろ? これがおれの異界での姿!」
「……ヒョロガリ」
「なんやてー! 踏んづけるで!」
「もう、二人とも緊張感持ってよ」
俺は兄の肩の上に乗った。遼の先導で、小さな神社のようなところまで来た。草木がぼうぼうに生い茂り、長い間手入れをされていないように感じた。お堂だろうか、木造の建物の中に入ったのだが、古い畳が敷かれただけの何も無い部屋だった。
遼が言った。
「ほな、檻への入口開けるで。お二人は大丈夫やと思うけど……多少気分悪くなるかもしれへん」
遼は部屋の中央に七宮さんから渡されていた札を置いた。
ずず……ず……ずず……。
札から紫色の染みが広がった。それはおそろしい速さで畳を覆い尽くし、兄と遼の足元にまできた。
「う……うわっ……あっ……」
声を上げてしまったのは俺だけ。兄が頭をさすってくれた。ふっと下に落ちる感覚に襲われた。視界は閉ざされ、頭と腹に感じる兄の体温だけが頼りだ。
「カズくん……カズくん……!」
「うん。ここにいる」
どんどん、どんどん、下へ下へ。遼がいつもとは違う低い声で言った。
「しばらくかかるで。体感は人それぞれやけど。大丈夫やから、落ち着いてや」
きゅうっ、と頭がいたくなってきた。脳みそを直接針で刺されているようだ。その痛みに耐えきれず、俺は意識を手放した。
「……ナオくん、着いた。どう? 動ける?」
「う、うん……なんとか……」
辺りはほの暗く、湿っていた。兄は既に徒歩で移動を始めていた。遼が先を歩いており、いくつもの分かれ道を迷わず進んでいた。ところどころ、岩のようなものが地面から突き出ており、鍾乳洞と言えなくもないが、それは紫色で、あの染みの色と同じだった。
「もうすぐやで。覚悟しぃや」
遼は大きな岩の壁の前で立ち止まった。遼がそこに手をかざすと、壁が段々薄くなり、木の格子が見えてきた。その奥に……それはいた。
覚悟なら、していたつもりだった。それは全く足りなかったのだと、まざまざと思い知らされた。
――ああ、莉子ちゃんが。あの莉子ちゃんが。
二メートルはあろうかという肉塊。手も足もない。ただ、頭がある。いくつもある。莉子ちゃんの頭が。肉塊に埋まっている。そして、その顔は苦悶の表情を浮かべ、口をぱくぱくさせている。
「ああ……あ……ああ……」
かすれた醜い声。アイドル「りこ」の歌声はもう戻らない。
「……一条莉子さんですね」
兄が一歩前に歩み出た。兄の肩に乗っている俺も莉子ちゃんに近付くことになる。ギロリ、と一つの顔と目が合ってしまった。目を閉じたくなったのだが、今の俺にはまぶたがないらしい。そのまま見つめ合う形になってしまった。
「僕は九楽和美と申します。お兄さんの一条正人さんの依頼でここに来ました。預かっている物があります。これを」
兄は格子の間から用紙を差し入れた。どうするのだろう、と観察していると、しばらくして、肉塊の中央にある頭から黒髪がしゅるっと伸び、用紙を巻き取った。
頭は一斉に紙の方を見つめている。読んでいる。読むことができるのだ。
――伝わってくれ、みんなの想い。
じっと待っている間に頭の数を数えたのだが、九つだった。「ぱっしょんナイン」のメンバー数と同じ、九。
「うわぁ……ああ……あ……!」
叫び声と共に、肉塊が大きく震えた。用紙がはらはらと地面に落ちた。そして、肉塊は右に左に転げ、自らを打ち付けだしたのだ。轟音が響き、格子もガタガタと揺れている。遼の声が飛んだ。
「おれに寄って! すぐ戻れるように!」
兄は素早く遼の隣に移動した。兄の首の近くにいるので、兄がごくりとつばを飲み込んだのがわかった。兄は言った。
「まだ粘ろう。落ち着いたら話ができるかもしれない」
俺たちは、暴れる莉子ちゃんを見守った。なぜ彼女が苦しんでいるのか、俺にはさっぱりわからなかった。メッセージを読めば、勇気づけることができる、そう楽観的に捉えていたのだ。
「ううっ……うっ……うっ……」
莉子ちゃんの動きが止まった。九つの顔からは、一斉に涙が流れていた。
「わたしは……こんなの嬉しくない……知ってるんだから……知ってるんだからぁ……!」
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