第9話 男女観、読書観
新たな登場人物、永沢について。今までの素朴な印象のワタナベが、彼と出会うことでちょっとしたデビュー体験をする。方向性は勉学ではなく、オトナの世界に対してだが。だからと言ってワタナベの本質は変わらず、永沢を通して改めてキズキという人間の一歩奥まで思いを馳せる。僕はそういう気づきが好きだ。気の置けない友人というのは往々にしてそういうものかもしれないし、その出会いの尊さをしみじみと感じるのは大人になってからでも良い。
読み手の立場での感想は、男女観が完全一致してしまい、何を書こうかと困ってしまった。男女観を掘り下げても、誰も僕の男女観には興味がないだろう。一応僕の作品傾向を披露しておくと、永沢を二回り庶民的にして、思いやりを7割増しにした既婚男性が女主人公を性的に癒すものが多い。永沢の鋭さのままで共感的な思いやりを持つことは難しいと思うし、既婚にするのは僕が不倫を好きなのではなく、主人公と距離を置かせたいのだ。男であろうが女であろうが、悩み、旅立ち、自分の人生を歩んで、また戻ってくる。それが僕の王道ストーリーだ。
その時に独身同士だと距離が近すぎるので、一人で旅立つためにそういう恋愛面での障害を置く。性的な関係はあるが、実は恋愛はしていない。仲間を見つけた喜びなのだ。不倫もので一括りにされがちだが、そういう気持ちで書いている。おそらく壮年で冒険などしないというのが世の中の当たり前なのだろうから、そう見えないのだろう。でも、僕は壮年こそ人生の冒険の山場だと思っている。
若者ほど体力も無く、可能性の幅も無く、やり直しもききづらい。それまでの自身で蒔いた種を刈り取りつつ、社会的にも期待されている。ネガティブな見方をすれば、非常に重苦しい。だが、ポジティブな見方をすれば、半仮想期のような子ども時代や青年期を終えて、いよいよ人間とは何かに向き合える時期である。本気で向き合って、ようやくわかる人間の温かみやありがたみがある。
古典や名作が時代を超えて読み継がれているのはそのためだろう。良い作品とはものさしだ。若い頃に読んで、意味のわからなかったものが、年をとって読み返すと見方が変わっていることに気づく。好きな登場人物がそうでもなくなったり、好きでなかった人物に共感している自分がいる。社会的な属性が変わっていくことで、つまらない設定だと思っていたものの意味がわかったりと、自分の人生で得たものがより作品を豊かにするのが面白い。
それに、生身の人間ではだめな時がある。自分を見つめ、適切な指南を受けたい時だ。生身の人間には、その人自身の課題がある。それを一旦横に置いて、相手のことだけに専念して接するというのはとても難しい。そんな肝心な時に本は良い。本は常に語るが、読み手に干渉しない。自分に合った内容、自分が受け取れるだけのものしか手に入らない。
彼らほどたくさん、何度も本を読む人間ではない僕だが、良書を読むこと自体は大切だと思っている。
▼僕が書いた男女観の物語『タペストリー』▼
※不倫が含まれます。
https://kakuyomu.jp/works/16818093082082063691/episodes/16818093082082901140
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