第9話

 俺の意識は肌に馴染のあるマットレスの上で呼び戻された。


 両膝を立てて座り、両腕は後ろに伸ばしてついている。

 ぼーっと間抜け面で口が半開きになっていることに気付いた俺は、ゆっくりと口を閉じるが、視線は何処ともなく宙に彷徨さまよわせる。


「……これは、つれーわ」


 独り言のように呟いた。実際この部屋にいるのは俺ひとりなのだから、文字通り独り言なのは間違いないが、でも俺はいるはずのないそいつを見詰める。


 そいつは……だったそいつは、今にも泣きそうな顔をしているが、涙は出ていない。幽体は涙を流すことができないのだろうか。


 そしてふと、俺は自分の頬を伝う水滴に気付く。

 俺は泣いていた。


 まるで、目の前の泣くことができない少女の代わりに涙を流しているかのように。


 さっきまで感じていた痛みがフラッシュバックして、同時にネガティブな感情も込み上げてくる。


 幽霊とはいえ女の前で泣くのはやっぱり恥ずかしい気持ちがあり、俺は軽く鼻をすすり、やや俯きながら「ふう」と息を吐き出す。


「で、どうするんだ? 俺を殺してどっか連れて行くのか?」


 今度は独り言じゃない。目の前の少女に訊いている。

 しかし彼女は微動だにせず、なにも応えない。


「まだ憎いか? あの母親」


 なにも応えない。


「復讐、したいか?」


 なにも応えない。


「……俺が代わりに殺してやろうか?」


 ここで彼女は初めて表情らしい表情を見せた。


「見つけてやるよ。……見つけ方はわかんねーけど。でも、なんか、興信所? みたいなところで探してもらうことはできると思う」


 少しだけ迷うような素振りを見せたけど、ブンブンと大きく左右に首を振る幽霊。


「いや、あれか。さすがに刑務所に入ってるか。だってお前、殺されたんだもんな」


 俺が体験したが、全くの作り物だった可能性も否定できない。目的はわからないけれど、この幽霊が俺にあの映像を見せることで、痛みを体感させることで、なにかしら俺の身体に影響が出るのかもしれないし、俺は騙されてるだけなのかもしれない。


 でも俺は、あれは幻なんかじゃないって、半ば確信している。実際にあった出来事だと、何故か思えたんだ。


 目の前で激しく首を振り続ける少女の幽霊を見ながら、こいつは俺に一筋の悪意もないことが、俺にはわかるから。


 いい加減にやめないと首が取れちゃうんじゃねーかとか、死人どころか実体のない幽霊の心配をしていると、またも俺の意識は飛ばされる。


 今度は浴室ではなく、キッチンだった。


 は立っていて、目の前には見知らぬ若い男が尻もちをついていて、怯えた表情で俺を見上げている。


 これは……死んだあとの記憶か? 地縛霊みたいになって、新しい入居者と相対している、そんなシーンなのか?


 その男はを見て腰を抜かしてしまったようだ。

 そして、そいつは言う。


「ご、ごめんなさい……ゆ、許して……」


 半透明みたいな腕に鳥肌が立った感覚は気のせいだろうけど、俺の心臓はキュッと小さくなったみたいな気がして、多分それはも同じだったはずだ。


 なぜならそれは、が散々口にしたセリフだったから。


 許しを請うて、謝って。それでも、許されなくて。


 俺もも目を閉じる。俺達は、あの地獄を脳裏に過ぎらせ、物質として存在しないはずの両手両足に幻肢痛みたいな痛みを感じ、泣けないの代わりにやっぱり俺は泣いてしまう。


 その後も、若い女だったりおっさんだったりおばさんだったり、何度も新しい住人と思しき奴らの前に姿を現しては、怖がられ、そしられ続けた。


 たいていは逃げるようにして出ていってしまうし、恐怖のあまりその場でベランダから飛び降りた奴もいた。


 これが、事故物件の真相だったんだ。


 そう、こいつは俺に、自分の死ぬ様と、死んでから今に至るまでの経緯を伝えたかったんだ。


 なんのために――。


 訊いても応えてはくれないだろう。でもそれは言いたくないからではなくて、言えないからなんだと思う。


 自分でもわからないから、伝えようがないんだろう。

 でも俺は、なんとなくだけど理解してやれる気がする。


 若くして命を奪われた少女の気持ちを、少しだけならわかってやれる気がするんだ。


「……………………」


 最後の回想を体感し終えた俺は自分の身体に戻っていた。


 映画を全編観終わった後みたいな爽快感はもちろんなくて、只管ひたすら気分が悪くなる動画を何本も強制的に観せられた気分だったけど、少なくとも俺は、この部屋に居座る地縛霊に対する見方がだいぶ変わったことは間違いない。


「なあ」


 俺から少しだけ距離を取っている幽霊は、何故か身体をビクつかせてこちらを盗み見るようにしている。


「さっきも訊いたけど、どうしたいんだ?」


 多分この少女はまだ混乱しているんだと思う。今までの入居者に対してしていたアプローチも、どうしたらいいかわからず、ただ自分の存在に気付いてもらいたかっただけなんじゃないか。もちろん俺に対しても同じことを考え、自分の死にざまを見せたんだろう。


 それにしても、何かしら要望はあるはずだ。どうしてほしいだとか、自分はどうしたいだとか。


 でもやっぱりそいつはなにも言ってはくれなくて、曖昧に首を傾げるばかりだった。


「……自分でも何がしたいかよくわかんないんだったら、とりあえず一緒に暮らしていくか」


 ええっ! みたいな表情を作った。こいつの表情らしい表情といえば、今にも泣きそうなクシャッとしたネガティブなものだけだったけど、こんな顔もできるのか。


「どうせ二部屋あるし、俺、家に呼ぶような知り合いもいないから、別に自由にしてて構わないしさ」


 なにかを考え込むように首を捻った後、慌てたように今度は俺に弁明するかのように手を振ってみたり、頭を下げたりしている。


 なにが言いたいのかさっぱりわからん。


「じゃあ、そういうことで」


 俺は掛け布団を自分の胸の辺りまで掛けて横になる。


「あ、夜中にあんまり起こすなよ」


 一度身体を起こして注意しておく。また上に乗られたりしていちいち起こされたらかなわねーからな。


 名も知らぬ幽霊は、俺の忠告に対して恐縮してる感じを見せながら、何故か一瞬怒ったような表情にもなったりもして、意外と感情豊かじゃねーかこいつとか思いながら、俺は自分でも驚くべき早さで入眠した。



 無惨な殺され方をした少女は、自分が地縛霊になってしまったことに気付き、それでもどうしたらいいのかわからず、来る人間全員に接触を試みた。


 しかし、誰も彼も、自分を見て恐怖するばかりで、ひとりとして理解を示そうとはしなかった。


 そりゃあそうだろう。幽霊と楽しくお喋りしようなんて奇特な奴がいるわけないからな。


 多分、成仏できるもんならさっさと成仏したいはずだ。

 でも、それは許されなかった。

 彼女の母親が彼女を許さなかったように。

 思えば、彼女は何者にも許されないでここまできた。

 生きてる時も、そして、死して尚。


 誰も彼女を、彼女の存在を認めてはくれなかったんだ。


 ……だったら、一人くらい居てもいいだろう? そんな奇特な奴が。

 せめて、いつか彼女が誰かに許されるその時までは。



 あれから数ヶ月が経ち、今では普通に見えるようになってしまった。


 俺は今日あった出来事とかを一方的に話しかけるけど、向こうはやっぱり喋ることはできないらしく、身振り手振りでリアクションを返してくれる。そんな彼女と、まあそれなりに良い関係は築けていると思う。


 なぜか最初は、隅っこの方で体育座りをして、たまに目が合うと慌てて逸らすみたいなことをしていたけど、こうして会話に応じてくれていることを考えると、やっと俺にも慣れてくれたみたいだ。


 さて。これからどうしたものか。


 この子の母親を見つけ出してぶっ殺すにしても、この子を成仏させる手立てを考えるにしても、働きながらあれこれやるのはそれなりに大変だ。


 なら、しばらくは幽霊との同居生活を楽しんでみるのも悪くないんじゃないか?

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Life of Abuse 入月純 @sindri

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