第8話

 一つ、この経験で学んだことがある。


 確かに、痛みは激しく、耐え難いものではある。しかし、実際の自分がやられているわけではないという安心感みたいなものもあって、ギリギリ音を上げないことができるみたいだ。


 でもはリアルに自分の身体を傷つけられてるわけで、そんなの我慢できるわけなんかなくて、どこかで男より女の方が痛みに強いみたいなことを聞いたことがあるけど、そもそもそんなレベルの話じゃないだろこれは。


 は自分の指を見ながら、やっぱり泣いていた。


 どれだけ泣いても涙は枯れることはなく、俺はの涙を、やっぱりどこか他人事みたいに思いながらなにも感じない振りを続けた。


 その後も虐待は繰り返される。


 ある時は窒息直前まで何度も首を絞められ、ある時は全身に熱湯をかけられ、ある時は湯船に溜めた水に頭を抑え込まれながら意識を失う寸前まで何度も突っ込まれた。


 何度も、何度も、何度も、何度も。


 釘を使って背中に文字を彫られたこともあった。『しね』とか『ごみ』とか、下手くそな文字を背中一面に彫りやがった。


 いつも女はブツブツと文句を口にする。ギャンブルに負けた腹いせだったり、仕事の同僚に対する恨み節だったり、雨が降ってただとか蚊が飛んでただとか。そんなクソみたいな理由で、甚振いたぶり続けた。


 そして次第には憔悴していった。当然だ。


 ここは地獄だ。あの女は悪魔だ。こんなの人間ができる所業じゃない。


 が何をして、こんな仕打ちを受け続けているのかはわからない。でも、何回も繰り返している内に、恐らくだが、には一切の過失はなく、ただあの女の憂さ晴らしでしかないのではという疑惑はとっくに確信へと変わっている。あの女のたかぶっていた感情は、を虐待した後にはだいぶ落ち着いているみたいで、いわばただの八つ当たりでしかないことは明らかなのに、なにもしてやれないどころか、この場に存在すらしていない俺にできることは一緒に痛みを感じてやることだけだった。


 そして俺は、に対して同情心に近い感情が生じていたが、この想いはもしかしたらそれ以上の感情なのかもしれないとも思う。


 目の前で誰かが虐待されていたら「可哀想」「助けてあげたい」と、まともな神経をしていたらたいていの人間は守ってやりたくなるだろう。


 しかし、それはあくまでもでしかない。所詮は他人事だ。


 今回、俺は自分自身がやられている。と一緒に、痛みを味わい、絶望を味わい、終わりのない無間地獄でただただ絶えていることしかできない。ただ、それでも完全に他人というわけではないつもりだ。痛みを、文字通り共有しているのだから。「わかるよ」だなんて、無責任に共感を口にする人間が世の中にはごまんといるが、そいつらと今の俺は明確に違うと断言できる。俺はを救いたい。心から。自己保身でもなく、自己満足でもなく、というもうひとりの俺を、なんとか助けてやりたいと願わずにはいられないのだ。


 でも、俺にはなにもできない。声を掛けることさえも。


 だから、必死に願う。僅かでも、存在し得る可能性が訪れることを。


 たしかにここには希望なんてない。ただ、それでも、僅かにでも、希望を抱いてもいる。


 どこかに救いはあるのではないか、と。


 いつか、あの女が心変わりをして、「今までごめんね」と謝罪しながら、ここから出してくれるのではないだろうか、と。

 そんなこと、あるわけがないのに。


 そして、終わりは唐突にやってくる。


 その日女が用意してきたのは、アイスピックだった。

 今までもカッターやらハサミやらを使って傷つけられてきたが、これは初めての道具だった。


 女はに正座を命じる。

 狭い浴槽内では、痩せ細った少女の身体とはいえ、スムーズに動くことはできないのだが、それを見ながら女は怒りをたぎらせていく。


 なにも言わなかったのは、これからそのストレスは全てスッキリさっぱりと吐き出すことができると確信しているからなのだろう。


 正座をしていると、まだ何もされていないのに膝がズキズキと痛む。


 明らかに栄養失調で、運動だって全くしていないから、脂肪も筋肉もなくなってしまった下半身は骨張っていて、正座をするだけなのにゴツゴツとした痛みを感じてしまっているんだろう。


 もちろん、女にはそんなこと関係ない。

 ズブ。

 そんな音がハッキリと聞こえた――気がした。

 でも、その音が発した場所は特定できた。の太腿だ。


 薄くなって血管が浮き出ている皮を容易に突き破り、最小限しか付いていない筋肉に、無慈悲な穴を開ける。


 声なんて出なかった。

 俺も、も。

 涙も出なかった。もはや枯れていたのかもしれない。


 ズルズルと音を立てながら抜かれたアイスピックの針の部分はの血液でしとどに濡れていた。


 普段、注射器が刺さる瞬間と抜き出す瞬間にさえ目を逸らしてしまう俺だが、その時は目を逸らさなかった。自分の足に刺された、注射器の何倍もの太さの針を、俺は怒りを孕ませた目で睨む。そのままその目を女の顔に滑らせると、そいつは案の定、恍惚こうこつの笑みを浮かべていた。


 でもは顔を上げない。もはやそんな気力もないのか。

 ブツブツと許しを請うているのは変わらずだが。


 ふたつ目の穴が穿うがたれた太腿を、俺はやはり憎しみの目で見詰める。


 俺にはそれしか出来ないからだ。

 は泣かなかったが、俺は泣いていた。

 痛みのせいだけではない。悔しかったからだ。


 なにも出来ず、延々と理不尽な暴力に晒されるしかない現実に、俺は失望と憤怒をい交ぜにした感情を表現することもできず、ただ耐える。


 右足の穴は九個目を数えた。そして次は左足にターゲットを変更し、次々に躊躇なく凶刃は振り下ろされる。


 俺は心を無にしようと努めるけど、できるわけがなかった。


 一方で、は譫言を続けるのみだった。

 はもう、壊れていた。

 なにも考えることができなくなっていた。


 きっと、そんなの様子が気に入らなかったんだろう。

 そして、それは突発的な怒りからだったんだろう。


 女はゆるりとの太腿からアイスピックを抜き出すと、突然の左目に突き刺した。


「んぎっ」


 短く悲鳴を上げたは、なにが起きたのか理解できていない様子だった。


 しかし、確実に命の危険を察知していたはずだ。

 本能が告げていたはずだ。

 もう、助からないと。

 眼球を貫き、もしかすると脳味噌にまで達していたかもしれない。

 女はすぐに引き抜き、第二撃を同じ箇所に放つ。


「ぐぎゃ」


 そんな短い悲鳴をまた上げた


 意識はなかったのかもしれない。


 でも、は言葉を続ける。それは今まで聞いてきたどの言葉よりも、心に迫るものだった。


「許して……ください……」


 右目から涙が零れ落ちる。枯れたはずの涙が、最後に振り絞ったかのように、一筋だけ頬を伝う。


 女はその右目にアイスピックを突き刺した。

 はもうなにも言わない。意識だってもうない。

 でも、俺は痛みを感じている。感じ続けている。

 女は何度も俺の眼球めがけて武器を振り下ろした。


 何度も、何度も。


 執拗に俺の眼窩の中をグチャグチャと掻き回したり、脳味噌を掻き出すかのように奥へ奥へと差し込んでは手首を返してなにかを取り出そうとしていた。


 刺される度に襲われる激痛に俺は顔をしかめていたけれど、どこかホッとしていた。


 やっと抜け出せる。あの地獄から。


 俺はが救われた瞬間、やはり泣いていたと思う。

 そして、が最期に流した涙を思い出す。


 あの涙は許しを請うとか、そんな懇願からのものではなかったのではないか。


 という、喜びの涙だったのかもしれない。


 最早原型を止めぬほどにめちゃくちゃにされてしまったがどんな顔をしていたかなんて確認のしようもないけれど、そんなことは些細なことでしかなくて、俺はを解体し続ける女をどこから見てるのか自分でもわからない視点で眺めていた。


 痛みは続く。でも俺は悪い気分じゃない。


 ……だからと言って、もちろん良い気分なわけもない。


 俺はその女の顔を記憶に焼き付けるようにして凝視する。


 一生忘れられないくらいに、今まで記憶しようとしたどんな知識よりも確実に脳に刻むために、怨嗟えんさを込めた視線を向け続ける。


 俺はこの狂った女のことは生涯忘れないと誓う。


 そして、ただただ理不尽な被害に遭い続けたのことも。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る