第7話
……これは、なんだ。どういうことだ。あいつの不思議な力で風呂場に飛ばされたのか? なんだ、死ぬ前に身を清めろとでも言いたいのか。
しかしいくら察しの悪い俺でも、視線の先にある自分の手足が自分のものではないことくらいはすぐに気付く。じゃあこれは誰の身体なんだなんてことはもちろんわかるわけがないが。ただ、線の細さや肌のきめ細かさから、女であるのは間違いなさそうだ。
バン! という大きな音を立てて開かれた浴室のドアの外には、見知らぬ女が鬼の形相で立っていた。
どいつもこいつも人んちに勝手に入りやがってどうなってんだよこの家はという文句は心の中で呟くしかなくて、俺が取り憑いてしまっている身体の持ち主は、俺の意思とは関係なく身体を震わす。それはもちろん寒さで震えているわけではなくて、目の前のこの女に対する恐怖心だ。
ちょうど、さっきの俺が震えていたのと同じように。
「……立て」
命令口調でその鬼女は俺を立たせる。俺は断ることなんてありえないとばかりに命令に従う。
そいつは、俺の身体を汚らわしいものでも見るかのように
まさか冷水でもかけようってんじゃないだろうなとか呑気な予想をした俺は、自分をぶん殴りたくなった。
でも、ぶん殴る必要はなかった。なぜならその女が俺をシャワーヘッドでぶん殴ったからだ。
左のこめかみ辺りに激痛が走る。俺の身体じゃないのになんでこんなにいてーんだよ。
そんな俺の不満なんて知ったことではないとばかりに、二発、三発と追撃を受け、俺は立っていられなくなる。
俺はほぼ無意識に
しかし、目の前の女の攻撃は止まない。手の上から何度も何度もシャワーヘッドを叩きつける。
「ごめんなさい……! 赦してください……!」
俺は絞り出すように許しを請う。
こいつが何をしたのかは知らないが、この女は謝ったって許してくれるような奴じゃないだろ。
だが、俺の予想を裏切り、女は武器を持った手を止める。
「……なにを許して欲しいんだ?」
酷く耳障りな声だった。なにを許して欲しい? そうだ、なにを許して欲しいんだよ。俺にもわかるように説明してくれ。
「……ごめんなさい。もうやめて――」
「なにを許して欲しいかって訊いてんだよ!」
こんなにも醜悪な顔を人はできるんだなってくらい、女の顔は醜かった。
それは、美的感覚がどうのとかって話じゃなくて、まさしく人の皮を被った悪魔って感じだ。
その悪魔は、頭を抱えるように蹲っていた俺の側頭部を、ガードするかのように置かれた指の上から思い切り殴りつけた。
「いっ……」
俺は短い悲鳴を上げる。多分、中指と薬指の骨は折れている。
ここで初めて俺は頭部からの出血に気付いた。
そりゃあ、あんだけ殴られたら血も出るよな。とかそんなことを考えてる内に、俺は身体を浴槽に蹲らせていた。
「立てよてめー!」と怒声を上げながら、今度は背中を殴りつけている女に「ごめんなさい……許してください……」と哀願を続けることしかできない俺。
……何分経っただろうか。
女はゼーゼーと息を切らしながら、武器にしていたシャワーヘッドの先が欠けていることに気付いて軽く舌打ちをした後、俺の頭にそれを投げつけて浴室を出ていった。
俺は動かない。
なあ、もうどっかに行ったぜ、あの化け物。治療した方がいいんじゃないか? 結構出血してるし、医者に診てもらった方がいいと思うが。
自分の身体じゃないから後遺症だなんだとかは気にならないが、流石にこれだけの怪我は絆創膏一枚でどうにかなるものでもないだろう。
というか、俺はすっかりこの状況に慣れてきていた。
そういえば、俺はたった数分前までは、自室で幽霊相手に怯えていたはずなのに、知らぬ間に他人の身体に憑依したかのように、こんなことになっている。
「許してください……許してください……」
もはや
完全に俺の想像でしかないけど、多分これは親から子への虐待だ。
この身体の持ち主は多分十代だろう。そしてあの女は四十代くらいに見えた。ここは俺の家で、今いるのは俺んちの浴室だけど、でも恐らく俺はさっきまで寝てた和室にはいないだろう。
というか、どこにもいないだろうな。これは幻覚だ。俺は幻覚を見てる。というより、夢を見ているようなものだ。
そして、その夢を見せているのが、他ならぬさっきの幽霊女であることは間違いないはず。
なにが起きているのかはよくわからないけど、状況の把握はだいたいできてるつもりだ。
では、ここからなにが起こるのか。俺は、なんのためにこんなものを見させられてるのか。その目的が知りたい。
そこまで考えた俺は、またもやさっきと同じ眼球が転がるような感覚の後、浴槽に座っていた。
また風呂場かよ。どんだけ風呂が好きなんだよ――とは当然思わなくて、多分ここが虐待部屋になっていたんだろうなと見当をつける。
それが正しいことは、数秒後に現れた悪魔によって証明される。
「立て」
俺は立つ。また俺に対する暴力が行われるであろうことは疑いがなくて、痛みを共有している俺は文句の代わりに嘆息しか出ないが、俺が出しているのは文句でも嘆息でもなく涙だけだった。
「おい、なに泣いてんだよ。私が悪いことしてるみたいじゃないか」
徐々にボルテージが上がっていくのが感じ取れるくらいに、女は感情の全てが表情に出ていた。
ここで俺は女の手元に目がいく。もしかしたら今日は別のもので殴るつもりじゃないだろうなという危惧は、そいつの右手に握られているライターを見て戦慄に変わる。
おいお前何をするつもりだよ。まさか俺を焼き殺そうってんじゃねーだろうな。
「手、出せ」
俺はごめんなさいと声を震わせ泣きながら身体を硬直させる。
「さっさと出せよ!」
とても女の握力とは思えない強さの力で俺は強引に手を前に出させられ、「手を開け!」という命令に逆らえない俺はゆっくり五本の指を震わせながら広げた。
女は
「うぐぐぐぎ……ゆ、許して……ください……」
聞く耳なんて元々持っちゃいないだろう。俺は嗅覚も共有しているらしく、焼け焦げていく自分の指の焦げ臭い香りと、熱さというよりは単純な激痛を指先に感じ、俺が流す涙に自分の涙を重ねる。
実際、どれくらいの時間が流れていたんだろう。
多分、一分とかだったとは思う。でも俺は三十分くらいにも感じたし、長い長い火炙りに処された人指し指はグチャグチャに火傷していて、俺は目を背けてしまう。
いつもだったら、指に怪我を負った時「シャンプーの時凍みるだろうな」とか、「仕事もやり難いだろうな」とか、日常生活の影響を考えてしまうけれど、これはそんなレベルじゃない。というか、これ元に戻るのか? 自分の身体じゃないとはいえ、人差し指がなくなるってかなりシンドいぞ。みたいな他人事みたいに考えていた俺は、自分の愚かさを反省する間もなく、俺の中指が焼かれる痛みに悶絶する。
このババア……まさか全部の指を焼いてくつもりじゃねーだろうな。
「ごめんなさい……許してください……」
許してなんてもらえるわけがないことを、俺は知らないのかと叱責したいのもやまやまだけど、何を言っても無駄だってことなのかもしれない。
俺がさっき幽霊相手に啖呵を切ったのと一緒で、なにか言わずにはいられないってだけなのかも。
そうやって意識を別の何かに向けないと、次々と焼かれていく指が黒ずんでグチャグチャになって見るに絶えない焼け焦げた肉の塊に化けていく現実に絶えられそうになかった。
でも、痛みは当然続く。指先だけとはいえ、火で焼かれる痛みはこんなにもキツイものなのか――って、俺はまだ痛みだけだからいいけど、俺は違う。リアルに自分の身体が焼かれてるんだもんな。
俺は当然俺が涙を流し続けてるのはわざわざ鏡を見ないでも頬を触らないでもちゃんと感じてるし、俺の絶望感だって共有している。
いたずらで子供に炙られたトカゲみたいになってしまった五指を見下ろしながら、俺は逆の手を掴まれたことに更なる絶望感を抱いてしまうけれど、俺はお経みたいに口内でブツブツと謝罪を繰り返すだけで当然抵抗はしない。
歯痒さは多分にあったけれど、俺ができることはなにもない。
ただ、この地獄の時間を俺と只管共有しているだけだ。
一本一本焼かれていった指は、薬指まで辿り着いたところで飽きてしまったらしく、左手の小指だけは綺麗なままの状態で虐待の儀式は終わりを告げた。
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