第6話

 風邪を引くことはなかったが、起床後にも悪寒が続いていた。


 これから本格的な夏が始まるわけで、季節の変わり目でもある六月の寒暖差にやられてるのかもしれないけれど、俺は病んでいる暇なんてない。


 俺にはやらなければならないことがある。

 もちろん、仕事だ。


 朝から何度も溜息を吐き出しながらだるい身体にムチを入れて出勤し、その日もなんとか無事に乗り切った。


 そしてその夜。

 今日こそは絶対にあいつの存在を暴いてやる。

 俺はもうなんだか知らないけれど、ハイになっていた。


 来るなら来いって気持ちは数日前からあったけれど、今はもうむしろ出てこいという気持ちの方が大きいくらいだ。


 ちょこちょこ存在をアピールしやがって。

 俺をビビらせてそんなに楽しいか?

 上等だ。やってやるよ。文句があるなら面と向かって聞いてやる。俺だってただでやられるつもりはないぜ。


 意気揚々と幽霊との面会に臨んだ俺だったが、思い虚しくそいつは一晩中現れることはなかった。


 そう、一晩中だ。


 完徹した。一睡もしていない。鏡を見ると、目の下のクマも気になるところだが、それ以上に眼窩がんかの深さを実感できるほどに両目は落ち窪んでいた。ハッキリ言って、異常者に見えるくらいに人相が変わり始めている。


 不思議なもので、深夜は眠気なんてなかったのに、朝になると途端に睡魔がやってくる。


 おいおい、いい加減にしてくれよ。今の俺が望んでいるのは幽霊との邂逅すいまであって、睡魔なんて呼んじゃいないんだよ。

 虚しく嘆息した俺は、その日も這いずるようにして出勤し、同僚に顔の変化を驚かれながらも無難に仕事を熟した。



 そして夜。突然俺を襲ったのは件の地縛霊なんかじゃなく、虚無感と怒り、そして焦燥感だった。

 睡眠不足も影響しているのであろう、俺はもう正常な思考が出来ていなかった。


 さっさと出てこいこの野郎!


 そんな風に大声で叫びたいのを必死で抑えて、「なんなんだよ……」と絞り出すように口にしたのが精一杯の抵抗だった。


 今朝まではまだ少しは余裕があった。……いや、余裕があると自分自身に思い込ませたかっただけなのかもしれない。

 空元気を演じることで、まだ俺には余裕があるという気になりたかっただけなのかもしれない。


 しかし実際はもう限界だった。


 正体のわからない地縛霊に翻弄される毎日。流石に仕事にも影響が出ている。鏡を見る度、ますます憔悴していく自分の顔に少し引いてしまう。


 もうやめてくれよ。俺がなにをしたって言うんだ。

 俺をどうしようって言うんだ。なにか迷惑かけたか? 気に障ることでもしたのか? それともお前は無差別に人を苦しめて楽しんでるだけなのか?


 もうわからない。考えたくもない。

 俺は自分がどうしたいのかもわからなくなってきている。

 ヤバい。

 自分でも精神的にかなり追い詰められていると感じる。


 別に、特別霊障に遭っているわけでもないし、そんなに気にすることだってないのはわかっているんだ。


 でも、それでも。


「…………寝るか」


 晩飯も食う気がせず、俺は床に就く。

 もういいや。どうでも。命を取られるわけでもないなら、気にしてたって仕方ない。


 時刻は二十時を過ぎていた。だいぶ日が伸びてきていることもあり、まだ宵の口とも言えるこの時間に俺は深い眠りに落ちていく。


 しかし、時計の長針が一周する間もない、入眠してからたった数分後、俺は腹の上に重さを感じ、ほとんど無意識に腹に乗っているであろう対象物を払い除けようと手を横に薙いだ。


 グイっと、何かを押した感触が手に残っている。


 寝ぼけまなこを薄っすらと開き、ぼーっとしたまま右手を見つめる。

 あれ? 今なにを払い除けた? あれは、何か人のような感じが――


「……!」


 今度は金縛りなんかにはなっていなかった俺は、俺の左側でうずくまる影に眼をみはる。


「お前……誰だ」


 なんとも弱々しい声掛けだった。気力も体力もなかったからというのは言い訳で、やっぱり俺はビビってたんだ。というか、ビビらないわけがない。なぜならハッキリと見えているから。


 俺の双眸そうぼうは、ハッキリとを視認しているのだから。


 しかしそいつは姿勢を少し直したものの、特に動く気配がない。片方の膝を立て、逆足は内股でペタンと女の子っぽく座っている。


 やはり、女の霊だ。この部屋にいるのは……この部屋の住人を呪っていたのは、間違いなくこいつだ。


 どうする……どうしたらいいんだ。まさかこんなに至近距離でまともに向き合うとは思ってもいなかったから、どう対応したらいいかも分からない。


 いや、このままじゃやられる。呪い殺されて、俺もこいつと同じく幽霊の仲間入りをさせられてしまう。


 ……そうだ。ええと、般若心経だったっけ。こいつを除霊すればいいんだ。――いや、除霊とかできるわけがないだろう。というか、般若心経なんて俺は知らん。


 明らかに混乱している自分にツッコミを入れながらも、俺はそいつから片時も目を離さない。いつ飛びかかってくるか、もしくはなにかしら呪いの呪文でも唱えるかもしれないからだ。


 しかし、そいつは俺をじっと見つめるだけだった。表情までは確認できない。というか、顔立ちもぼやけている。


 いや、そもそもさっきこいつは俺の腹の上に乗っていたんだ。もしかしたら首でも絞めるつもりだったんじゃないか。


 くそっ。殺されてたまるか。絶対ただじゃ死なねーぞ。


 ……なんか、段々腹が立ってきた。なんで俺がこんなにも追い詰められないといけないんだ。幽霊が生きてる人間より強いだなんて、俺はそんなの認めねー。生きてる人間の方が強いに決まってる。なんで死んだ奴に俺の命を好きに弄ばれなきゃいけねーんだよ。


 俺はギリギリと音を立てながら歯ぎしりをする。別に威嚇するつもりなんてなかったけど、でももう苛立ちがピークを超えていたんだろう。


「お前――」


 怒鳴り声を上げかけたとほぼ同時に、そいつは立ち上がった。


 咄嗟とっさに身構える俺だったが、立ち上がって正面から対峙しようと腰を浮かした俺に、そいつは覆いかぶさるように飛びかかる。


「うわっ」


 再びケツをマットレスに落としてしまう。そんな情けない俺の顔めがけてそいつは手を伸ばす。


 まさか物理的に攻撃されるのか? いや、さっき俺の腹の上に座ってた時も、もしかしたらこうやって魂を引っこ抜こうとでもしていたのかもしれない。もしくは、このままマウントを取られてボコボコに殴ってくるのかもしれない。


 どう防御したらいいものかと逡巡しゅんじゅんしたのも束の間、そいつの指が俺の額に突き刺さる。


 ――そう、突き刺さったのだ。


 俺は脳味噌をグチャグチャにされるイメージをして吐き気を催すが、そいつは俺の脳に対し攻撃をすることはなかった。


 いや、攻撃はしていたんだ。


 俺の脳味噌に指を突っ込みながら微動だにしない女の幽霊を俺は恐れながらもめつける。


「……なにをするつもりなんだよ」


 当然のようになにも答えない。こいつとの問答なんてできないだろうとわかってはいたし、期待はしていなかったけれど、このあと、なにをされるのかに見当もつかない恐怖心が俺の心を蝕んでいくと同時に、怒りの感情も取り戻す。


 俺は幽霊女の腹をぶん殴ろうと手を薙いだ。しかし、そいつの腹はまるで幻かのように揺らぐだけで、俺の手は何も触れない。さっきは触れることができていたのに。――いや、触れた気がしただけ、なのか?


 そういえば、こいつも俺の頭に刺した指は実態がないかのように感触はないし、なのかもしれない。


 それでも俺は、俺の怒りを伝えずにはいられなかった。


「……殺すなら殺しやがれ。でもな、殺されたら俺もこの部屋で地縛霊になって絶対てめーを殺してやるからな」


 死んでる奴に殺してやるなんて殺害宣告がなんの脅しにもならないことくらい、テンパってる今の俺にだってわかってる。


 でも、たとえ虚勢だとしても言ってやりたかったんだ。


 俺の虚しい啖呵に対してなにも言い返さなかったそいつはしかし、少しだけ悲しそうな表情を浮かべた――ように見えた。


 どういうことだ? という疑問が脳裏を掠めた俺の意識は一瞬途切れ、あたかもも目ん玉がぐるりと一回転したみたいな気持ち悪い感覚を経て、自分が浴槽に横たわっていることに気付く。

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