妖華伝・祓

七沢ななせ

第1話 謎の少女

「ここか。例の陰陽師が住んでいるというのは」


 風にあおられ、燭台の炎がちらちらと揺れる。清明が慌てて、風に消されぬよう、手のひらで囲いを作る。


「そうみたいですね。それにしてもひどい家だ」


 考明は鼻に皺をよせ、目の前に建つ家を見つめた。

 木の板を張り合わせたような造りをしている。扉は薄い木の板一枚で、草ぶきの屋根は傾いている。本当に人が住んでいるのかと疑いたくなるほど荒廃した家だった。


「空き家じゃないんですよね?」

 孝明はひそやかな声を出した。

「藤壺様にいいつかってきただけのこと。詳しいことは聞いていない」

 清明はため息をついた。


 紫色の夕闇の中に、ぽつんと建つ家――というより小屋からは、物音ひとつしない。孝明は、清明の精悍な顔を見上げた。清明の表情からはどんな感情も読み取れない。しかたなく戸を叩こうと一歩前に出たその時、清明の鋭い声が制した。


「待て、孝明。この気配」

 清明の顔が引きつっていた。孝明も身を固くしてあたりの気配を探った。けれど、孝明にはなんの違和感も感じられない。肌にあたるのは、夏の終わりのぬるい風だけだ。彼は何を感じているのだろう。自分に感じられない何かを感じ取っている。孝明はため息をついた。都随一と囁かれる陰陽師である彼と自分ではやはり、天と地ほどの差がある。


「感じないのか」

 清明は言う。孝明は浅く頷いた。

「はい、何も」

 少し考えてから恐る恐る口にする。

「あの、清明様。今日は戻りますか? また日の高いうちに来れば……」

「いや、いい」

 孝明はおとなしく引き下がる。清明は頑固だ。一度言ったことはてこでも曲げない。清明はすっと人差し指を伸ばし、自分の左胸に当てた。するすると指を滑らせ、白い狩衣の上に五芒星を描く。

「おまえもこれくらいしておけ。妖の気配がする」

 孝明はぎくりとした。妖の気配など感じなかった。陰陽師のはしくれとして、妖の気配やにおいはよく心得ている。

(やはり、まだまだ未熟か)

 がっくりと首をたれ、ため息をついた。


 と、清明の涼しい声が耳を打つ。

「ごくわずかだが、用心に越したことはない」

 孝明も慌てて左胸に五芒星を描いた。

「いくぞ」

 清明が草を踏み分けながら家の前に立ち、こぶしで薄い戸を叩いた。そして、一歩下がり、戸が開くのを待つ。

二人とも口を開かなかった。ただ、虫の声だけが静寂の中に響いている。固唾をのんで見守っていると、戸がことっと動いた。

(いよいよくるぞ)

どんな妖が出てくるのかと身構えた。

(……は)

現れた人影に孝明は拍子抜けした。


「はい。なんでしょう」

 夕闇の中に、か細い少女が一人立っている。十五、六だろうか。平民らしく、黒髪を肩のあたりでひとくくりにし、小袖に若草色のしびらをまとっている。鮮やかな黄色の腰布がくっきりと映えている。

「なんだ。普通の女の子じゃないか」

 思わずぼそりとつぶやいた。大げさに騒ぎ立てた清明をちらりと睨む。そして何気なしに顔を上げたその時だった。

(あ……)

 孝明は少女の顔に目を留めた。

(なんだあの目は)

 不安げに揺れる瞳の色は、深い緑色だった。整った白い顔立ちに、変わった色の目だけがはっきりと主張している。光の加減かと目をこする。けれど、何度見てもその目は緑色だった。


「おまえが、市井の陰陽師か」

 清明はいつも通りの平淡な声で言った。

「え……?」

 少女は何を言われているのかわからない、と言った様子で小さな声を漏らした。

「我々は内裏から遣わされた者だが、折り入って頼みたいことがある」

 清明がくるりと振り返り、呆けたように突っ立っている孝明を指で手招きした。なぜか力の入らない足を動かして、孝明は清明の隣に立った。

「これは私の連れの陰陽師だ。なかに入らせてもらう」

 清明の顔を上げる。この男が、この陰陽師が、この掘っ立て小屋に足を踏み入れるとは。


(さぞ汚いだろうな。床なんかも腐ってるだろうし)

孝明自身も気乗りしなかったが、一人で待っているわけにもいかない。重い息を吐いて、少女を押しのけるようにして中に入って行く清明の背中を追う。少女はおびえた顔で都からの使いを見つめている。棒切れのように立ちすくみ、大きな瞳を見開いていた。強引に中に入って行く己が、強盗でもしているかのようだ。申し訳なくなってうつむく。


「なんですか、あなたたち」

 震えた声で言う。

「私が陰陽師だなんて誰がそんなことを……」

 この少女が陰陽師だなんてとてもではないが信じられない。うさぎのように震える彼女は、今にも壊れそうなほど危うく見えた。これ以上追い詰めてはいけない。もう帰ろうと声を出しかけたその時だった。清明が鋭い声で言い放った。


「とぼけても無駄だ。おまえのことは調べてある」

 迷いなく土間に足を踏み入れ、一度目を閉じ、開く。

「な……」

「女の身でありながら陰陽術を使い、魔を払うことができるとか。市井の者は口をそろえて言っていたぞ。おまえの術は本物だと」


 孝明は拍子抜けした。藤壺様から命を受けてからまだ五日も経っていない。いつのまに手を回していたのだ。


「たとえ本当に違うとしても、おまえからは妖の気配がする。陰陽師として放ってはおけぬ」

 清明の口調は有無を言わせない。少女の頬が歪んだ。

「妖? 私からですか」

 清明は何も言わない。ただ、うなずいた。

「そんなことあるはずがないです。生まれてこのかたそんなものと関わってきたことなんて一度もないですから」

 彼女の言葉はよどみない。清明は苛立たしげに目を光らせた。

「とぼけるのが上手いな。明夜めいや――」


 明夜。その名が埃っぽい空気に溶けて消えて言った瞬間、目の前の少女の表情が崩れた。苦笑が怯えの仮面を破って滲みだし、少女の白い面に広がっていく。彼女はうつむきがちにぽつりと言った。

四条清明しじょうせいめい

 清明の唇がほんの少しだけ動いた。

「知っているのか」

 少女は頷いた。目だけを上げ、下から清明を見やる。

「都随一の陰陽師だとか」

 彼女の声はもう震えていなかった。その凛とした声音に驚いて見上げた彼女の顔には、怯えの色などみじんも浮かんでいなかった。


――別人だ。


 ぞくりとして、孝明は目の前に現れた見知らぬ少女を眺めた。人間のものではないような緑色の瞳が恐ろしくなる。


「それで、お内裏様がなんの用かしら」

 明夜はそう言って、壁にもたれた。彼女の言葉と態度に眉を顰める。思わず口を開きかけたが、清明に制された。

「言葉に気を付けた方がいい。私は気にせぬが、おまえはこれから内裏に行ってもらうことになる」

「はあ?」

 明夜は眉を顰め、首を傾げた。

「下働きにでもするつもり? 私はお断りよ」

 清明はまったく動じずに言葉をつなげる。

「違う。おまえの陰陽術を藤壺様がかってくださったのだ。お前に頼みたいことがあると――」

「お断りするわ」


 明夜にものおじする様子は一切見えない。


「藤壺様の頼みでも、宮中に関わるのはごめんよ。面倒だから」

 勅使の目の前で、面倒、という言葉を言ってのける少女に内心舌を巻く。

「話くらい聞け。おまえには後宮を守ってもらいたいのだ。最近後宮に怪しい気配があってな。我らは内裏と帝の守護で手が回らない。だからおまえに」

 明夜はため息をついて言葉を押し出した。

「怪しい気配、って。お妃さま方や下働きの噂じゃないの? 別に私が――」

「人が二人死んだ」

 明夜が口をつぐんだ。気だるそうだった表情が張りつめる。しばらく清明を見て、口を開く。

「死んだの?」

「ああ。惨たらしい死にざまだった。皆喉を喰い破られ、血まみれになって倒れていた」

 清明が口を閉じると、明夜は何かを思案しているように眉を寄せた。長いまつ毛に縁どられたまぶたを上げる。その奥の緑の目がぎらりと光っていた。


 「あなた、私のことをどれだけ知っているの? 私が何をしているのか知っている? 村のみんなの言うことだけを信じたら、酷い目に合うわよ」

 清明は、黙って明夜を見つめるばかりで何も言わない。明夜は声を低くして続けた。

「――魔を持って魔を制す。それが私のやり方」

 孝明は、その言葉が示す意味に気づき、はっとする。

 彼女から妖の気配がした理由が、やっとわかった。目の前に立っている少女は、陰陽師などではない。

「妖使いか」

 清明がやっと口を開き、彼女はかすかにうなずく。

「わかったでしょ。私は陰陽道なんて知らないし、もちろん内裏での礼儀も知らない。……なんで私なの」

 明夜は厳しい目で清明を見やる。彼は毛一筋ほどの感情も見せず、淡々と言った。


「九条の鬼を祓ったのはおまえだろう」


 明夜が黙り込むのと、孝明が驚いて目をむいたのは同時だった。

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