歌のない世界

半ノ木ゆか

*歌のない世界*

 それは、街中に蟬の大合唱が響き渡るころだった。

 青空の下。いつものように一人で路上ライブの準備をしていたら、警官に止められた。

「どうしてダメなんですか。許可は取ってますよ」

 俺は反論した。だが、警官はなぜだか終始無言だった。身振り手振りを混じえながら、ギターやスピーカーを指すばかりである。

 これではちっとも埒が開かない。俺は自分の口を指差して、手を動かしながら言った。

「それでは意味が分りませんって。ちゃんと口があるんですから、言葉で教えてくださいよ」

 警官は俺の手の動きに目を丸くして、それから戸惑うように俺の顔を窺った。気がつくと、通行人たちも似たような反応を示していた。俺の姿を離れて眺めて、目が合うとすぐ視線を逸らす。小さな子が俺を指差し、親がそれを制した。

 スマホも楽器もすべて没収された。しばらくすると、彼女が迎えに来た。俺たちはその足で病院へ向うことになった。

 診察室で、医師はむつかしそうな顔をしている。彼女が心配そうに俺のほうを見た。

 俺を迎えに来てからというもの、彼女は一言も口をきいてくれなかった。初めのうちはさっきの警官のように、身振り手振りをたくさん俺に見せてきた。何かを聞き出そうとしているようにも思えたが、意味がさっぱり分らない。俺も彼女も、手話は知らないはずである。

「ごめん。俺にはよく分らないから、口で話してくれないか?」

 俺はまた、てきとうな手振りを混じえてそう言ったのだった。彼女はショックを受けたように固まって、それ以来、身振り手振りさえしてくれなくなってしまった。

 俺が警察のお世話になったことに怒っているのだろうか。病院に足を踏み入れて、そうではないと気付いた。医師も、看護師も、言葉らしい言葉を発しない。皆、手話でやりとりしていたのである。

 何かが、明らかにおかしかった。俺は、自分の頰を思いっきりつねってみた。確かにひりひりと痛む。

 そんなはずはないと思っていたが、もう信じるしかないようだ。俺はいつの間にか、すこしふしぎな世界に迷い込んでしまったのだ。一見、元いた世界と変りない。だが、少くともこの街の人々は、俺の声を言葉として認識できないらしかった。

 医師は深い溜息をつくと、彼女に手話で話しはじめた。俺の容態を説明しているようだ。口も使うには使うが、「あう……」とか「やい」とか、舌っ足らずな声が時々挟まるだけである。まるで赤ん坊に戻ってしまったみたいだ。

 医師はこちらに向き直り、俺の腕を指差した。手を見せろ、ということらしい。

 俺は素直に従った。医師が眼鏡を掛け直し、丹念に診察する。手のひらを撫でたり、腕の筋をなぞってみたり。もちろん、俺の体には悪いところなんて一つもない。

『耳が聴こえる人を呼んできて下さいませんか。手話が分らないんです。』

 俺は、なんとか自分の状況を理解してほしくて、自分の手帳に書いて見せた。だが、二人とも首を傾げるばかりである。

 声が聴こえないならまだしも、文字も読めないとはどういうことだろう。机の上にはパソコンも置いてあるのに。

 俺は画面を指差して、キーボードを叩く仕草を真似てみた。医師が頷いて、席を譲ってくれる。

 声も文字も通じないのなら、絵や写真で説明するしかない。だが、いざブラウザを開こうとして、俺は途方に暮れてしまった。

 画面に、俺の見知った文字は一つもなかった。曲線が絡み合った、意味不明の画像が表示されている。キーボードに印字されていたのは、数字でもアルファベットでもなく、手話をかたどった手の絵文字だった。

 なんてこった。ここは、文字も話言葉も使われていない、手話だけの世界だったのだ。


 俺は家に戻り、彼女から手話の手ほどきを受けることになった。「こんにちは」や「ありがとう」などの簡単な挨拶からはじまり、身の周りの物の名前を少しづつ憶えてゆく。初めは似たような動きや形を区別できなくて、たくさん間違えたし、間違えた。だが、人間の脳はすごいもので、毎日手話漬けの暮しを送っていると、次第に目や手が慣れてくるのである。彼女の付きっきりの特訓のおかげだった。一人でネットも検索できる。図書館で絵文字の本を読み、歴史を調べることだってできた。そして、三週間も経つ頃には、この世界のあらましが分ってきた。

 ここには、元の世界にあった色々な物事が欠けていた。マイクやスピーカーなど、音を扱う機械はどこにも存在しなかった。もちろんラジオもない。テレビは無音である。コンピューターの性能は俺たちのものと遜色ないが、スマートフォンを含む携帯電話がなかった。人間の歴史上、そもそも電話が発明されなかったのだ。

 文字が使われていないのは、さっき触れた通りである。よく考えてみれば当然だった。漢字も平仮名もラテン文字もアラビア文字も、皆、話言葉を表すために発達してきたからだ。そして、驚いたことに数字もなかった。俺たちに馴染みのある0から9までの数字は、昔のインドの文字に由来すると聞いたことがある。代りに人々は、手話の様子をそのまま絵に描いたり、縄を模した図形を書いたりして、出来事や数を記録してきたらしい。

 夜、ベランダに出て街を眺める。ここはいくぶん暗いが、駅のほうは燃えているみたいに眩しい。遠くの電光掲示板に手話のアニメーションが流れている。色とりどりの光があちこちを飛び交っていた。ただ、ぞっとするほど静かだ。車のクラクションも、踏切の警報音もない。手と光に支配された世界である。

 俺は今まで、音楽にどっぷり浸かった生活を送ってきた。歌は俺の命である。だから、この世界で歌や楽器を見つけられなかったことが、俺にとっては一番さみしかった。

 俺ははじめ、この世界の人々は耳が機能しないのかと思っていた。ところが、実際には、体のつくりは俺たちと全く一緒だった。聴力はあるから、鳥の声を楽しんだり、風鈴のに心を落ち着かせたりすることだってできる。ただし、声を言葉として使わないせいか、耳の良さは赤ん坊と同程度らしかった。音を聴き分ける力が鍛えられていないのである。俺たちが毛布の触り心地を楽しんだり、花の香りに心を落ち着かせたりするのと大差ない。まして、音楽から物語を感じ取ることなど、とうてい無茶な話だった。

 自分の部屋のクローゼットは、もうさんざん探し回った。だが、思い出の楽器も、書き溜めた楽譜も見つからなかった。この世界の俺は、音楽を全然知らなかったらしい。一体、何に喜びを見つけて生きてきたのだろう。声と音の世界から来た俺には、想像もつかない。

 静かな街に俺の溜息だけが響く。目に映る景色は彩やかだが、心の風景は灰色だった。


 レストランに音楽はなかった。話声も聴こえなかった。お昼のテラス席で人々は皆、楽しそうに手話でやりとりしている。

〈ちょっと、疑問に思ってることがあるんだけど〉

 フォークを置いて、彼女に話しかけた。すると、何人かが俺をこっそりと見た。俺の不慣れな手話がたどたどしく見えるのだろう。まるで、幼い子の舌っ足らずな言葉のように。

 俺は、手の動きを小さくして訊ねた。

〈どうして人間は、手で話すようになったんだろう〉

 彼女は右手でフォークを持ったまま、左手だけで言った。

〈私、今まで考えたこともなかったよ。当り前すぎて〉

〈よく考えてみろよ。犬も鳥も、声で話すじゃないか。蛙や鈴虫だってそうだ。人間だけが手で話すだなんて、やっぱり俺は納得がいかない〉

 俺は、思っていたことを素直に伝えた。俺にはずっと、この世界の存在そのものが不思議でならなかったのだ。

 彼女はちょっと首をかしげて、思いもよらないことを言った。

〈だって、口って物を食べるためにあるんでしょ。お食事中に声で話したらお行儀悪いよ〉

 俺は目を丸くして、それから苦い顔をした。こっちの人たちはそんなふうに思っているのか。

 彼女は空を見て、思い出したように言った。

〈人間に近い生き物――チンパンジーとかゴリラを思い出してよ。鳴声も使うけど、表情とか体の動きも目いっぱい使って、自分の気持を伝えるよね。あと、前にテレビで観たことあるよ。人間の頭の中は、目から取り込む情報がほとんどを占めるんだって。だから、ヒトが視覚を使ったやりとりをするように進化したのは、当然の成り行きなんじゃないかな〉

 俺は、ぐうの音も出なかった。


〈今夜は君に、聴いてほしいものがあるんだ〉

 ある日、俺は彼女に切り出した。

〈何? 急に改まって〉

 にこにこする彼女をリビングのソファーに坐らせた。少し離れて立ち、深呼吸をする。

 俺はすっかり手話を会得して、かなり流暢に話せるようになった。人前でやっても、もう誰にも笑われないほどだ。休んでいた職場にも復帰している。

 だが、この世界に本当の意味で馴染めたわけではない。気付くと鼻歌を歌っていたし、机の端をピアノのように叩いていた。心にぽっかりと開いていた穴を、埋めようとするかのようだ。俺はやっぱり、音楽のない暮しには耐えられなかったのだ。

 彼女には、俺が別の世界から来たということを明かしていない。俺は少し考えてから、こう言った。

〈今からちょっと、珍しいことをしようと思う。たぶん、君は初めて目にするだろうから、きっと戸惑うと思うんだ。《こいつは何をしてるんだろう》って、不思議に感じるかもしれない。でも、どうしても聴いてほしかったんだ〉

〈いいよ〉

 彼女が微笑む。

〈早く見せて〉

 本当はギターの一本でもあると良かったのだが、あいにく俺が持ち合せていたのは自分の声だけだった。わくわくした彼女の表情をちらりと見て、俺は口を開いた。

 彼女が目を丸くする。

 歌い出しの音程がちょっと外れた。ひと月近く歌っていなかったせいで、感覚を忘れていたのだろう。だが、すぐに正しく戻せた。失いかけていた自分を、取り戻してゆくみたいだった。

 これは、彼女との出会いの曲だった。俺が歌手を目指して路上ライブを始めた頃、初めて足を止めてくれたのが彼女だった。それがきっかけで、俺たちは付き合うことになった。

 彼女はいつでも、俺を支えてくれた。落選続きの時はそばにいて慰めてくれたし、俺の歌がSNSの動画に使われた時は、一緒になって喜んでくれた。

 厳密に言うと、ここにいる彼女はあの人とは別人だ。彼女は俺の歌を聴いたことはないし、出会いのきっかけも違ったはずだ。だが、俺は音楽の力を確信していた。音楽は国境を越える。言葉が違っても、音楽は心に届くのである。心からの本物の気持で歌えば、彼女にもかならず伝わるはずだと、俺は真っ直ぐ信じていたのだった。

 歌っているあいだは、仕事の嫌なことも、これまでの苦労も忘れられた。つらい時は、大好きなバンドの楽曲を聴いて自分を奮い立たせた。歌を仕事にできたらどんなに素敵だろうと、何度も思った。その夢を叶えるために、今まで頑張ってこられたのだ。

 俺は自然に笑みをこぼしていた。俺は幸せだった。だが、サビに入るまさにその時、彼女がぴしゃりと言い放った。

〈もうやめて〉

 俺は一瞬、彼女の手話が分らなかった。俺の心にひびが入って、ばらばらと崩れてゆく。彼女は眉尻を下げて、申し訳なさそうに言った。

〈あなたの声は、確かに綺麗に響くと思うよ。その口ぶりに、何かしらの気持を込めてるっていうことも分る。でも、どんな意味かは分かんないの。興味のない抽象画を見せられてるみたい。近所の人に聞かれたらおかしいと思われるから、もう変な声を出すのはやめて〉


 俺は駅前の家電量販店に入った。店員たちが俺を見て、一斉に〈いらっしゃいませ!〉の手話をしてくれる。

〈あの、すみません〉

 品出しをしていた若い店員にをかける。彼は笑顔で対応してくれた。

〈なんでしょう。何かお探しですか?〉

 俺は、「マイクとアンプが欲しい」と言おうとして、困ってしまった。マイクもアンプも、この世界には存在しない言葉なのだ。

〈音を……大きくする機械って、売ってませんでしょうか〉

 店員は首をかしげた。

〈音を遮断する壁などはあるかもしれませんが、音を大きくする製品は、当店では取り扱っていないかと思います〉

〈でも、それがあるととても助かるんです。街中に美しい音を響かせたいんです。良い話だと思いませんか〉

 彼は眉をハの字にした。

〈良い音が大きくなるなら構いませんが、もし、嫌な音が増幅されてしまったらどうするのですか。風鈴を吊すのではいけないんでしょうか〉

 俺は、質問を変えることにした。

〈では、こういう機械を造ってもらえないでしょうか。音を蓄える道具です。周りの音をそっくりそのまま取り込んで、ボタンを押すと、動画のようにいつでも再生できるんです〉

 店員は、夢の話でも聞いているかのようにぼんやりとしてしまった。

〈うちは販売店ですので、オーダーメイドはちょっと……。そもそも、どうやって音を取っておけばいいのでしょう〉

 俺は、老舗の家具屋に入った。木製のテーブルや棚だけでなくて、金属製のおしゃれなスタンドランプや、革製のソファーも置いてあった。

〈何か用かね〉

 店の奥から、とんかちを持ったおじいさんがやってきた。塗料で汚れた、年季の入ったエプロンをかけている。

〈実は、作ってほしいものがあるんです〉

 彼は「ふっ」と笑った。

〈何でもいい、さあ言ってみろ。この道に入って長いんだ。わしに作れない物などない〉

 俺はギターの絵を取り出して見せた。彼は眉間にしわを寄せた。

〈何だね、この妙ちきりんな物体は〉

〈要するに、木でできた箱です。中が空洞で、この丸い部分が穴です。太さの違う針金が渡してあって、こちらの先っぽにあるネジで、針金の張り具合を調節するんですよ〉

 彼は怪しむように腕を組んだ。

〈作れないことはないが……こんな物、何に使うんだ〉

〈この針金を指で弾くと、綺麗な音が鳴るんです。鳥の声や風鈴の音とは、また違う趣があります。心が落ち着きますよ〉

 彼は耳を真っ赤にして、ぷるぷる震えながら言った。

〈わしに、こんな子供のおもちゃを作らせようというのか……〉

 俺は慌てて絵をポケットにしまい、笑顔を取り繕った。

〈では、こういう家具はどうですか。揺れる金属の皿や、革を張った箱がいくつか並んでいて、それらを叩いて音を出すんです〉

 ドラムのことである。

〈なんだ、その何の役にも立たなそうな器具は。考えるだけで騒々しい〉

 俺は必死だった。

〈お願いです。あなただけが頼りなんです。この地球を音でいっぱいにしたいんです。聴いたらきっと、あなたも心躍りますよ〉

 彼の火山が爆発した。

〈わしは、家具と静けさを愛する男だ。そんなやかましい代物、この宇宙には存在しないんだっ!!〉

 俺は一人、公園のベンチに腰かけていた。街中を隈なく探してみたが、楽器らしい楽器は売っていなかった。

 唯一買えたのは、救命用の小さなプラスチック製の笛だった。口に咥えて息を吹き込む。「ぴょー」という高い音が、夏空にむなしく響いた。また深く溜息をつく。

 この街には、いや、この惑星には、歌が本当に存在しないようだった。俺はどうしてこんな世界にやってきてしまったのだろう。どうしてこんな仕打を受けなければならないのだろう。

 元の世界が恋しかった。仕事に時間を追われて、大変な毎日だったはずが、終ってみると案外楽しかったと思えるのだ。俺は結局、デビューはできなかったが、少いながらも俺の歌を聴いてくれる人はいた。その人たちのありがたみに、今になってやっと気付く。

 音楽がなければ、俺は死んだも同然だった。何もかもやけくそになって、俺は歌いはじめていた。

 周りには誰もいないようだった。音程もリズムもしっちゃかめっちゃかだった。ただ、気持の走るままにがむしゃらに歌った。喉が潰れても構わない。どうせ、この世界では使い道がないんだから。

 俺は最後まで歌い切った。歌ったら何だかすっきりした。声と一緒に、心の膿を出し切ったらしかった。俺は公園の真ん中で、肩で息をしながら立っていた。少しほっとして、気付いたら目が潤んでいた。

 その時、ぱちぱちぱちと、どこからか拍手が聞こえた。

「大いに力のこもった、素敵な歌声ですね。私もいつの間にか、心を動かされてしまいました」

 俺は耳を疑った。手話ではない。俺の知っている日本語に、そっくりな言葉が聞こえてきたのだ。

〈どうしてその言葉を――〉

 手話で尋ねかけて、俺はやめた。拍手をしたその人物は、白杖をついていたのだ。

「どうしてその言葉を知ってるんですか」

 年配の女性だった。彼女は不思議そうに言った。

「『どうして』って、あなたも目が見えないから、口言葉くちことばを身につけたんじゃないんですか」

「口言葉、ですか」

「ええ」

 彼女は言った。

「この国に昔から伝わる言葉ですよ。私みたいな人は、手を使った言葉が扱えませんから、目が見えない人のあいだでいつの間にかこしらえられていたんです。その言葉が、長い時の流れの中で細々と続いて、今もこうして使われているんじゃありませんか」

 言葉がそっくりなので、もしかすると、俺と同じ世界から来たのかもしれないと期待していたが……どうやら違ったようだ。俺は少し残念に思った。

「立話もなんですから、どこか落ち着けるところがあるといいんですけれど」

「ああ、そこにベンチがありますよ」

 俺は、この世界で初めて自分の正体を明かした。元の世界のことも、色々と話した。その世界では、健常者が口で話していること。手話は耳が聴こえない人や、声を出せない人しか使っていないこと。音を蓄えたり、声を遠くへ届けたりする機械のこと。そして、面白い楽器や美しい歌の数々――。彼女は一つ一つの話に驚き、わくわくし、とても喜んでくれた。

「まさか、そんな世の中があるだなんて……」

「信じられませんか?」

 尋ねると、彼女は「いえいえ」と言った。

「初めは、あなたが嘘をついているんじゃないかとも思いました。でも、まこととしか思えないんです。あなたの歌は、素晴しい響きでした。こちらの世にも歌はありますが、とてもとても易しいものしかありません。目の見えない子供が、遊びとしてやっているくらいです。それに比べると、あなたの歌はびっくりするほど作り込まれています。豊かな音色や込み入ったふしは、大昔からのひらめきの積み重ねがなければ辿り着けないでしょう。あなたはやはり、声と音の国からおいでになったのですね」

 彼女は「そうだわ」と、思い出したように言った。

「蟬って、木に止っているのが見えるものですか? 声はよく聴こえますでしょう。家からここまでの道のりでも、よく鳴いているので、どんなさまなのか知りたいと思っていたんです」

 意識すると、だんだんと蟬の大合唱が聴こえてきた。俺はハッとした。俺はこの世界に迷い込んでからというもの、手話を使いこなそうとに必死になっていた。そのあまり、蟬の鳴声すら耳に入らなくなっていたのだ。

「それで、どうなのかしら。私、目が見えないから、あなたが頷いているかどうかも分らないんですよ」

 俺は慌てて「少し考えさせてください」と言った。それから、彼女がはっきりと景色を想像できるよう、なるべく具体的に説明した。

「……蟬って、木の肌と色が似てるんですよね。だから、パッと見では分りません。夏の日差は強いので、木の葉の影が濃く落ちて、余計に紛れてしまいます。でも、近付いてじっと探せば、体を震せて鳴いてる姿がよく分りますよ」

「そう……」

 彼女は満ち足りた表情で言った。

「他の人の見ている景色を覗くのって、こんなに面白いものなんですね」

 彼女は入道雲のほうを向いて、うっとりしたように言った。

「それにしても、あなたの歌声はとても良かったわ。また聴かせて下さる?」

 今度は別の理由で目が潤んだ。俺の心は、また鮮やかになった。

「もちろんです! さっきは激しすぎましたから、もうちょっと優しい歌にしましょうか」

 俺は立ち上がると、胸いっぱいに夏の空気を吸い込んだ。

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