後編

 九月七日となった。全軍が染谷台そめやだいに結集した。秀忠の本陣に、武将が集められた。上田城攻略の方策を決定しなければならない。軍議に列する者どもは、上田城攻めには冷ややかである。余計なことには関わりたくはない、という空気が満ちている。とりとめもなく時間が流れた末に、ようやく口を開いたのは本多忠政であった。

「東海道を進む本隊とは、九月十日に美濃赤坂で落ち合う手筈と聞き及んでおります。上田城攻めはこれまでのこととして、すみやかに西に向かうべきと存ずるが、如何か」

 多くの者が頷き、大方の意志がそこにあることが感じられた。一同は、榊原康政の様子をうかがっていた。歴戦の猛将の一言を、皆は求めていた。しかし、康政は押し黙ったままである。沈黙を吹っ切るように、忠隣が言った。

「上様の江戸出府は遅れております。九月一日に発たれた、と聞いております。今頃は浜松の辺りではなかろうかと存ずる。さらに、行く手を流れる木曽川、長良川を渡らねばなりませぬ。また、難攻の岐阜の城を攻め落とさなければ先には進めませぬ。本隊が美濃赤坂に到着するには、まだ二十日やそこらはかかるでありましょう」

一座の中に真田信幸もいた。端の方に、消え入るような姿である。味方をかくも苦境に陥らせたのは、彼の父の仕業である。

親子、兄弟が敵味方に分かれて戦うのは、戦国乱世の習いで、致し方のないことである。勝敗は時の運。しかし、勝負の機会は一度だけではない。生き残るためには、先途の時に備えて、あらかじめ手段を講じておく。昌幸と信繁は石田方に与しながら、信幸は徳川に付ける。これで、真田は次の機会を確保した。真田昌幸は冷徹である。その冷徹さがなければ、乱世を生き残れない。しかし、彼のような父をもった子は苦しいものだと忠隣は思うのである。

 徳川の軍勢が上田城を囲んだのは、今回が初めてではない。十五年前のことである。この時、真田昌幸は徳川の傘下にあった。ところが、家康は北条と同盟を結ぶため、真田が知行する沼田領を北条に譲り渡すことを約した。沼田領を譲渡せよとの家康の命を昌幸は拒絶する。ただちに、普請を終えたばかりの上田城に、兵二千と籠もった。これを徳川の軍勢八千が包囲した。昌幸は奇策を繰り出して、四倍の包囲軍を翻弄した。二十日余の攻防の末、徳川勢は千三百の死傷者を出しただけで、得るものもなく撤退した。徳川の戦歴に残る汚点のような、忌まわしい天正の上田合戦であった。榊原康政は、その時の思いが蘇ったのであろう。今ここで上田城の包囲を解いて西進すれば、またも昌幸にあしらわれて敗北した事実が残る。それは受け入れがたいとの思いが榊原にはあったのであろう。

 九月八日をもって上田城総攻撃と定めた。包囲の布陣を指図された武将は、それぞれに本陣を出て行った。

 忠隣は前線に立って、上田城を眺めた。城とも呼べない、ひと揉みすれば握り潰せるほどの砦である。このような小城が、大軍の攻撃を幾度も撥ね返すとは信じられない。あの城は徳川と戦うために築かれたようなものだと、忠隣は思った。十五年前には父も、このようにあの城を眺めていたのだろうか。天正の上田合戦の指揮を執ったのは、大久保忠世であった。

 翌朝である。上田城を囲んだ陣営から、寄せ太鼓が響いた。三万余の軍勢が、ひたひたと城を包み込んだ。大手門が開き、真田の騎馬隊があらわれる。寄せ手の一隊が、これを追った。騎馬隊は頃合いを測って鉄砲、矢を放っては、門の内に消えた。これを追撃する寄せ手が城門に取りつくと、守兵は櫓から鉄砲、矢を降り注いだ。城の西北東の三面で、同様の攻防が幾度も繰り返された。包囲軍は鉄砲玉を打ち込み、矢を射込むばかりで、渾身の一槌を加えることができない。攻撃側は腰が引けているのである。こんなところで無駄死なぞできるか、という内心が見て取れる。さらには、虚空蔵山や東太郎山、神川のあたりから、不意に狼煙があがる。真田の伏兵が、背後からこちらの隙を窺っているようで、なんとも薄気味が悪い。一迅の旋風のように、騎馬団が本陣を急襲するのではないかとの不安をあおり立てた。そんな攻め手の心底を、表裏比興の老将は見透かしているのだ。

 忠隣は焦っていた。速やかに、攻城戦の決着をつけなければならない。しかし、一撃で上田城を落とすことなどはできない。撤退のための形をつけなければならないのだが、その算段がつかない。時間ばかりが消耗していく。

 日が西に傾きはじめた頃、榊原康政からの伝令が来た。

「ここは一旦、小諸城に入るべきである。矢玉の費えが甚だしく、補給の要あり。また、日が没して野陣を張れば、彼が夜襲を仕掛けてくることは必定である」と、榊原は言うのである。忠隣は諸隊に伝令を出した。染谷台まで軍勢を引かせて、夜襲に備えさせた。そして、秀忠の本隊を小諸城に入れた。

 九月九日の朝である。東海道を進む家康からの使者が、小諸城に着いた。使者は次のように家康の言葉を伝えた。

「本隊は手筈の通り、九月十日には美濃赤坂に到着の予定である。上田城などにかまうことなく、直ちに出立せよ。急ぎに急ぎ、東山道を駆け通して軍勢を美濃まで率いるべし」

 血の気の失せた総大将は、使者に尋ねた。

「上様は、どのあたりまで進まれたのか」

「今頃は尾張に入られて、熱田に着かれたことと存じます」

忠隣は、臓腑を握り絞られるような後悔を感じていた。大局を見誤った。天下の形勢は大きく動いていた。我らばかりが、時流に取り残されてしまっていた。ここに至っては、なんとしても三万八千の軍団を、時流に戻さなければならない。それが彼の責務である。

忠隣は、美濃まで八十里の強行軍の手当を考えた。まずは街道沿いの百姓に命じて、宿場で飯と水を供させる。さらには街道の要所に篝火を焚かせる。これで昼夜を分かたず、美濃まで駆け抜けることができる。これらの手配のために旗本を早馬で発した。

 九月十日の早朝、秀忠の本隊は小諸城を発った。染谷台を通り過ぎる。上田の砦を左に遠望する。上田平を抜けるまでは、ゆっくりと進む。真田のにわか坊主には、こちらの思惑を悟られないように心配りしなければならない。昌幸は、どのような妨害の手をうってくるとも知れない。上田城の囲みは残した。真田が追撃に打って出るのに備えて、後詰めとして残す。本隊が善光寺平に入る頃に、足の遅い荷駄隊とともに、殿にして西進させることとした。

 秀忠の本隊は上田平を抜けると、後は駆けた。息の続くまで、力の限りに駆け続けた。五日もあれば美濃赤坂に到着する心づもりである。ところが、雨に苦しめられた。泥濘に足を取られた。川が増水したために、渡河地を探して廻らなければならなかった。

 九月十三日、秀忠は諏訪に着いた。まだ行程の三分の一を過ぎたばかりである。一息つく間もない。さらに強行軍は続く。

 九月十六日、馬籠に到着する。十七日の早朝、あわただしく軍議が開かれた。その知らせをもたらしたのは本多正信である。彼の子、本多正純まさずみは家康の側近として本隊にいた。正純からの至急の手紙には、次のことが記されていた。

「九月十五日、美濃の国 関ヶ原に於いて、大戦あり。お味方、石田治部少輔が率いる上方軍を破る……」

 その後には、能吏の筆で戦の様子が描かれているのだが、皆にはそれを気にとめる気力も失せていた。天下分け目の戦は終わってしまった。三万八千の大軍は、天下に身を置くところを失い、無用のものとなってしまったのである。重く澱んだ空気のなかで、声を発する者はいない。無為に時間ばかりが過ぎていく。我らは何をなすべきか。方針を早急に決して、ただちに行動しなければならない。この軍議を仕切るのは忠隣の役目である。忠隣が声を発しようとした刹那である。

「上様に、お目にかからねばならぬ」と声が響いた。誰か。一同は声の主をさがした。それが総大将の言葉であることを知るのに、しばらくの間があった。

 本多老人が口を開いた。

「それが上策と心得る。ここに至れば、我らが軽々しく裁量すべきではない。上様のお指図に従うほかに道はないと存ずる」

 榊原康政が続いた。

「わしも、上様に拝謁することが、今一番の肝要のことと存ずる。ことは急ぐ。若殿は単騎なりとも駆けに駆けさせて、一刻も早く上様のもとへ参られるように」

足下の大地が崩れ落ちる心地がして、身の震えが止まらぬ面々であったが、今、やるべきことは決まった。

本多老人が言った。「これからが、われらの戦でございますぞ」

 忠隣は家康のもとへ急行する部隊の手配をした。秀忠には、自らと榊原康政が従うこととした。それに旗本が警護に付き従う。これが一団となって、東山道を駆け抜けるのである。三万余の本隊は、本多忠政が上方まで率いることとした。

 関ヶ原でのお味方大勝利の報とともに、次のような噂も伝えられた。合戦の日の早朝である。桃配山に着陣された上様は、ただちに諸将の手配を指図された。大方の布陣が終わったところで、大きなため息とともに言われた。

「この年になって、このような大戦をせねばならぬとは、難儀なことである。せめて倅が生きておれば、少しは楽ができたものを」

そばの従者が尋ねた。「上様には若殿がおられるではありませぬか」

「あれのことではない。信康のことを言っておるのだ」

この話は、あの御方の耳にも届いたであろうか、と忠隣は思った。若者の心情を慮ると、なんとも痛ましく思われるのである。

 出発の間際に、本多正信が忠隣を訪ねてきた。

「わしも、若殿の一行に加わりたい。老体のために足手まといになるやも知れぬが、上様には若殿のことを、とくとお話し申そう」

正信の突然の申し出に戸惑いを感じた。しかし、知恵袋の口添えは頼もしいものに思えたので、忠隣は礼を述べた。

 秀忠一行は、馬籠を発つと、駆けに駆ける。脱落する旗本は捨て置いた。替え馬を乗り潰しながら、日に二十里、西に向けて駆け通した。

 九月二十日、家康は大津城に入った。遅れて、泥人形のような秀忠一行が大津に到着した。彼らは、眼ばかりをぎらぎらと光らせた亡者の姿であった。近づくのもはばかられるほどに、その一団は鬼気迫るものがあった。

 忠隣らは旅装を解くのももどかしく、大津城にのぼり、拝謁を願い出た。側近は上様の言葉として、次のように伝えた。

「明日、装束を改めて大津城にのぼるべし。大久保相模守と榊原式部大輔は、大広間にて拝謁を許す。中納言は登城に及ばず」

 忠隣は本多正信を介して、正純から上様の心中を探った。正純は言う。

「この件につきまして、上様は大変に御不興であります。周りの者が何ぞ申し上げることも許されぬほど、厳しいご様子でございます。中納言様には、当分お目通りはかなわぬものと存じます。暫くは謹慎をされて、上様のお心がほぐれるのを待つよりほかに術はないと心得ます」

 大久保の一族の者からも、上様の様子を聞き集めた。いずれも、その怒りの激しさを伝えるものばかりである。中には「中納言様の廃嫡を口にされた」という話も出てきた。

 翌日である。大津城の大広間には、関ヶ原の凱旋の猛将が居並んでいた。忠隣と榊原康政は、そのただ中にいた。忠隣は、遅参の釈明をするために声を発した。それを遮って、徳川内府の脇に控える本多正純が言った。

「信州上田でのこと、そのほか委細承知しております。改めての説明は無用でございます。上方勢との大戦に、一翼を担うべき四万の兵を遅参させた罪は軽からず。中納言様の拝謁も許されませぬ。これが、内府様の思し召しであります。即刻、立ち返り、中納言様にお伝え召されよ」

「なれど、今一度、我らの言葉をお聞きくだされ」

「無用である」。上段から内府の声がした。怒気を含んだ声である。

「福島左衛門大夫殿、黒田甲斐守殿ら、あまた外様の方々が、泥にまみれ、命をかけて戦っていたとき、あの者は一体何をやっておったのか。中納言に伝えよ。我が面前に出るを許さぬ。己が所行の愚かさを、よく悟るべし」

 それは、一切の抗弁を許さぬ宣言であった。一座の者は同情と哀れみの眼で、二人を眺めていた。惨めさに押しつぶされそうである。そこには、もはや身を置く場がなかった。

 秀忠は大津の街はずれにある寺に身を寄せていた。忠隣は会見の有様を、希望的な予断と励ましの言葉を交ぜながら語った。若殿の反応は鈍かった。いつもの石像のような様子である。

 忠隣は、心に小さなしこりを感じていた。若殿を説き伏せても、上田城攻撃を翻意させるべきではなかったか。しかし、自分にはできぬ、と思った。若殿のそばに長くいてしまった。神の如き深慮をもった一世の英雄を父に、衆望を一身に集めながら早世した若武者を兄にもつ若者の心情を知りすぎていた。「上田城は捨て置いて、西に進むべし」とは、自らの無能と怯懦を天下に公言するに等しい。「わしにはできぬ」と、忠隣は自らに言い聞かせるようにつぶやいた。

 忠隣には、やるべきことがあった。一族の者、知己を頼り、あらゆる方途を尽くして、上様の勘気を解かねばならない。本多正信、榊原康政も、それぞれに動いているようである。

 徳川家中の者どもの間を奔走するうちに、あわただしく一日が過ぎた。日没の頃である。大津の城から、使いが来た。夜半に、忠隣一人で登城せよとの上様の命であった。忠隣は忌まわしい思いが心によぎった。若殿の廃嫡、配流、そして自裁である。思慮深い上様がそこまでのことは、とも思う。そんな疑念を胸に押し込めて、大津の城門をくぐった。

 寝所近くまで通されたことに、忠隣は訝しく思った。上様は何を告げる御所存なのか。忠隣は、一切の責めを負うても、若殿を守らねばならないと思った。一身に代えても、若殿の赦免を訴えるつもりである。

 廊下に人の動く気配がした。忠隣は平伏した。障子が開く。その人が入ってきた。一層、深く頭を沈めた。

「忠隣よ」

「上様。上田のこと、誠に申し訳なく、お詫びの言葉もございません。なれど」。一気に言い放った。

「なれど、それは我ら譜代の者どもが、若殿をお助けいたすべきことであって、若殿には」

「よいのだ。承知しておる」

「我らの力が及ばぬところのもので、若殿への御勘気を何卒」

「もうよい。康政も、よう働く。うるさくてかなわぬ。もう、よいのだ」

 忠隣は思った。「もうよい」とはいかなる意味か。本多老人や榊原の働きかけが功を奏したのだろうか。それならばよい。さらに、最も気にかけていることを問うた。

「若殿への御処分は、どのように思し召しますか」

「二十四日には、大津を発って伏見に向かう。伏見で待つと、若殿には伝えよ」

 緊張がほぐれ、総身から力が抜けるようであった。心定まらぬままに退室し、城の外に出ていた。


 家康の寝所である。灯りが一本ともるだけの薄暗い部屋に、二つの影があった。言葉を発することもなく、二人は向き合っていた。大きな影が言った。

「先ほどまで、忠隣がそこに居た。今しがた、下城したという」

 忠隣は夜中であっても、彼のところへ行くだろうと思った。

「康政からも赦免の願いが出ておる。譜代の者どもも、気づいてはおらぬようだ。それでよい」

 誰に話しているのだろうか、と家康は思った。目の前の影は息づいている気配もない。

「お前には、済まぬことをした。せっかくの初陣であったものを」

 影は凝結して、岩のように見えた。

「わしを恨むか」

「上様の思し召しに、露ほどの誤りはないと存じます」

 風が流れると、影が揺らめいた。二人が動くのは、その時ばかりであった。

 家康は、若者にかける言葉が見つからなかった。若者に重い荷を背負わせてしまったのである。後世の者どもは、わけ知り顔に、彼の凡庸、無能ぶりをあげつらうことであろう。そのような徳川秀忠になることを命じたのは、父であった。

「上様。岡崎三郎とは、どのような人でありましたか」

 若者から、初めて生身の人の声を聞く思いがした。三郎が一期としたのも、目の前の秀忠と同じ年ごろであったな。三郎なら、このような役回りは絶対に受けないであろう。この若者は、すべてを承知した上で、宇都宮を発ったのか。とすれば、三郎を越える大器なのかも知れぬ。いや、わしは、この若者のことを何も知ってはおらぬのだ。

 そしてまた、長い沈黙。

 父は息子を、ねぎらうように声をかけた。

「それで、よいのだ」

 風が流れ、二つの影が大きく揺れた。

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凡将 / 福内鬼外 作 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei

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