凡将 / 福内鬼外 作

緋櫻

前編

慶長五年八月二十四日、三万八千の軍勢が宇都宮を発った。信州に入り東山道を経て、美濃赤坂を目指す。総大将は徳川中納言秀忠である。譜代の武将が、若い総大将を支えていた。

 この頃、徳川内府は江戸にいた。福島正則や黒田長政らの外様の猛将を先遣させて、時を移さず、東海道を上方に向かう手筈となっている。

大久保忠隣ただちかは、三河以来の徳川譜代の重臣、大久保忠世ただよの嫡男として生まれた。四十歳を過ぎた頃に、家康から秀忠の付家老つけがろうを命ぜられ、七年になる。最も近いところで、この若者を見ているのだが、今に至っても茫洋としてつかみきれないところがある。人は、覇気がないとか、暗愚ではなかろうかと噂するのだが、忠隣は若者が生来、身に備わった器の大きさであると思っている。時として、自らの感情や意思を明確にしない主人に困惑することもあるのだが。

 街道は人馬で埋め尽くされた。大河のように流れる大軍団は、戦意がみなぎっていた。「上方の軍勢、撃つべし」を決めた小山軍議の熱が残っているようである。ところが、馬上の総大将だけが重く沈んでいるように忠隣には見える。このたびの戦は、若者の初陣である。初陣となれば、心も勇み立ち、興奮が身から溢れ出るような風情が見られるものだが、彼の主人は、常と同じ様子である。石像のような体躯を、馬上に揺らせている。

 秀忠は、天正七年の七夕の日に、徳川家康の三男として生まれた。この年を、家康は終生、忘れることができなかった。家康と築山殿つきやまどのの間に生まれたのが、長子の岡崎三郎信康である。彼は、家中の期待を一身に背負っていた。また、その期待に十分に応える凛々しい若武者に成長した。長篠の戦いで初陣を飾ったのは十七の歳。その後も武名をとどろかせた。その剛勇と武略に驚嘆した織田信長は、「信」のいみなと娘の徳姫を与えたのである。

信長のもとに密告があった。信康は宿敵である武田と密かに通じている、というのである。信康の側近を詰問した上で、信長は「徳川の手で、信康を処断せよ」と命じた。徳川家中では「織田とは手切れすべし」の声がわき起こった。家康はその声をおさえ、信康を二俣城に押し込めた。そして、我が嫡男に切腹を命じたのである。これが天正七年のことであった。この時の二俣城主は大久保忠世であった。忠世は、信康の最期の言葉を聞き、服部半蔵が介錯をつとめるその場に立ち会ったのである。忠隣は父から、信康についての多くを聞くことはなかった。父は時おり、思い出したように面影の断片を語るばかりであった。

 家中の者は、秀忠を岡崎三郎の生まれ代わりと考えていた。少年は常に、非業の死を遂げた若武者の姿と重ね合わせて見られていた。そんな家中の空気が、少年にはどれほど重苦しく感じられたことだろう。岡崎三郎の名が出るたびに、少年の神経は引きちぎられるほどの緊張を覚えたことであろう。だから、忠隣は信康のことを話題にしたことはない。その名を口にしたこともなかった。

 世にいう徳川四天王とは、酒井忠次、榊原康政、本多忠勝、井伊直政の四人を指す。このうち、酒井はすでに没している。榊原は秀忠の軍に加わり、本多と井伊は家康の本隊にいる。酒井忠次の子の家次、本多忠勝の子の忠政は、秀忠に従っている。家康は、譜代の重臣の後継者を秀忠軍に配している。さらに、徳川内府の知恵袋といわれた本多正信を付けているところに、周到さがみてとれる。

 九月二日、小諸に着いた。まずは、順調な行軍である。東海道をのぼる家康の本隊とは、九月十日に美濃赤坂で合流の手筈となっている。

 小諸城で軍議が開かれた。軍議は家老職の忠隣が取り仕切った。

「宇都宮を出立して八日の間、我らに手向かう者もなく、小諸に至りました。この地から三里の西、上田城をいかがいたしましょうや。真田昌幸は兵糧、弾薬を城内に運び入れ、籠城の気配ありと、物見が申しております」

 しばらくの沈黙の後、本多忠政がためらうような素振りで口を開いた。

「我が三万八千の軍勢には、いかに昌幸といえども鉄砲を撃ちかけるような真似はいたしますまい。上田城などはかまうことなく、西へ進むべきと存ずる」

 本多忠政は二十七歳になる若武者である。その姉の小松姫は、真田昌幸の嫡男、信幸に嫁している。義兄である真田信幸とは昵懇の間である。忠政としては、できれば真田とことをかまえたくはない。

「しかし」榊原康政の声である。「真田昌幸は、表裏比興の者である。彼に背を見せて歩を進めるのは心許ない」

 忠隣は言った。

「昌幸は、このたびの上杉攻めでは我らに与しておきながら、治部少輔じぶのしようゆうからの誘いに応じて勝手に小山から陣払いをいたしました。上田に帰り、今日まで籠城の備えを進めております。その上田城の前を素通りするのはいかがなものか。信州の諸将には、我が軍勢の威を示すべきと存じますが、いかにおぼし召すか」

 父と別れ、徳川方に与した真田信幸は、この軍議の末席に座している。信幸は「真田昌幸」の名前が出るたびに、皆の視線が自分に集まり、身を刺されるような痛みを感じていた。

 忠政が、思案の末という様子で話し始めた。

「それでは昌幸に、上田の城門を開けさせることとすればいかがか。城を奪えば、我が軍勢の威も示せましょう。老獪な昌幸といえども、城を失えば抗う術もございますまい」

 列席者は、上田なんぞの小城に関わりたくはないと思っている。功名の大戦は、遙か西にある。無用な戦闘が避けられるなら、それでよい。開城勧告の使者として、本多忠政と真田信幸が遣わされることと決まり、両人はただちに小諸城を発った。

 上田城から東へ一里、千曲川に神川が合流するところに、信濃国分寺がある。会談はそこでおこなわれた。

 国分寺の一室が会見の場である。本多忠政と真田信幸は先に到着して座に着いた。そこに昌幸があらわれた。二人は、その姿に息をのんだ。昌幸は頭を丸めて、にわか坊主になっていたのである。上田の城を明け渡すべし、の勧告を聞いた坊主は、愉快そうに話した。

「私は中納言様に弓引く心は毛頭ございません。上田の城門を開いて、お指図に従う所存でございます。まずは、この旨を上田の者どもに伝え、城内の隅々まで掃き清めた上で、中納言様にお渡しいたします。しばらくの猶予をいただきたい」

「城、明け渡しの刻限はいかがか」忠政が尋ねた。

「さよう、明日の夕刻までには中納言様をお迎えできると存じます」

使者たちの遠慮がちな視線を感じた昌幸は、頭を撫でながら言った。

「これは、二心なき証でございますよ。御使者には、なにとぞ私どもの恭順の意を、皆様方にお伝えください」

 二人は昌幸に丁重に見送られて国分寺を出た。まるで狐狸にたぶらかされたような気分であった。信幸はつぶやいた。「我が父とはいえ、あの方は恐ろしい人だ」

 小諸城では使者の報告を聞き、昌幸の真意を吟味した。相手は天下第一のくせ者である。何を仕掛けてくるとも知れない。忠隣は、周辺に諜者を放った。

 約束の刻限である三日の夕刻になっても、上田城の大手門は開かなかった。昌幸は使者を遣わして言うのである。

「城内の兵糧、武器、弾薬はすべて、中納言様に献上つかまつります。そのための段取りに手間取っております。今、しばらくお待ちください」

夜が明ける。九月四日の朝、本多忠政と真田信幸は手勢を引き連れて、上田城の大手門前に馬を並べた。忠政は城内に向けて言い放った。

「約束の刻限はとうに過ぎておる。あれやこれやの言い訳は聞かぬ。ただちに、城門を開けい」

大手門の櫓に、甲冑姿の昌幸があらわれた。

「使者殿、お待たせしたな。おかげで、籠城の備えも済んだ。いつ、攻め寄せられても苦しからず。中納言殿には、このたびが初陣と聞く。初手の敵に干矛交えることなく後ろを見せるとは、人の聞こえも悪かろう。あれが内府殿の嫡男か、と天下の笑いものとなる御所存か。この口上、きっと若殿にお伝え召されよ」

忠政から、この言葉が伝えられた。不愉快な報告である。忠隣は思った。名にし負う古狸めが、嫌なことを言うものだ。昌幸は、こちらの柔らかな脇腹を突いてきた。

忠政は言葉をつづけた。「昌幸が籠城の構えならば、それでよし。敵の出撃に備えて、三千の兵を布陣させておけばよい。本隊は西に向かうべし」

それが兵法の常套であろう、と大方の者は思った。軍議の大勢が決した、その時である。総大将が諸将を見据えて言った。

「昌幸は、我らを敵とすると公言したのである。敵を目の前にして、戦場から逃げ出すような真似ができようか。榊原式部大輔、上様はそのような戦の仕方をなされたか。たとえ武田信玄であろうとも、挑みかかられたのが上様ではなかったか。天下が、我らを見ているのである。武辺にもとる真似はできぬ」

 忠政が言う。「我らの真の敵は、石田が率いる上方勢であります。上田城の昌幸などのことは、大事の前の小事に過ぎませぬ」

「小事ではない。我らに弓引く者には、いかなる仕置きをするかを天下に示すのである。これがために、上様はわしに采配を授けられたのである。昌幸に愚弄されて、一戦も交えず兵を引かば、諸大名の侮りを受けるものと心得よ」

 初めて見る決然とした若殿の姿に、一同は唖然となった。ただ一騎にても城に突っ込む勢いの若殿に、上田城攻めを押し切られてしまった。

 忠隣は手配りをせねばならぬ。これは難儀なことだ。戦う気のない諸将に攻撃を命ずるのは至難のことである。城攻めは、秀忠と忠隣の手勢が主軸となろう。それに、死にものぐるいで戦わねばならない真田信幸が率いる八百余の兵を使おうと思った。

 忠隣には気になることがあった。本多老人の発言がないのである。上様の影である本多正信が一言発すれば、それで決する。しかし、老人は何の意向も示さなかった。

 若い頃の本多正信は、鷹匠として家康のそばに勤めていた。ところが、三河で一向一揆が起こると、一揆方について家康と争った。家康が一揆勢を押さえ込むと、正信は三河を出奔し、全国を流浪した。三河に流れてきた彼を拾い上げて、家康への仕官を世話したのが大久保忠世であった。家康が権謀の限りを尽くして、乱世を渡ってきたのは、最も近いところに侍したこの老人の知恵に負うところが大きい。であるから徳川家中の者は、上様の意を含んでいるこの老人を恐れていた。

 千曲川がつくった河岸段丘に鍬を入れ、田畑を拓いたのが信州上田である。東から西へ階段状に平坦地が広がり、千曲川がその最底部を流れる。上田城は、千曲川の一段上の台地に築かれていた。段丘による崖と千曲川が、南面の防衛線となっている。城の東、北、西の三面には壕と石垣、長塀をめぐらせている。隅に櫓はあるが、天守はない。戦うためだけに築かれた城である。城から一里の北方には、さらに一段高くなった段丘が広がっている。染谷台である。その北には虚空蔵山こくぞうやま東太郎山ひがしたろうやまが連なっている。

上田城攻撃の本陣は、城を見下ろす染谷台に置くこととした。その前に片づけておかなければならないことがある。東太郎山の尾根には真田の出城、戸石城があった。これを落とさなければ、本陣を背後から突かれ、攪乱される。初戦となる戸石城攻略の成否は、戦の流れを決める。この一撃で、寄せ手の圧倒的な力を真田方に見せつけなければならない。

 真田信幸に戸石城の攻撃が命ぜられた。東太郎山の地形を熟知している真田の兵が最適である。また、配下の武将で最も勇猛に戦うのは真田信幸であろう。少しでも兵を引けば内応を疑われる信幸は、死力を尽くして前に進む以外に道はない。戸石城には弟の真田信繁が、兵二百と籠もっている。東太郎山は、幼い信幸と信繁の遊び場であったことも、忠隣は諜者から聞いていた。

 九月五日。夜明けとともに、真田信幸が率いる八百余の兵が、東太郎山を攻め上る。尾根に連なる城壁には六文銭の旗がひらめいている。しかし、城からは矢、鉄砲が放たれない。信幸の兵が城門を破り、喚声とともになだれ込んだ。城内は森閑としている。空であった。昨夜のうちに信繁は城を捨て、山を下りて、上田城に入っていたのである。まずは、戸石城を手に入れた。幸先よし、と言って良いものか。真田の者は薄気味悪い、と忠隣は思った。

 秀忠配下の兵を中心とした軍勢、約二万が小諸城を発った。戸石城を押さえて、背後を固めた上で、染谷台に陣を敷いた。

 九月六日の朝、総大将は出撃を号令した。万余の兵が上田城を囲い込んだ。諜者の報告では、籠城の備えは万端に整い、兵糧は十分に蓄えられている。力攻めするよりほかはない。城に籠もる兵は二千。その内、数百は百姓を集めたもので、戦闘に耐えうる兵は千数百ほどであろう。敵の将兵を城外に誘い出し、一気に揉み潰す。そのため、城外に広がる田に、兵を入れた。間もなく収穫をむかえる稲を、上田の者の目の前で次々と刈り取らせた。堪りかねて大手門が開かれた。騎馬、数十騎があらわれた。一団の先頭を駆けるのは真田昌幸、その後を信繁が随っている。包囲の大軍は呆気にとられた。功名、恩賞が約束された首が、目の前を駆けているのである。昌幸、信繁の首級を挙げんと、騎馬団に襲いかかる。大手門の前の隘地に、軍勢が殺到する。騎馬団は鉄砲を撃ちかけつつ、引いていく。さらに、城門から矢、鉄砲が放たれて、功に焦る大軍の出鼻を挫く。騎馬団は間合いを計っては、進退を繰り返した。

 忠隣が配した城攻めの陣立ては、いびつに崩れていた。忠隣の頭には、危険を告げる早鐘が鳴っていた。敵は何かをたくらんでいるのだ。はめられたのではないのか。陣の備えを立て直さなければならない。しかし、奔流のように動き始めた大波を止めることはできない。

 虚空蔵山の麓から、一点が現れた。見る間に一団の騎馬隊となって、突っ込んできた。大手門前に群がる大軍の背後を、疾風のように駆け抜ける。目指すは秀忠の本陣である。総大将を守るべき旗本は、十騎余りを数えるばかりである。忠隣は昌幸の魂胆を知った。狙うのは秀忠の首級、一つである。秀忠は馬首を回らし、一散に逃げた。旗本がこれを守る。真田の騎馬隊が追う。忠隣は、手勢を率いて刺客に追いすがろうとするが、引き離されるばかりである。騎馬隊は、獲物との間をじりじりと詰めていく。狩りをする狼を見るようである。忠隣は総身が粟立った。

 はるか行く手に、土煙が見える。それは、遅れて小諸城を出た一万数千の軍勢であった。上田城攻撃には気の進まない武将たちが、ようやく神川を渡って来たのである。秀忠の一命は、彼らに救われた。一殺の命を受けた騎馬隊は、瞬く間に霧散した。

 城門の前では、昌幸が率いる騎馬団は大軍の攻撃を引き受けつつ、いなしていた。それが、大軍を嘲るように大手門の内に消えた。忠隣は、引き鉦を打つように命じた。寄せ手の大軍は、ようやく狂騒から醒めた。そして、ゆっくりと本陣に戻っていった。それは、潮の引くような様であった。

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