第56話

「一体、何が起こっているんだ」 

 境界線から出られない絃は、ただ茫然と見ていることしかできなかった。何が起きたのか探ろうと八尋と海里をよく見る。すると、二人の目が赤く光っているのが見えた。その目は狂暴化した妖と全く同じものだった。

 良世の言葉を聞いた八尋と海里が、狂暴化した妖と同じように目が赤くなった。考えられることが一つだけある。

「まさか、良世が操っているのか!」と呟くと、フフフと良世が笑った。

「勘がいいね、絃くん。君の言う通りさ。この右目には、見たものを操る能力があるんだ。酒呑童子と茨木童子、そして他の妖たちはもう僕の駒だよ。可哀想に、頼れる式神と守護獣は境界線の中。頼れる仲間の酒呑童子と茨木童子も僕の駒。もう絃くんを助けてくれる者は誰もいなくなっちゃったねぇ。可哀想に」

 わざと苛立ちを募らせるようなねっとりした口調で喋る。

 くくっ、と気味の悪い声を上げながら笑う良世を、絃は心の底から怖いと感じた。今まで出会った狂暴化した妖よりも、今までの出来事の中で何よりも怖いと感じた。それと同時に、絶望感を感じた。境界線を破れるのは、境界師だけ。その境界師の良世は黒幕で、吹雪は状況が理解できないからかさっきからずっと棒立ちをしている。その他の境界師たちは地面に伏せっている。

 どう考えても、万事休す。

「このまま、漣と惣の目的を達成するところを見ることしかできないのか」

 絃は奥歯を噛みしめながら呟く。

 境界線の外は、良世は笑みを浮かべたまま、「さぁ、思う存分暴れろ!」と、命令を下している。

 命令に従順な八尋と海里が駆け出すと、それに続くように妖たちは一気に町の中を駆け行く。建物を破壊する者、妖が見えている人を追いかけまわす者、見えない者に悪戯をする者。目の前には、魑魅魍魎で溢れかえっている。閂様として、止めなくてならない状況なのに、境界線が邪魔をしていて何もできない。そのことがただただ悔しくて、絃は唇を噛む。

 何か手はないのかと、状況を変える手立てを考えるけど、考えれば考えるほど絶望する。何をするのにもまず、境界線から出ないといけない。でも、それができない以上、なにもできない。

 拳を強く握りしめながら、地面に膝をついて蹲る。絶望しながらも、頭の中で策を講じ続ける。見逃している何かがあるはずだ。

「境界線は、境界師でしか解除ができない……。境界師、でしか……」

 その時に、ふと母の円のことを思い出した。母の円は境界師で生前に一度、蒼士は境界線の引き方を教えてもらったと言っていた。境界線は境界師の下で修業をすれば、誰でも弾けるようになると、母は言っていたらしい。この間蒼士と会ったときに引き方を教えてもらった。一か八かだが、境界線を引いて境界線を壊すしかない。

「人差し指と中指を立て、口元に近づける。ゆっくり息を吸って、吐いて、心を鎮める。頭の中で線を引くイメージ。そのイメージに沿って、空中で線を描く」

 蒼士に教えられた通りに境界線を引くけれど、なにも起きない。

「そう簡単にはいかないものだな」

 でも、落ち込んでいる暇はない。境界線を引けるまで何度も、何度も繰り返す。すると、少しずつ境界線が引けるようになってきたのか、うっすら白い線が見えるようになってきた。とはいえ、三重にも連なる境界線を解くのにはまだ程遠い。それでも、小さな一歩だった。小さな一歩はやがて、大きな一歩へとつながると信じて、境界線を引き続ける。額から汗が流れて目の中に入って沁みる。境界線を引きすぎて右手がジンジンと痛んで手を上げるのもやっとになってきた。力を振り絞って境界線を引いた時、パリンと音を立てて一つの境界線が壊れた。

「壊れた……」

 荒い呼吸を落ちつけながら、大きな一歩を掴めたことが嬉しくて笑みを浮かべる。

 壊れた境界線に良世は気が付いたのか、「なに」と驚きの声を上げた。良世がもう一度、境界線を引こうとしたのが見えた。また、境界線に閉じ込まれる前に絃は境界線を引こう構えた。その時、どういうわけかすべての境界線が壊れた。

「何が、起こった?」

 絃が全部の境界線を解くのは、かなり無理がある。となると、誰かが二重に連なる境界線を解いたことになる。一体誰がそんなことをしたのだろうかと、考えると。

「お前は!」

 良世が鬼のような形相で声を上げて、睨みつけていた。誰を睨みつけているのだろうかと、視線を辿ろうとした時。


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