第40話

 八尋の家を出ると、辺りはすっかり宵の口になっていた。けれど、幽世の町に一筋の光が差し込んできた。

 空を見上げると、眩しい程に輝く満月が雲の切れ間から顔を出していた。

「今日の満月は綺麗だな」

 絃は立ち止まって月を見上げる。美しく輝いている月に思わず見惚れながら、ぼーっと眺めていた。

「今日は、月が綺麗ですね」

 突然、背後から耳元で囁かれた。その声に全身がぞわぞわと鳥肌が立った。後ろにいる人物が誰なのか確かめようと、勢いよく後ろを振り返った。

 そこには。

「な……、なぜ、ここにいる?」

「なぜって、何が?」

 後ろにいたのは、百目鬼惣だった。惣は楽しそうな笑みを浮かべていたが、その笑みがどこか歪んでいるようにも見えた。惣との距離は、手を伸ばすと触れられるほど。

 早く離れろと脳内が警鐘を鳴らしている。その警鐘に従ってゆっくりと、後ずさる。

「あれ、逃げるの?閂様なのに?」

 歪んだ笑みを浮かべたまま、惣はじりじりと距離を詰めてきた。惣が纏っている雰囲気があまりにも異質すぎて気圧された。

 このままでは捕まると思って、危機感から瞬時に妖の姿へ変化して後方へ飛んで下がった。手の平から、青い炎を作り出しながら「どうやって、幽世へ来た!」と問いただす。

 その問いに惣は答える様子はなく、じりじりと距離を詰めてくる。歪んだ笑みを浮かべたまま、一言も喋ろうとしない惣の姿が今まで対峙してきた狂暴化した妖よりも恐ろしく感じた。距離を置いたところで、惣に詰められるだけだと頭でわかっていても、自然と一歩、二歩、また一歩と思わず後ずさってしまう。

「どうしたんだ?絃」

 後ずさっていたはずなのに、気が付けば惣は目の前に立っていた。

「な、ぜ……。十分、距離があったはずだぞ……」

 惣から目を離したつもりはない。一瞬の瞬きの間に移動できる距離でもなかった。なのに、惣は目の前に立っている。その事実に頭が混乱してやまない。

「ビビっているのか?ふっ、可愛いところもあんじゃん」

 惣は、うっとりとした表情を浮かべながら、絃の髪の毛に触れてきた。その瞬間、全身に怖気が走った。

「触るな!」

 反射的に手を振り払うと同時に、惣が逃げないように惣の腕を掴んで皮膚を突き破るくらいに爪を立てた。ぷつりと、惣の腕から血が滲みだす。

「百目鬼惣、何が目的だ。ここは妖が住む幽世。人が迷い込めばすぐにわかる。だが、我はそれを感じなかった。一体、どういうことだ。貴様は一体何者なんだ」

 惣を威嚇するように強く睨みつけながら詰めかける。

「さぁ。それを調べるのが絃の仕事なんじゃないのか」

 惣は涼しい顔をしたまま、煽るように口を開いた。

「何!」

 その煽りに絃は苛立ちを覚えたけれど、それに乗っかれば相手の思うツボだ。息を整えて、冷静さを取り戻す。惣の言葉に耳を傾けてはいけないと考えて、冷静さを失わないように意識する。

「じゃあ、俺も聞くけどさ。絃、お前はどっちなんだ?」

 惣の問いの意味が分からなかった。

「どっちとは何のことだ」

 冷静さを保ちながら、強気に言葉を返す。

「決まってるだろ。人か、妖か。絃、お前は一体どっちなんだ?」

「そ、れは……」

 自分で聞く耳を持ってはいけないと決めたはずなのに、問いの答えを考えてしまった。

 今まで、自分が人か、妖かなんて考えたことがなかった。いいや、それを考える必要がないくらいに両方を与えられていたから。

「どうした?答えられないのか?」

 惣は楽しそうな笑みを浮かべていた。

 その問いの答えを出すのは、今じゃなくていい。

 今は、惣がここへ来た理由を聞かないといけない。

「そんなことを聞いて何になると言うのだ」

 絃は強い口調で言い返す。

「いや、お前が最初に聞いたんだろ?一体何者なんだって」

「それがどうした」

 さっきから、惣の言葉の意味が全く分からない。正体を聞いたけれど、そんなことを聞くために聞いたんじゃない。

 惣とのやりとりが、全く嚙み合っていない。それは、惣が探られたくなくて故意でやっているのか、惣の頭の中が狂っているかのどちらかだろう。

 惣はケラケラと笑いながら、口を開く。

「他人の正体を聞くなら、自分の正体を言うのが礼儀ってものだろう?違うか」

 まるで子供の言い分のようなことを言う惣に、絃は苛立ちを覚えた。

「でも、絃は答えられない。それは自分が何者か知らないからなんじゃないのか?例えば、自分の出生について、とかさ。だから、絃は答えられないんだよ。自分が何者か知らない絃くんに、俺の正体を教える気はないね」

 爪が食い込むくらいに惣の腕を握っていたはずなのに、いつの間にか手は空中を掴んでいた。

「なに!」

 状況が理解できないし、このままでは惣に逃げられると焦る。けれど、惣は、ただ笑みを浮かべた。

「絃、俺の正体を知りたいなら、自分の正体を知ってからだ。ま、それを知ったからと言っても、俺の正体を教えるつもりはないけど」

 惣は、踵を返して歩きだしていく。

「待て!逃げる気か!」

 絃は手の平から青い炎を作り出しながら、惣を呼び止める。

 惣は足を止めて、ゆっくり振り返った。眼鏡の奥の金色の目と目が合う。

「逃げるわけじゃないよ。俺がこの幽世に来たのは、絃に伝える為。これから、俺は大きな事件を起こす。お前に俺を止められるかな?」

 惣は、どこか意味ありげな表情を浮かべながら言い残していくと、また忽然と姿を消してしまった。

「待て!」

 叫ぶのも空しく、絃の声は幽世の町並みに吸い込まれていった。

「自分の正体って、一体どういう意味なんだ」

 人か、妖か。

 その問いに答えられなかった。

 その事が妙に頭に残って仕方がなかった。

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