第36話
葉子は、ゆっくり目を開けた。
うっすらと差し込む光が眩しくて、目を細める。
「起きたのですね」
心が自然と落ち着くくらいに優しい声が聞こえて、目を細めながら声が聞こえた方に顔を向けた。
そこには、心配そうな顔をした絃がいた。
「絃さん」
絃に声を掛けると、絃は柔和な笑みを浮かべた。
「三日間ずっと、寝込んでいたんですよ。死んでしまったのかと心配しました」
絃は冗談交じりに明るい口調で言った。その声があまりにも優しすぎて、どうしてか熱いものが胸にこみ上げてきた。それを必死に押さえつけて、震える口を動かした。
「私、三日も寝込んでいたんですか?」
「はい、そうです。寝込む前のことは覚えていますか?」
そう言われて寝込む前のことを思い出すけど、あまり思い出せない。
でも、断片的ではあるけれど、何か妖怪みたいな化け物に会ったことを思い出した。その瞬間、心の奥底から恐怖が噴き出してきて、全身に寒気が襲ってきた。
「葉子さん、大丈夫ですか?顔が真っ青ですよ」
恐怖から全身が震えてきて、「なんだか、急に思い出してきて怖くなりました」と声にならない声で呟く。
ガタガタと震えている手に、絃は何も言わないで静かに手を重ねてくれた。その手は、恐怖に震えていた心が落ち着いてしまうほどに優しくて温かった。その優しさと温かさが、妖に会って怖ったことや今までずっと我慢していた感情の蓋に歯止めがきかなくなってしまって、感情がドッと溢れ出した。
絃の優しい手に縋りつくように、泣きじゃくる幼子のように泣いた。その間、絃は一言も喋ることはなく、ゆっくりとその優しい手で背中をなでてくれた。それが余計に涙を誘って、涙を止めたくても止められないくらいに泣いてしまった。
しばらく経つと気持ちが落ち着いてきて、涙が止まった。
「落ち着きましたか?」
「はい、すみません。また、泣いてしまって」
「いいんですよ。それぐらい怖い経験をされたのですから」
絃は、壊れてしまうほどに優しい笑顔を向けてくれた。その笑顔にまた泣きそうになったけど、今度は押さえこんだ。
ふと、妖の行方が気になった。
「あの妖はどうなったのですか?」
絃は少しだけ、悲しそうに目を伏せた。
「あの妖は、罰を犯したから退治したんだ」と静かな口調で言った。
どう返したらいいか分からないし、それにこれは人が触れていい話じゃないと、分かった。
「そうなんですね」と相槌だけ返した。
「葉子さん。少し話が変わりますが、いつ頃まで幽世に滞在されますか?」
「そうですね」
相槌を打ちながら葉子は考える。幽世に来たのは、現世での生活が嫌になったから。
あの髪色が綺麗なお兄さんに教えられて幽世へ来て、絃のおかげで生活ができた。幽世での生活は、今までの生活と比べると凄く居心地がよかった。人に気を使わなくていいし、仕事だってしなくていい。小学生の夏休みのように毎日ダラダラしながら生活できる。
だけど、心のどこかでここは自分の居場所ではない、と感じていた。
人と妖の境界は超えられないし、幽世では一人ぼっちでつまはじきもの。
妖に攫われて絃に命を助けてもらった。でも、これ以上怖い思いをしながら幽世に居たいとは思わない。
人は人が住む場所に戻らなければならない。
それが、どんな理不尽なことや辛いことが待っていたとしても。
「幽世での生活は気が楽でした。仕事もないし、嫌なお局様も同僚も後輩もいない。誰にも気を使わなくて済む。でも、今回妖の恐ろしさを見ました。正直、とても怖かった。そして、わかったんです。妖よりも、嫌なお局様とか上司とか後輩と接する方がまだマシだって。だから、現世に戻ってもう一度、頑張ってみようと思います」
そう言うと、絃は莞爾として笑いながら首を縦に振った。
「ええ、それがいいと思います。僕から少し提案をしてもいいでしょうか?」
「なんでしょうか」
絃がどんなことを言うのか、少しドキドキしながら待った。
「今、お務めている会社を辞めるというのはどうでしょうか?」
「会社をですか?」
絃の提案に驚いてオウム返しをした。
会社を辞めるという選択肢は今まで、一回も浮かんでこなかった。
「人間の働き方はよくわかりません。でもお話を聞いている限り、葉子さんが折角決意を決めて戻ったところで同じことの繰り返しのような気がします。葉子さんは自分の仕事の他に上司や後輩の仕事までやっていますし、葉子さんが身体を削ってまで頑張る必要はないと思います。それに、彼らは葉子さんの頑張りを認めてはいないですから」
「それは、そうかもしれません」
絃の話は的を射ていると思った。
今の会社は、正直ただ命を削るだけの場所と言ってもいい。過剰すぎるくらいに仕事をしている。でも、それは自分の頑張りが足りないからだと思っていた。
冷静に考えると、きちんと評価されていなかった。仕事をすれば何かといちゃもんをつけて、よく見ないくせにダメ出しをする。よく考えれば、完全なブラック会社だ。
そのことにずっと気が付いていたけど、見ないようにしていた。
「葉子さん、世界は広いのですよ。この幽世ですら広く、いろんな妖が住んでいます。彼らは彼らなりの生き方を決めて場所にとらわれずに生きている。葉子さん、貴方は今、とても狭い世界にいます。その世界しか知らないから、そこから離れると言う考えが浮かばないだけです。少し冷静に考えて、自分がいる世界の他を見てください。そうすれば、いろんな選択肢が広がると思いますよ。会社を辞めるかどうかは葉子さん次第です。狭い場所から、広い場所へ行ってみたら、きっと居心地のいい場所が見つかるはずですよ」
絃の温容に、今までずっと先の見えなかった暗がりが一気に晴れたように感じた。気が付けば絃の名前を呼んでいた。
「絃さん」
「はい」
「私、頑張ってみます」
自然と口角が上がっていた。今思えば笑うのは久しぶりだ。
「やっと、笑いましたね」
絃が、ニコッと笑みを浮かべた。
この先について考えるのは、まだ正直怖い。けど、少し楽しみになった。
幽世を立つ日、そこに迷いは何一つなかった。
会社を辞めること、ついでにモラハラ彼氏ともきっぱり別れる。
今まで人にずっと気を使って生きていたけど、これからは自分の為に生きて、自分の居場所は自分で掴むと決めたから。
意気込みを込めて、最後に幽世の空気をゆっくり鼻で吸って、ゆっくり口から吐いた。
「絃さん、月人さん、ろいろさん。ご迷惑をお掛けしました。それと、短い間でしたがお世話になりました」
見送りに来てくれた絃と月人とろいろに向かって頭を下げた。
「葉子さん、気を付けて帰ってくださいね」
「道中お気をつけて」
「頑張れよ!」
三人は笑顔を浮かべながら激励をしてくれたのが嬉しくて、目に涙が浮かぶ。けど、もう泣く必要はないと思って涙を拭う。
「葉子さん、最後にお聞きしてもいいですか?」と、絃が問いかけてきた。
「なんでしょうか?」
何だろうと思いながら、絃の言葉を待つ。絃は、ゆっくり息を吐いてから、薄い唇を動かした。
「幽世に来る前のことを覚えていますか?」
絃は少し探るような目をしていた。そういえば、幽世に来る前に出会った男の人のことについて、話していなかったのを思い出した。
「幽世に来る前に一人の男性に出会いました。時間は確か……、夕暮れを時を過ぎた夜に近い時間だったと思います」
絃は少し目を丸くした。
「それはどんな男性ですか?」と食い気味に聞いてきた。その人がよほど気になるのかなと思いながら、その男性を思い出す。
男性の特徴はもう、記憶の彼方にあってあまりよく覚えていない。けど、よく覚えていることがある。
「綺麗な髪の色をした人でした。年齢は分からないけれど、見た目的に若い感じで……お兄さんっていう感じでした。確か……眼鏡、眼鏡をかけていたかもしれません。服装は、スーツというか、私の服みたいなきっちりとした恰好をしていました。その人に声を掛けられて、その通りにしたらここに来ていた……、という感じです」
絃の顔を見ると、ほんの少し怒気を帯びた顔つきをしていた。
絃さん、怒っているのかな、と心の中で呟いて、瞬きをする。再び視界に写った絃は、いつものように和やかな笑みを浮かべていた。
「ありがとうございます」と一言だけ口にした。
どうしてそんなことを聞いたのか気になった。けど、それは開けてはいけないパンドラの箱のように感じた。
「それでは、皆さんお元気で!」
絃とろいろが開けてくれた扉の中に足を踏み入れる。そこには、真っ暗な闇が顔を出していた。先が全く見えないことに不安を感じて、後ろを振り返りたくなった。けど、もう幽世には戻らないと決意を決めて、後ろを振り返ることなく
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