第26話

 女性は絃に気が付いたようで、ゆっくりと体ごと振り返る。

 その女性の顔は死んでいた。この世のすべてに絶望して、その目に光は宿っていなくて、底なし沼のような真っ黒な闇があった。

 あの暗い境界の中を迷わずに歩いてこられたのは、絶望しかなかったからか、と絃は感じた。それだけのことがこの女性の身に起きていると。でも、絃が女性にできることは何もない。迷い込んだ人は現世へ返す、閂様としての役目を果たさなければならない。

「あの、ここはどこですか?」

 絶望の目をした女性は、無表情で聞いてきた。

「ここは、幽世。所謂、異世界というやつだ」

 端的に答えると、女性はどうしてか怯える様子はなく、口元に笑みを浮かべた。どこか嬉しそうに笑っているように見えて、目には見えない狂気を感じた。人は、妖よりも非力で、恐れるところが何もないのに、この女性が狂暴化した妖よりも恐ろしいと感じた。

 女性は小さな声で「やった」と声を上げた。

 絶望に塗れた顔で、絃の顔を見つめた。

「あの、私、ここにいていいですか?」

「は?」

 女性の言葉が、あまりにも突拍子すぎている。この状況で、幽世にいたいと言う人は早々いない。

 驚いて間抜けた声を上げると、女性は聞こえなかったと勘違いして、もう一度口にした。

「私、ここにいたいです。いいですか?」

 絶望を通り越して、狂気に塗れた笑みを浮かべている。その女性がどんな人なのかもしれないけど、トチ狂っている。でも、女性がただならぬ状況に置かれているんじゃないかと、思ってしまった。でも、だからといって幽世へ留まらせていいことの理由にはならない。

 絃はゆっくりと、息を吸って吐く。

「それはできない。ここは、妖たちが住む場所。人の子が住む場所ではない」

 きっぱりと言い放つと、女性は両目から涙を流した。

「え」

 絃も月人もろいろも思わずぎょっとした。こんな事で泣くとは微塵も思っていなかったし、悪いことをしてしまったと罪悪感が募る。

 宥めた方がいいかな、と思って女性に近づこうと足を前に動かした。その時、後ろから首根っこを引っ張られて、後ろに倒れそうになった。けど、背中にがっしりとしたものに当たって支えてもらっていた。

 後ろに顔を向けると、怖い顔をした月人がいた。

「絃、私たちを騙そうとしているかもしれません。むやみに近づくのは危険です」

 月人は女性を深く警戒しているようだった。

 それはろいろも同じで、低く唸って女性を睨みつけている。

 絃自身も女性を警戒はしている。今は人のようだけれど、実は妖という場合もある。でも、あの絶望に塗れた顔を見たら、放っておけないし、どうにかしてあげたい気持ちが湧いてくる。

 妖になっている時は、人の時よりも冷静に周りを見られる。それでも、この時は、どうしても声を掛けるべきだと思った。

「大丈夫か?」

 そのたった一言だけ声を掛けると、女性から大粒の涙がぼろぼろと流れ落ちた。幼子のように嗚咽を漏らしながら泣いている。

「私、いつも上手くいかなくて。上司にも同僚にも後輩にも嫌われて、仕事を押し付けられて。ちゃんと仕事もやってるし、周りの何倍もやっているのに、誰も見てくれない。彼氏は、召使のようにこき使うし、文句は多いし。彼女じゃなくて、母親みたい……。一番好きだった人は、同僚に横から奪われるし、しかも結婚するし。なんで、いつもこうなの……。人なんて嫌い。人がいない世界で生きたい」

 女性は今までずっと溜めていた鬱憤を吐き出すように、呟いている。

 現世で生活する人々は、人と人とのふれあいの中で生きていて、幸せを感じることもある。けれど、心をすり減らして、時に人を呪っていく。時にふれあいが人を追いつめ、人が人を殺すようになっていく。

 前に師匠が言っていたのを思い出した。そう考えると、この女性は、人とのふれあいが彼女の心を追い詰めて、幽世に居たいと思うようになったのではないかと考えた。

 涕泣する彼女を見ると、胸が締め付けられる。

「どうします、絃」

 耳打ちする月人に絃は、どう返すか考えていた。

 閂様として、幽世に迷い込んできた人を現世に戻すという役目がある。でも今は、人とのふれあいの結果で傷ついて絶望している女性を助けたいと思っている。

 役目をとるか、感情をとるか。

 選べる答えは一つだけ。

 数分間、絃は悩んで、答えを月人に耳打ちする。

「少しの間だけ、彼女を屋敷で面倒を見る。今彼女は取り乱しているようだから、落ち着いたら帰ってもらう。その間、彼女がどうやってここへ来たか、情報を聞き出す。もちろん、監視も含めてだ。それでどうだ?」

 絃が出した答えは役目と感情の両方を取り、監視と情報集めのために屋敷に招くこと。

 月人は、顔を曇らせることはなく「承知いたしました」と承諾した。

 足元を見ると、いつの間にか子狐に戻っていたろいろがいた。

 ろいろは静かに頭を縦に振った。

「もしよければ、気持ちが落ち着く少しの間、我の屋敷へ来ないか?」と提案する。

 すると、女性の目から涙がぴたりと止んで、泣き腫らした顔を向けた。砂漠の中でオアシスをみつけたように顔が少し輝いていて、絶望に塗れていた目に光が一瞬宿った気がした。

「へ?い、いいんですか?」

「ああ。ただし、条件がある。気持ちが落ち着いたら、現世に……君が住んでいた場所に帰ってもらう。それでよければ、幽世での滞在を許可する。どうする」

 条件を提示すると、一瞬宿った目の光が消えてしまった。

「わかりました。ずっとお世話になるのも申し訳ないですし……。少しの間だけ、お世話になっていいですか?」

 おずおずと、頭を下げる女性は真面目な人だと感じた。

「ああ、構わない。我は、閂様だ。隣に居るが式神の月人、足元にいるのが守護獣のろいろだ」

「月人です。お見知りおきを」

「ろいろだ!」

「よろしくお願いします。私は、真鳥葉子まとりようこです」

 葉子は、遠慮がちに微笑んだ。

「屋敷へ案内する、付いてこい」

 絃は、葉子に背を向けて屋敷に続く道を歩き出す。

「あ、はい」

 葉子は、カツカツと靴音を鳴らしながら、歩き出した。

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