第25話
幽世にも、一通りの季節がある。
じりじりと曇った空の上から太陽が照らして、全身の水分を奪い去っていく季節。今は、夏真っただ中。じわじわと、浮かぶ汗を手で拭いつつ、団扇で涼をとる。幾ら団扇で仰いでも、もわっとした熱さが消えない。
「暑い……」
絃は、全身の力が抜けてぐったりと横になる。暑すぎて自分の体が溶けてしまいそうだなと、錯覚しながら目を閉じる。
額にヒヤッとした感覚があった。手で額を触ると、そこには冷や冷やのタオルがあった。目を開けると、傍に月人が座っていた。
「暑さで絃がバテそうだったので、冷やしタオルを準備しましたよ」
目を閉じて笑う月人が、神様のように見えた。
「月人~、ありがとう~」
「どういたしまして」
月人は、笑みを浮かべながら冷えたお茶を目の前に差し出してくれた。起き上がってお茶を飲むと喉に冷たいお茶が通って、体の心から冷えていく気がした。
「美味しいですか?」
「美味しいよ!夏は冷えたお茶が一番だね」
月人は湯飲みにお茶を注ぎながら「それは何よりです」と嬉しそうに答えた。
「いとぉ〜、つきとぉ〜。あづいぃ~~」
部屋の奥から、よたよた歩きでやってきたのは、ろいろだ。全身がもふもふとした毛並みで覆われているろいろに、この暑さは堪えるのだろう。
舌を出して、へっへっと荒い呼吸をしている。絃の所までやってくると、くてっと力尽きたようで蹲ってしまった。
「暑そうだね、ろいろ」
ろいろを撫でると、汗をかいているのか毛が濡れていた。
「月人、ろいろの分の水を持ってきてくれる?」
「わかりました」
月人は台所の方へ向かっていった。
「ろいろ大丈夫かい?」
「う~ん」
ろいろは唸るだけで何も喋らなかった。これは、かなり拙い状況だ。毛並みが多いろいろは、暑いときは体温調節が出来なくてバテてしまう。これは、毎年恒例になっている。けれど、ろいろが体調を崩し倒れた暁には、沢山の苦労が待っている。
それは、避けられるべき事案だから、いくらでも対処はできる。
「ろいろ、持ってきましたよ」
月人は、冷たい水が入った皿をろいろの口元に置いた。ろいろは鼻をピクつかせて、舌を水の中に入れて、ぺろぺろと水を飲み始めた。水が全部なくなるころには、ろいろはすっかり元気になっていた。
「復活!」
尻尾をブンブンと犬のように振りながら、ろいろはぴょんぴょんと跳ねまわっていた。
「よかったね、ろいろ」
絃はろいろを微笑ましく見守る一方、月人は軽くため息を吐いた。
「まったく、あれほど水を飲むように言っているのに」と、小言を吐いている。
それに、むっと反応したろいろは、月人を見上げて睨む。
「うるさいぞ!月人!」
「本当のことですよ、ろいろ。いい加減学んだらどうです?」
月人の言葉に、更にろいろはむっと睨みつけている。
月人が小言を吐くのは、本当はろいろを心配しているからというのを絃は知っている。月人の表には出さない気遣いとそれに全く気付かないろいろ。二人を見ていると少し微笑ましくなってくる。
「もうすぐ、お昼です。今日は、冷たい蕎麦なんてどうです?」
「いいね」
「はぁーい!」
今日のお昼が決まって、お昼が楽しみになった時。
誰かが現世と幽世の間にある境界に入ってきたのを感じた。その正体を確かめるべく、絃は立ち上がる。
「月人、ろいろ。行くよ」
「承知しました」
「わかった!」
月人とろいろは、絃の意図を汲み取ってくれたようで、本来の姿へと変化した。
絃も、妖の姿へ変化すると、気配がする方へ向かう。
現世から幽世へ来る方法は、幽世との接点と言われる場所や時間に迷いこむことで、幽世へ来ることができる。しかし、すぐに幽世には来られない。接点や時間に迷い込むと、真っ暗な闇が待っている。
それを境界と絃は呼んでいる。その境界を真っ直ぐに進んでいくと扉が現れる。その扉を開けると幽世に辿り着く。それは妖が現世へ行く時も同じだ。
今回、迷い込んできた人は、かなりの度胸があるのか、真っ直ぐと暗闇の中の境界を歩き続けている。そして、扉があるところまでたどり着いたのか、躊躇なく扉を開けた。
迷い人が幽世へ続く扉を開けた時、たどり着く場所は時々で変わる。以前の花立なずなの時は、境界内で保護が出来た。けど、今回は八尋と海里がいる裏路地の付近にいる。幽世の町は賑わっているが、裏の世界だってある。
八尋と海里は昔、裏の世界側の妖で大悪党だった。八尋と海里が大悪党のころは裏の世界の治安は悪かったが、今は良くなってきている。とはいえ、人間嫌いな妖たちが少なからずいる。人間嫌いな妖が人を襲わないと断言はできない。だから、どんな人が迷い込んだかは、わからなくても、助けに行かなければ。
裏路地に近い道のりを走って情報屋の付近へ行く。そこには、街並みにそぐわない黒い服に身を包んだ、黒髪の女性が立っていた。
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