第24話

 職場に着くと、五時三十分過ぎくらい。

 誰もいないオフィスは、がらんとしていてどこか薄気味悪い。重い足取りで自分のデスクに座り、パソコンを起動させる。

 残った仕事は、昨日ダメ出しを食らった企画書の清書だ。内容は昨日の内に考えたけど、疲れすぎて変な所が度々あった。朝はいつも眠気と戦うけど、今日は比較的すっきりしているから、この作業にはうってつけだ。

 今日は、早く帰れるように頑張ろうと、気合を入れたのにうまくいかないのはいつものこと。


「昨日と全く一緒じゃない!昨日一日何をしていたよ!ほん、っとうに、役立たずね!」

 金切り声を上げる上司は、昨日と同じように企画書を投げ捨てた。昨日よりも大幅に変えた企画書にろくに目を通さないで。

「すみません」

 自然と頭を下げていた。頭を下げたのは良いけど、上司の行動が許せない気持ちが強くあって、頭を下げているこの状況に納得がいかない。上司が見たのは、たったの二ページまで。しかも、そのページは昨日と大幅に変わっているのに、昨日と内容が同じと判断する上司の頭はどうなっているんだ。

 全部読んだ上での発言なら理解はする。けれど、たった二ページで判断するのは、納得も理解もできるわけがない。

 これじゃあ、上司はただいやがらせをしたいだけに見える。

 いいや、違う。これは、ただの嫌がらせにすぎない。上司も課長も後輩も、ただ自分の嫌なことを、ストレスを、ただ葉子にすべて八つ当たりしているだけなんだ。

 それに気づいた時。

 キーキーと金切り声で怒る上司の言葉なんて、もう耳には入らない。

 嘲笑う後輩の笑い声も、同僚が鼻で笑っていることも。

 もう、すべてがどうだっていい。

 どろどろとした黒い感情が心の中で渦巻いて、息が詰まって苦しくなる。

 黒い感情は時間を奪い去っていき、気が付けば自分のデスクへ戻っていた。仕事を再開するけれど、黒い感情に邪魔されて、うまく集中ができない。

 それでも手を動かして仕事をする。定時が過ぎて社員全員が帰ったことを見計らって、帰ることに決めた。帰るころには、すっかり日が落ちて夜になりかけていた。

 帰り道にスマホを開くと彼氏から鬼のようなメッセージが届いていた。

「どうして起こさなかった」

「おかげで遅刻した」

「上司に怒られた」

「ふざけるな」

「全部お前のせいだ」

「仕事をやめろ」

「お前には向いてない」

「早く帰ってこい」

「腹が減った」

「飯を作れよ」

「俺を餓死させる気か」

「お前には、それぐらいのことしかできないんだから、さっさと帰って来いよ」

「俺の為に尽くせよ」

「役立たず」

 彼氏のメッセージは、全部八つ当たり。自分の非を認めないし、それを葉子の所為にして、人格を否定してくる。こんな男のどこを好きになったんだ私は、と心の中で呟く。どろどろとした真っ黒な感情が心の中に溢れていく。

「ははは」

 気が付けば、笑っていた。

 もう何もかもが、どうでもいい。

 もう、何も知らない。

 生きるのも嫌、かと言って死ぬのも嫌だ。なら、逃げたい。

 人がいない世界に。子供の頃好きだった絵本や漫画のような異世界に逃げてしまいたい。

 真っ黒な感情が心の堤防を決壊して、両目から涙が溢れて止めようにも止められない。

 その場に立っていることさえも嫌になって、地面に蹲る。地面には、ポタポタと涙のシミが出来ていく。道のど真ん中で泣いていることに恥ずかしさを感じるけれど、でも涙を我慢する気力はもうなくなった。だから、もうどうしようもない。溢れ出る涙が枯れるのをただ待つしかない。

「大丈夫ですか?」と声を掛けられた。

 見上げると、綺麗な金色の髪の毛で眼鏡をかけた、顔が整っている男性が立っていた。男の顔があまりにもイケメンだったから、溢れていた涙がピタリと止んだ。

「あ、大丈夫です」

 泣いていたのが急に恥ずかしくなって急いで涙を拭って、立ちあがる。急に立ち上がったせいか、くらっと立ち眩みが起きて倒れそうになった。

「おっ、と。大丈夫ですか?」

 男性が軽く支えてくれたおかげで倒れずに済んだ。支えてくれる大きな手が、彼氏とは違ってとても優しい。

 微かに香るきつすぎない心地のいい匂いがした。それが、彼氏と違い過ぎて少しドキドキした。

「あ、はい。大丈夫です!」

 男性から身を離して、深く頭を下げると、男性はにこやかな笑みを浮かべた。

「何かあったんですか?俺でよければ、力になりますよ」

 妖艶めいた笑みを浮かべる男性に、一瞬引き込まれた。初対面でそういうことを聞くのは、詐欺師のように見える。

「実は……」

 でも、ストレスが溜まっていて全てを吐き出したくて、初対面なのに気が付けば話していた。

「なるほど。仕事と恋人で悩まれているんですね」

「はい。もうすべてがどうでもいいんです。いっそ、この世ではない異世界に迷い込んでしまいたいぐらいに」

「そうですか。なら、教えましょうか?」

「はい?」

 男は真面目な顔で、衝撃的な言葉を口にした。

「教えますよ、異世界に行く方法を」

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