第22話

「うわ、まだやってるよ、真鳥さん。もう定時なのにねぇ」

「ねぇ、どんだけ仕事が遅いんだよ。マジで役に立たねぇじゃん」

 向かいに座る後輩たちのひそひそ話が聞こえてきた。

 目だけでパソコンの時計を見ると定時の五時三十分を少し過ぎていた。机の上に積みあがるファイルは、ようやく半分が終わったところ。お昼休憩後から始めて、この進み具合はかなり早い方。これを遅いという後輩には、これくらいの量をこなせるようになってから言ってくれと、切実に思う。

「真面目な人って、仕事ができないってほんとなんだね」

「もう辞めたらいいんじゃないかな?」

 そういう君たちが辞めたらどうなんだ、と心の中で悪態をつく。第一、葉子に振られる仕事量は、一人に与えられる量の三倍だ。もともと全員分に振り分けられる仕事があっても、その大半を全てやっている。後輩たちに配られる仕事量はほんの少しだけ、その量だから定時で帰れるということをきっと知らないのだろう。

「あ、そうそう。ねぇ、聞いた?課長の彼氏って、真鳥さんの元カレらしいよ」

「ええ!マジで!うわぁ、寝取られたんだぁ。可哀想~」

 後輩はかなり性格が悪いようで、わざと聞こえるような声で、コソコソと話をしている。声が大きいからコソコソ話ではなくなっている。そのことに気づきながら、わざとやっているのだろう。

 元カレの事は仕方がなかったんだ。

 そう思うようにして、吹っ切ったはずなのにズキズキと心が痛む。タイピングをする手が止まってしまいそうになる。もし止めてしまえば、性格の悪い後輩に良いようにされてしまうだろうから、聞こえないフリをし続ける。


 時間が六時を迎えると、社内に残るのは葉子だけとなった。後輩たちはいつの間にか帰ったようだ。

 ふぅ〜っと、ようやくため息をついて、椅子の背もたれにぐったりと寄りかかる。

 ぼーっと、天井を見上げると、後輩たちの会話が脳内で再生されていく。

 人の三倍も仕事しているのに、いいや、押し付けられた仕事をほとんどミスなくやっているのに、役立たずと評価されるのは癪に障る。おまけに元カレの事まで、愚痴愚痴と述べる始末。それを注意もしなければ気にもしない、同僚の女課長。

 一体、何のために仕事をしているのかわからなくなった。

 この職場にいる社員全員がきっと、真面目な人間に生きている価値はない、と言っている気がした。

 なんて、馬鹿らしい。でも、心身が疲弊してギリギリの精神状態を何とか保っている今は、その通りなんじゃないかと思った。それが、今まで考えて来なかった生きる意味まで考えるようになってしまった。

 どうにかすべての仕事を零時前に終わらせて、自宅のマンションに帰った。

「ただいま」

 声を掛けると、出迎えてくれたのは、ダボダボなシャツを着て、高校の体操服を思わせるいかにも安そうな短パンを履き、棒アイスを口に咥えて、だるそうに後ろ髪を掻いている現在の彼氏だ。

「おかえり~」

 気だるげな声が、頭の中を通り過ぎていく。彼氏に掛ける言葉すらも面倒で、軽く頷いてから、玄関を過ぎてリビングを横切り、自分の部屋に入って荷物を置く。

 着ているスーツを脱ごうと思ったとき、彼氏がノックもしないで部屋に入ってきた。そのデリカシーなさにイラっとした時、彼氏は間延びした口調で言い放った。

「ねぇ、ご飯作ってよ」

 その言葉に、心の中で大きなため息を吐いた。

 時刻は、零時半。どう考えてもご飯を作るのは遅すぎる。葉子はもう、疲れ果てて何も食べずにお風呂に入って寝たいぐらいなのに。

 彼氏は、いつだってそう。一捻りした考えができないから、気の利く言葉も、配慮もしてくれない。それよりも、メールで先に食べていてと送ったはず。買って食べるなり、冷凍食品を温めて食べるなりできたはずだ。

「……今から、作って食べたら一時過ぎちゃうよ」

「俺は別にいいよ。つーか、葉子が早く作ればいいんじゃねぇの?俺はさ、お腹が空いてんの。いいから、早く作れよ」

 彼氏が食べてしまった棒アイスは、葉子が疲れた自分に向けてご褒美として買ったもの。誤って彼氏に食べられないように冷凍庫の隅に置いておいたはずなのに。保険で、食べないようにと付箋も書いて貼った。それを知っていながら、彼氏はアイスを貪り食ったんだ。

 ちらっと、リビングのごみ箱に目が入った。ゴミ箱には、ぐしゃぐしゃになっている棒アイスの袋、自分の部屋に置いておいたお菓子の袋が乱雑に入れられていた。それを食べて何一つ詫びも入れないどころか、早くご飯を作れという彼氏に歯向かいたくなった。

 でも、それをしたところで、余計に体力と心が持っていかれるだけ。だから、結局いつも言うことを聞くしかない。

 彼氏は食には妙なこだわりがあって、全部自炊でないとダメ。冷凍食品を使うようなら、言葉の暴力で心を無尽蔵に殴ってくる。冷凍食品なら、すぐに作れるけど一から作る自炊は時間がかかって当然だ。それを作るのが遅いというのは、傍違いにも程がある。

 眠いし、心も体もボロボロなのに一からご飯を作るのは本当に勘弁してほしい。手抜きご飯を作りたいけど、そんなことをしたらすぐに彼氏に気づかれて、グチグチと言われる。ただでさえ疲弊しきっている心に言葉の暴力を受けたくない。

 だから、彼氏が好きなオムライスを作ることにした。運よく材料がそろっていたからよかった。

 野菜を斬りながら彼氏を見ると、ソファの上でトドのように寝っ転がってスマホを見ている。その姿に、不快感と一握りの殺意が湧いた。それをかき消すように、わざと大きな音を立てて野菜を切った。

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