第9話

 最近、黒人の様子がおかしい。なずなはそう感じていた。

「ねぇ、黒人?」

 いつもの待ち合わせ場所に行くと、黒人はそこに立っていた。嬉しさが募る一方で、黒人から異様な雰囲気を感じた。肌を刺すような寒気が全身に湧き立ち、震えるような声で黒人の名前を呼ぶ。

 黒人がゆっくり振り返った瞬間に、背筋が凍り付いた。黒人の目は、空のように青くて綺麗だったけれど、今は朝焼けのような赤色。普段から表情が動かない黒人だけど、顔を合わせると少しだけ表情が和らいで、微かに笑みを浮かべてくれていた。なのに、今は表情の欠片もなく、まるで人形のように無表情で、どこか薄気味悪く感じる。

 黒人は、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。いつもは嬉しくてたまらないのに、ここ最近は怖くてたまらない。

「なずな」と、大きな手で頬を触る手つきは、とても優しい。触れられると、思い違いなのかもしれない、と思ってしまう。

「愛してる」と、愛を囁いてくれる黒人は、付き合ってからも変わらない。思い違いだと、思い込むことで違和感から抜け出せるかもしれない。

 でも、黒人の左手からポタポタと滴り落ちる赤い血を見なければ話は別だ。


 花立はなだてなずなは、高校二年生。家は有名な茶道一家。その家柄から、両親は厳しくて嫌気が差していた。すぐ近くに優しい祖母が一人で生活している。両親と喧嘩した時や家に帰りたくないときは、よく祖母の家に泊まることが多かった。祖母は事情を察してくれているのか、朗らかな笑顔で何も言わずに家に置いてくれた。祖母は凄く優しくて話しやすいから、両親や兄にも相談できないことを相談できた。学校の出来事、両親の悪口、これからの不安の事を祖母は、口を挟むわけでもなくただじっと、聞いてくれた。両親に相談すると、まだ全部話していないのに口を挟んで、ガミガミと言うから気分が悪くなる。でも、祖母といる時は心地が良くてつい余計なことまで喋ってしまう。

 でも、そんな祖母にも黒人の事を打ち明けることはできなかった。祖母にも言えないことを両親や兄になんて言えない。もし言ったら、頭がおかしくなったと騒ぐだろう。

 誰にも黒人の事を相談できない。だから、自分で何とかするしかない。そう考えるけど、人である自分に何ができるのだろうかと悩みは増え続ける。

「黒人……、どうしちゃったの?」

 祖母の家でお風呂に入りながら、ぽつりと呟く。湯船の水面に手から血を滴りながら、愛を囁く黒人の顔が浮かぶ。その顔を思い出す度に、背筋が凍るような悪寒に襲われる一方、妖艶な笑みの黒人に心がときめいてもいる。

「私にできる事なんて、きっと何もないよね。でも、やらなくちゃいけいない気がする」

 そうしなければ、黒人がいなくなってしまう。なぜか、そう思わずにはいられなかった。頭の中で、何度もあの日の黒人を思い出せば思い出すほどに、黒人は助けを求めているのではないかと考えてしまう。

「私にできることはないけど、せめて黒人といる時間を増やそう。そうすれば、原因がわかるかもしれないし」

 不安と期待を胸に湯船から立ち上がった。


 次の日、なずなは黒人との待ち合わせ場所に向かった。鞍馬山の中に入ると、黒人と出会ったときのことが鮮明に思い浮かぶ。

 あの日は、仲の良い女友達と登山に来ていた。一緒にいたはずなのに、なぜか逸れてしまった。

「あれ?ここはどこ」

 気が付けば、開けた場所に一本の大きな枝垂れ桜が咲いている場所に来ていた。辺りを見渡すけれど、友人たちの姿がない。それどころか誰もいない。まるで、世界にぽつんと一人だけ取り残されてしまったみたいだ。

 季節は、葉桜が舞うころなのに、どうしてか桜が咲いていた。桜は美しさをかたどる様に咲き誇っている。その様子がどこか怪しげに見えて全身に怖気が走った。

「どうしよう……。来た道にはどうやって戻ればいいの?」

 辺りを少し歩いてみても、道らしい道はなかった。それどころか、景色が全く変わらない。歩いても、歩いても同じ場所にも戻ってきてしまう。まるで見えない何かに遮られているみたいだ。

「そういえば、こういうの都市伝説とかであったよね……。確か存在しない駅に降りてしまったやつ。もしかして、今その状況だったりする?」

 どんどん内から恐怖が噴き出してきて、居てもたってもいられなくなって、逃げるように走り出した。走っても結局、同じ場所へ戻ってくる。この世界から逃げられないと思うと、視界が滲んできた。ぽろぽろと涙が頬を伝って落ちてきて、それを拭えば拭うほど泣きたい気持ちが高まってきて、嗚咽が漏れてしまう。世界に自分一人しかいないのであれば、いっそ声上げて泣こうかと、思った時。

 ガサガサと、桜の木が揺れた。

「なに?」

 その瞬間に恐怖が限界突破を迎えて、声がカタカタと震える。木の揺れは次第に、耳を塞ぎたくなるほどに大きく音を立てて揺れる。

 何かがいる、そう思うけど、その正体を考えるのが怖い。もしお化けだったら、どうしよう。

 恐怖から目をきつく閉じて、両手で耳を隙間を作らないように塞いで、やり過ごすことにした。

 これは夢を見ている。早く起きなければと、心の中で何度も、何度も、繰り返し唱え続けた。

 体感で、二十分ばかり経った頃に、おそるおそる目を上げた。

 すると、視界いっぱいに大きな化け物が仁王立ちしていた。鋭い眼光を向けられた瞬間、体中に火花が走って脱兎の如く駆け出していた。

「おい、待てよ人間!人間のくせに足が速ぇな!」

 化け物は太くて大きな声を上げながら、走る音が聞こえた。恐怖に支配されていて、後ろを振り返る余裕なんてない。今はただ、足を動かして少しでも逃げる距離を稼がなければ。

 普段からあまり運動をしないから体力の限界が近かった。

「きゃっ!」

 足がもつれて地面に顔面から突っ込んで盛大に転んでしまった。でも、立ち止まるわけにはいかないから、急いで立ち上がる。

「いっ!」

 両膝に激痛が走って、後ろに尻餅をついてしまう。膝を見ると、大きな擦り傷ができていて血がドクドクと流れ出ていた。ジクジクと痛む膝を押さえつけながら、もう一度立ち上がるけど、痛みが走って思うように立ち上がれない。逃げたいのに逃げることができない。化け物が真っ直ぐこちらに向かってくる足音が、なずなの恐怖心を加速させて、両目から涙が流れ落ちる。

「こっちに来ないで!」

 向かってくる化け物に叫ぶと、化物はケタケタと気味の悪い笑い声を上げながら距離を詰めてきた。その風貌は、絵本の中に出てくる化け物にそっくりだった。

「来ないで!お願いだから!」

 なずなは、化物に懇願するように叫び続ける。転んだせいでもう走れないし、恐怖で完全に腰を抜かしてしまって体に力が入らない。もう、どうやっても逃げられない。それでも、どうにか距離を取りたくて、地面を這うように座ったまま後ろへ後ずさりをする。

 でも、全く意味はなかった。気が付けば化け物との距離が目の鼻の先になっていた。化け物が大きな口を開けて笑っていた。自分の死が目前に迫っているのを感じた。これから訪れるであろう痛みと恐怖に備えるように両目をきつく閉じた。

 お父さん、お母さん、お兄ちゃん、おばあちゃん。わがままな子でごめんなさい。

 死を覚悟して、心の中で家族の顔を思い浮かべた。

 でも、痛みはやってこなかった。

「ぐえっ!」

 化け物の呻き声が聞こえて見ると、背中から黒い翼が生えた黒髪の男の子に足蹴りを食らっていた。

 化け物は膝をつくと、「クソ!あと少しだったのに。おのれ、鴉天狗め!」と、唾を飛ばしながら暴言を吐いてそそくさと逃げていった。

 翼が生えた男の子は、小さくため息を吐いた。ゆっくりとなずなの方を振り返った。

 透き通るような美しい青い目、鼻筋が整った顔立ち。

 目が合った瞬間に、体中に熱がこみ上げてきて目が離せなくなった。

「大丈夫か?」

 迷うように手を差し伸べる黒い翼を持った男の子、黒人に出会った瞬間に一目惚れをしてしまった。

 それが黒人を好きになった一番のきっかけ。


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