第8話
「まさか、恋仲になるとは思わなかったですね」
月人が出してくれたお茶を飲みながら、絃は軽く頷く。
「そうだね。でも、黒人に後悔はなさそうだからいいんじゃないかな。ちゃんと覚悟も決められたようだし」
半分まで飲んだお茶をゆっくり机の上に置く。頭の中で悩んでいた黒人の顔を思い浮かべる。あの日に掛けた言葉が少し辛辣だったかなと、ずっと気になっていた。けれど、黒人の心に届いていたようで、ほっと胸を撫でおろした。
これから、心から幸せな日々が続いていくといいな、と願うばかりだ。
黒人は、なずなと恋仲になってからも、定期的に訪れて相談という名の惚気話をしてくれた。黒人の表情は、無表情なことが多いが、なずなと恋仲になってから、表情が柔らかになってきている。口数も以前よりも、増えてきていて、なずなとの仲睦まじい光景が頭の中で想像できた。
絃は今まで恋に触れたことがなかったから、黒人の話を聞くのがここ最近の楽しみになっていた。
「そろそろ、黒人が来る時間かな?」
「ええ、そうですね。お茶とお菓子を用意しました」
「ありがとう」
縁側に腰を掛けて、空を見上げる。どんよりとした厚い雲の中を、一羽の鴉が飛んでくることを期待して。けれど、その鴉はやってこなかった。空には厚い雲だけが浮かんでいて、次第に逢魔が時を迎えた。
「めずらしいですね。黒人が来ないなんて」
「そうだね」
「何かあったのでしょうか」
そう考えるのが、妥当だろう。もしくは、時間を忘れてしまっているだけなのか。でも、黒人は真面目な性格で約束を破るような妖ではない。
「とりあえず明日も待ってみよう」
「そうですね」
嫌な予感を感じながら、すっかり冷めてしまった残り半分のお茶を啜った。
けれど、その後も、翌日も、そのまた翌日も黒人が訪れることはなかった。何かに巻き込まれたとしか考えられない。
「月人、ろいろ。八尋の所に行ってくる」
お昼ご飯を食べ終わって月人もろいろも縁側でのんびり休憩している時に、絃は二人に声を掛けた。
「あのカラスのことか?」
縁側でのんびりと昼寝をしていたろいろがむくりと起きた。
「そうだよ。何かに巻き込まれたのかもしれない。念のため八尋に情報が来ていないか、聞いてみようと思うんだ」
「考えすぎだよ、絃。きっと、あのカラスは人間の女といるのが楽しくて、忘れているだけだよ」
楽観的に考えるろいろの考えもわからなくはない。けど、胸の奥でざわざわと騒いでいることを、見過ごすことができない。杞憂に終わったのなら、それはそれでいい。でも、それが杞憂に終わらなかったら、後で後悔をする。
「でも、危ないことに巻き込まれている可能性が高いなら、見過ごせないよ」
絃は、縁側から玄関へと続く襖を開けていく。ざわざわと蠢く胸騒ぎを押さえつけるように早く足を動かして、玄関にたどりつく。普段、絃は人の姿でいることが多いが、今は妖の姿へ変化した。
玄関にある雪駄を履くと同時に、バタバタと廊下から足音が聞こえた。
振り返ると、慌てている様子の月人とろいろがいた
「絃、待ってください。私も一緒に行きます。ろいろは、留守番です」
「えぇ!やだ!僕も行く」
ろいろは小さな足を動かして、廊下を走ってきて、絃の肩にぽふっと乗った。
「鞍馬山の鴉天狗か?特に情報は来てないぞ」
「そうか」
八尋を訪れるも、黒人の情報は入ってきていないようだった。何かしらの情報が入ってきているかもしれないと、少しだけ期待したが残念な結果だった。ふっと、ため息に似た息を吐く。
「絃。あのカラスはきっと大丈夫だよ。しばらくすれば、戻ってくるよ」
ろいろは、元気をだせと、ぷにぷにとした肉球で頬を触った。
「ありがとう」
口に出すけれど、嫌な予感は消えなかった。これから、どうしようか。そう考える。ろいろの言うように黒人が訪れるまでやきもきしながら、待つべきなのだろうか。それで無事に黒人が戻ってくればいいけど。もし、戻らなかったら。今この時、遠くで黒人が助けを求めていたらと思うと、胸が苦しくなる。
頭の中で悶々と思案していると、不思議そうな目で見てくる八尋と目が合った。
「その、鴉天狗に何かあったのか?」
八尋は、閉じた扇子を手の平で叩きながら、聞いてきた。
「まぁね」と一言だけ呟くと、八尋は「ほう」と悪戯な笑みを浮かべた。
「話してみろよ、絃。そこの子狐ちゃんは、あまり気に留めていないようだけど、お前は気にしているんだろう。その鴉に何かあったんじゃないか、って。違うか?」
扇子で肩に乗っているろいろを差すと、むっとろいろが不機嫌になる。八尋は、いつも心を見透かしているように、明確に当ててくる。八尋に隠し事はできないなと、常々思う。
「絃、ここは彼に話をしておいた方が楽になるかもしれません」
月人は少しだけ八尋を睨みつけながらも、適切な助言をしてくれる。
「そうだね、月人」
八尋に黒人のことを相談することに決めた。
「なるほどね、人の娘と恋をした鴉天狗の黒人の姿を連日見ていないというわけか。それは、子狐ちゃんのいうように、女といる事が楽しくて忘れているだけかもしれないなぁ。でも、どこか匂うな」
すっと、目を細める八尋。
「匂う?」と、問い返す。
八尋は傍に立っている海里と目線を合わせると、海里は静かに首を縦に振った。それに満足したように、ニヤッと笑って、絃に目を向けた。
「絃、お前の勘は当たっていると思うぞ。その鴉天狗は何かに巻き込まれたと言ってもいい。そうでなきゃ、あの生真面目な鞍馬山の鴉天狗がお前との約束を忘れるわけがない。月、お前もそう思うだろ?」
「ああ。俺もそう感じていた。ろいろの考えもあるが、絃とおまえの言う通りだろう」
月人の言葉に賛同するように絃は、頷いた。
「絃、一応幽世と現世の状況には敏感になっていた方がいいかもな。その件を調べてやりたいが、前に頼まれた件を調べるので手一杯でな。悪いな」
「い、いや。我も、いつも八尋に頼って悪いな」
珍しく申し訳なさそうに眉を下げる八尋に、びっくりして少しだけ声が裏返ってしまった。けど、八尋には気づかれてはいないようだ。
「別にいいさ。じゃあ、また何かあれば寄ってくれ」
「ああ、そうする。忙しいのに悪いな」
「気にすんなよ、じゃあな」
八尋は、ヒラヒラと手を振りながら奥の部屋への歩いていった。
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