2 ○ - candy

早朝、部屋の窓からさしこむ白い光は赤子のまなざしだった。

その光を浴びているとき、行ったこともない遠い国の教会で神に祈るような感覚を抱いた。

砂と埃と花のにおい。汗と年季が可視化された街。

土煙を避けて布を被る人びとが熱っぽい市場を行き交っている。


祈りに区切りがつき、伏せていた顔を上げて組んでいた両手を解いた。蒸れた頭皮が臭い。

おもちゃみたいな木製の偶像が壁に飾られている。針金で括られたそれに朝と夜、人びとはこうべを垂れて拝んでいた。


「時々、牧師が針金を結び直すんです」


握った子機から相づちの声が聞こえる。

目の前のデスクの上に広げられた雑誌や本の切り抜きは、すでに日課の確認作業を終了しているものだ。

電話を終えたあとでいつものファイルに綴じるつもりでいる。

カウンセラーを兼ねる私の主治医は少し間を置いて質問をした。


「その牧師と会話をしたことは?」

「ないです。ただ、私のことは知っているみたいで」


祈る姿勢のまましゃがんでいる私に穏やかなまなざしを向け、担いできた椅子を偶像の前に置いた。

緩慢な動作で椅子に乗ると椅子は乾いた音を立てて軋む。

節くれだった指を伸ばして針金をほどきながら牧師はこう言った。


「もうすぐ給水塔が完成する」

「給水塔?」


反芻する私と主治医の声が重なる。牧師は偶像を見つめたまま頷いた。

白いペンキが足らなかったため、しかたがなく土を混ぜて壁を塗った。

花びらが混ざり青白い管が壁を伝うことになるそうだ。


「では、ここにも水道が引けるんですね」


私はほっと安心して、足元に置いていた「入居の案内書」を拾った。

A4サイズで印刷された白い用紙には、ダイヤル式メールボックスの解錠方法についての記載がある。

はじまりを水色に合わせてつまみを右に乳白色、それから左に黄緑色。

主治医は問う。


「メールボックスは開けたの?」

「いいえ。開けたかったんですけれど」


窓を開けると、屋上で巨大な蝶が翅を休ませていた。

光が透らないわけだ。だから空はずっと冬の夕暮れのままなのだ。

慌ててベランダに飛び出した私は叫ぶ。


「口吻が垂れ下がっているままではいけない」


蝶の翅をかきむしり鱗粉を落としていく。

蝶は飛んで逃げることもせずにじっとされるがままであった。

足元にカラーフィルムが散らばり翅が透明になっていく。

ああ、これで光が透るでしょう。

安心して部屋に戻ると、放り投げた子機から主治医の応答を求める声が聞こえていた。

子機を耳に当てて返事をする。


「先生、ごめんなさい」

「突然どうしたの?」

「なかなか夜がやってこないものですから、外を見たら大きな蝶が」

「そう。それは大変だったわね」

「ええ、そうなんです」


労いの言葉に深く頷く。

せっかく給水塔が建つというのに。

あれではいくら経っても貯水槽に水が貯まることはないでしょう。


「それから牧師の姿を探しましたが、あれ以来見かけません。

 代わりに私が針金を結び直そうと思い、脚立用の椅子を探しました。

 しかし、教会のどこにも椅子は見当たらなかったのです。

 しかたがないので、針金がほどけて床に落ちるまで待ちました。

 完成した給水塔に結ぼうと思ったんです」


デスクに広げた複数の切り抜きには無骨なコンクリートの建造物が写っている。

長方形のものや、円盤、寸胴のものまで形状は様々だ。

建造物を繋げるように切り抜きを縦に並べると、歪な梯子のように見えた。


しばらく無言が続いた。主治医の文字を書く音だけがかすかに聞こえる。

離れた場所から控えめなアラーム音が鳴り出した。


「あら、もう時間だわ」

「今週もありがとうございました」

「どういたしまして。また次の水曜日にね」

「はい。よろしくお願いします」


毎週ともなれば終了の挨拶は簡潔だ。

こちらが子機から耳を離すよりも早々に主治医は電話を切る。

カウンセリングもそろそろ終盤だろうか。

こうして話を聞いてもらえる機会がなくなるのは惜しい。

ならばこの作業は今日のうちに済まさなくては。


私は教会で拾った針金と偶像を携えて、玄関のドアを開けた。

クリアービニールのつっかけで薄暗い団地の階段を昇っていく。

まだ点灯の時間ではない。踊り場で体を半回転するたびに夜が濃くなっていく気がした。

最上階に着くと、低い天井に鉄製のドアがひとつ。塗装はあちこち剥がれていた。

ドアノブは見た目より滑らかに回った。日中業者が出入りしていたのだ。

そのまま捻って扉を押すが動かない。シリンダー錠の辺りから軋んだ音が鳴る。

鍵穴に顔を近づけて指先で探ると突起物に当たった。針金が差し込まれているようだ。

愛らしいいたずらである。思わず唇が綻んだ。

飛び出た針金を親指と人差し指で摘み、ゆっくりと引き抜く。

この針金も使わせてもらおう。

屋上に偶像を結べば参列が生まれ、この扉を施錠する必要もなくなるのだから。


「針金にビーズでも通そうかな」


興奮して言葉が口から飛び出す。扉を押して跳ねるように屋上に出た。

覆われた曇り空は奥行きを失くし、コンクリートの地面には水溜まりが模様を作っていた。

外にいるのに自分の部屋より閉塞感がある。


「しょうがない。こんな日もある」


今日がたまたま光を透さないだけだ。

視線を移すと、鋼製架台の上に設置された巨大な球体を見つけた。貯水タンクだ。

宙に浮くように横に付けられたタラップは偶像を結ぶのにぴったりだ。

あそこまでは架台の支柱をよじ登ろう。

足を踏み出してタンクに近づく。

すると架台の奥から誰かが顔をひょこりと覗かせた。

薄暗くてぼんやりしているが、中学生くらいの男の子だろうか。

まさか人に遭遇するとは思わなかったので息をのんで立ち止まった。


「開けられたんだ」


男の子は関心した様子で架台の脇を通り過ぎ、こちらに近づいてきた。

開けられた。そうだ、鍵穴に針金が差し込まれていて抜かないことには扉は開かなかった。

この子はどうやって屋上に入ったのだろう。まさか管理事務所から鍵でも盗んだのだろうか。


「盗みなんてしないさ」


気づけば男の子は目の前に立っていて、片手でズボンのポケットの中をまさぐっていた。

探し物を見つけたのか、手を握りこぶしのまま私の前にゆっくりと差し出す。


「それはここに置かないほうがいいよ」


それ とは、私の偶像のことだろうか。

牧師がいなくなった今、私がここに教会を開かなければならないのに。


「代わりにこれをあげる」


そっと開かれた手のひらに包み紙のない裸の飴玉が載せられている。

薄暗い中でそれは自ら発光するようにきれいな黄緑色をしていた。


「青りんご味?」

「うん」

「あれも、晴れていたらこんな感じなの?」


男の子の背後にある巨大な球体を指さす。

静かな塊。それは本当に水を湛えているのだろうか。


彼は後ろを振り向くでもなく笑って頷いた。

それがこれだよ。

平べったい手のひらを傾けて節くれだった指の上を飴玉が転がり、落ちる。

「あっ」と慌てて両手を突き出し飴玉を受け止めた。

その拍子に何か、なにかを放り投げた気がする。コンクリートにぶつかった音。

上空で羽ばたく音がして強い風が巻き起こる。

私は思わず目をつむった。


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