後編

 

 児相や学校、病院の人間が集まり、あの人を入院させ、ぼくらの保護を決めたとか。


 ハセガワさんはそれを、遠回しに伝えてきました。

 あの人も、ぼくらの保護に同意しそうなことも。

 弟たちは分かっていませんでしたが、心の準備をさせたかったんでしょう。たしかに、あの人の病気が悪くなっていることは、目に見えて分かりました。


 時間がありません。あの人はどうせ、ぼくを捨てる。

 知らない場所にぼくを預けて、もう二度と会おうとしない。初めからいなかったように、新しい自分の人生を送る。余裕が出来たら、可愛げのある、小さい弟たちだけ引き取るんだ。


 ああ、そんなこと許せない。


 勝手に作って、勝手に産んで。いらなくなったら捨てるなんて。ぼくはずっと、ひそかに、その機会をうかがっていたんです。


 でも、うっかりぼくが居眠りし、目を覚ますと、あの人が台所に立っていました。


 夢を見ていると思った。でも、その懐かしい匂いで、一気に目が覚め、ああこれは現実だと分かりました。

 あの人はカレーを作っていたんです。

 カレーなのに、甘いような、不思議な香りがする、お母さんが作る秘密のカレー。お母さんは、起きたぼくに「もう出来るよ」と微笑みました。

 弟たちが駆け寄り、はしゃぎ出します。

 ぼくは突然のことに戸惑い、でも、あの人の気持ちが分かるようでした。あの人も、辛いんだ。苦しいんだ。だから最後に、これから捨てるぼくらにせめてものと、手料理を振る舞う。


 お母さん。お母さん。

 そんなこと、しなくて良いのに。


 ぼくは、あの人を抱きしめ、一緒に泣きたかった。


 お母さんは、いつも必死だった。

 自分に出来ることを、一生懸命、ずっとやっていた。良いお母さんになりたくて、でも出来なくて、それで苦しんできた。

 子どものぼくらがいるからこそ、そうなんだ。

 ぼくがいるせいで、お母さんが苦しんでいたのに。本当は、ぼくは、それを知っていたのに。ぼくにしてきたことも、病気がさせていたんだよね。


 ごめんなさい。

 お母さんを捨てるなんて、もう思いません。

 そうだ。本当はもう、生きているだけでいいんだ。もう、それだけで、良いんだ。今からどんなことが起こっても、ぼくが守る。全部、守ってみせる。だってほら、ぼくは長男だしさ。


 ぼくらは親子、ぼくらは家族だ。

 だから、絶対絶対、大丈夫なんだ。


 心の底から大好きな気持ちが、口には出せなかったけど、湧き上がった。そして、みんなでカレーをお皿によそい、お喋りしながら、楽しく食べた。あの時のぼくらは、テレビの中にしかいない、幸せな家族みたいだった。


 食べながら、どうしてお母さんがカレーを作ったの、と不思議そうに言うハルに、お母さんは「あとで分かるよ」と言い、その汚れた口元を拭いていました。それにアオが、今日のお母さん優しすぎ、でもカレーは美味しすぎ! なんて変顔しておどけ、お母さんも少し笑いながら「みんなは、大好きなお母さんの子。でも」と言いかけ、小さく息を吸い込んだあと、悲しい顔で言った。


「みんなが、お母さんの大好きな子なら良いんだけど」


 はッと思った。

 ぼくのことを言っているんだ。全て、見透かされていたんだ。そう思った。

 でも、分かってほしかった。ぼくは、さっきまで変わっていた。お母さんが大好きな、お母さんの子に、戻っていたんだ。ちがうよ! と言葉がこみ上げる。でも、言えない。


 言えないからこそ、くすぶった言葉は、ぼくの中で、なにかに火をつけた。


 それは、ぼくの全身を走り、一気に燃え上がらせ、温かくて柔らかなものを、全て燃やした。

 捨てよう。捨てよう。あの人を、捨ててしまおう。

 そんなぼくをなにも知らず、あの人は淡々と言った。


「あんたたちの誰かが、私を捨てる」


 弟たちは、そんなことはしない、ぼくはお母さんが大好きだと、ぼくのほうが好きだと、泣きながら騒ぎだす。

 それを余所に、あの人は首を振り「ほんとうに、産まなければよかった」と、吐き捨て、立ち上がり、台所から包丁を引っ掴み、弟たちが大泣きする中、その切っ先を、真っ直ぐぼくに向けた。


「あんたは、私を捨てる」


 ぼくはもう、分かっていた。

 だから、憎んだ。

 誰よりも、何よりも、ありったけのものを捧げあげ、憎んだ。

 母と子。絶対に分かりあえないも、赤く生々しい、狂った絆だけがあった。


「あんたのやりたいこと、しなさいよ」


 やってやる、と思いました。


 お前の言う通り、あんたを捨てる。

 子どもに包丁を向けたとなれば、もう終わりだ。

 ぼくは直ぐ家を飛び出し、ここにきました。そのとき、星空が、とても綺麗でした。キラキラ輝き、空気は冷たいけど澄んでいて、舌の甘さを、洗ってくれるみたいで、すごい、これが自由の味なんだって、思いました。


 あはは。


 早く、捕まえてください。あの人は家にいます。入院させて、病院に閉じ込めてください。


 えっ。

 酷い親だねって。

 辛かったねって? 


 はあ。ぼくが、辛かった。

 あの、えっと。

 ああ。

 お母さんが酷い親、ってこと、ですか。


 なるほど。

 

 いや、あなたになにが分かるんですか。

 撤回してください。

 そんなこと言われたくて、話したわけじゃない。


 ふざけるな。


 黙れよ! 


 ああ、すいません。せっかく聞いてくれたのに。そんな顔しないで。


 そうです、そうなんです。


 ぼくは、虐待されていたんだ。はい。分かってくれて、ありがとうございます。

 お姉さんは、優しいですね。

 優しい人に聞いてもらえて、良かった。


 あはは。


 あはは。


 はい、そうです。ぼくは、あの人を愛していない。

 はじめから、愛してなんかいなかったんです。

 今の話は全部、嘘です。ごめんなさい。


 ぼくは、ずっと虐待されてきました。お母さんが、ちっとも愛してくれないから、ぼくは捨てて、少しでも愛してくれる人の方に、行くことにしたんです。


 はい、ぼくは虐待されてきた子どもです。


 愛されなかった、可哀想な子どもです。




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訴えたかったもの 朝井景介 @asaikeisuke

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