エピローグ

 俺は凪原に身体を抱きしめられたまま、海原の隣にある石畳の上へと流される。

 最初から、身を委ねてしまえばよかったのだ。そうすれば、自然と元居た場所に戻ることができたのに。

 結局俺たちは、遠すぎるほどの遠回りをしたに過ぎなかった。


「……俺たちって、どっちもかなりのばかだよな。意味もなく、整備されてない汚い海に飛び込んでさ」

「確かに、そうかもね。でも、に意味を求めていたら、きっと生きてなんかいられないよ」

「なら、無意味に海藻で身体中を包むのは、生きるのに必要なことだったのか?」

「氷室くんは、勝手に言葉の裏をかくところがあるけど、そうだね。今回ばかりは、必要だったと思う。晩夏の海のぬるま湯は、私たちを優しく包み込んでくれたから」


 凪原が言い終えたところで、今度は俺から求めるように、彼女の湿った黒髪をまるく結う。

 海水が垂れて、これまでの感情が掻き消えるように、それは波に飲まれて水平線の彼方へと運ばれていった。


「あたたかいね。氷室くんの手のひらは」


 凪原が、いつもの微笑みを浮かべながら、ただ甘く言う。


「借り本、だめにしちゃった。代わりの物、今度一緒に買いに行ってくれる?」


 ——そんなこと、訊かれるまでもなく当然だ。


 俺がそう言おうとしたところで、ポケットにしまい込んでいた携帯がこまめに振動していることに気づく。


「出ていいよ。私たちはもう、誰からも忘れられはしないんだから」

「……わかった。ありがとう」


 もう、どんな苦しみが訪れようと大丈夫な気がした。

 俺と凪原の二人なら、この世のすべてに打ち勝てるような気がした。


 そして——

 ぷつりと、会話の途中で、息を引き取ったかのように通話が切れる。


「……携帯、壊れたみたい」

「誰からの電話だったの?」


 俺は、海に波立つ塩水よりも暖かな水滴に頬を覆われながら、そっと凪原に抱き着いた。


「病院から。

 ——父さんが、息を引き取ったって」


 ◇


 葬式は、最初の想像よりもいくらかスムーズに進んでいった。

 病院の人々が。市役所の人々が。学校の先生が。父さんの同僚が。近所のご老人方が。みんな、独り取り残された俺のために、自ら手伝いを申し出てくれた。


 これは、田舎のいいとこでも悪いところでもあると思う。


 葬式がどこ吹く風で終わりへと向かったのは正直助かったし、大人になって増える色々な手続きのやり方を教えてもらえるのもありがたかった。

 父さんはこんなにも人から愛されていたのだと知って、俺も頑張ろうと思えたものだ。

 だけど、俺のすぐそばでひそひそと聞こえてくる噂話の数々には、流石に嫌気がさした。


 ときに、可哀想という言葉は人を傷つけるのだと、その日俺は初めて知った。

 いままでは、自分の不幸に対して得られる権利なんだって考えを持ったりしていたけど。


 苦しみに抗って、前へと進もうとしている俺の前では、可哀想などという言葉は侮辱以外のなんでもなかったのだ。


「氷室、いま大丈夫か?」


 高校。

 担任から本校舎の空き教室に呼ばれて、俺は素直に筆箱と一枚の紙を持って後に続く。

 確か、来週には初雪を迎えるのだったか。

 廊下の壁一面に張られた窓の外を眺めながら、ふとそんなことを考えていた。


「……えっと、前にもお伝えしましたが、進路は市内で就職しようと考えています。たぶん一人暮らしで、はい。仕方がないですよ。流石に、地元を離れるのは不安なので」


 父さんが亡くなったことによるごたつきで、時期はだいぶ遅くなってしまった。

 元々死んでしまおうと考えていたわりには、充分まともな答えを出したもんだと思う。

 でも、だから物事が優位に進むわけでもないので、就職活動は大忙しだった。


「遅かったね。うちの担任にしては、だいぶ熱心に話を聞いたものだよ」

「あはは。なんか好かれちゃったんだよな。おすすめの小説も教えてもらった」


 凪原は俺の答えに微笑みを返して、マフラーにくるまれた首元を緩め、俺に歩み寄る。

 温かい。独りでいないことの温かさを、俺はこの四か月間で数多く知った。


 それはいつか、あの日旧校舎の空き教室で凪原から訊いた言葉の数々よりも、越えてしまう日が訪れるのだろう。


「さあ、図書室に寄ってから帰ろう。これ以上先延ばしにしたら、うやむやになっちゃう気がするからね」


 凪原に手を取られて、俺はゆっくりと初冬の校舎を進んでいく。

 今日は確か、図書室で本の貸し出しや返却はできないはずだ。人はいない方が都合がいいので、俺は黙々と凪原の後に続いた。


「…………ねえ、私はさ、真ん中から本を取ったんじゃん?」

「そうだな。でも、なんか、増えてるな。俺たちがなくした二冊を補充するついでに、もっと足したんじゃないか」


 『インパチェンスの差出人』の作者夏凪灰地は、知る人ぞ知るこの町在住の新人作家。

 ざっと十冊は超える本棚の前にどこか不満げに歩み寄る凪原は、手提げかばんから二冊の分厚い小説を取り出して、片方を俺の方へと渡してくる。


「結局、私たちがなにもしなくたって、全部元通りだったんだ」


「……凪原は、それが寂しいか?」


 俺の言葉に、凪原は一息おいてから答える。


「ううん。誰かが壊したものは、別の誰かが直していく。私たちの心もそうだったように、他だって全部同じなんだ。

 それに、私にはもうきみがいる。知らない誰かに忘れられたって、怖くないよ」

「……そっか」


 俺がもう、葬式を手伝ってくれた人々の顔と名前を忘れているように。

 きっと、人間は生きようが死のうが、普通に生きようが隠れるように生きようが、空気のように移り変わって忘れられていくものなのだろう。


 それはなんだか、嬉しいようで、苦しいようで。


『私たちはもう、誰からも忘れられはしないんだから』


 あの日、朝焼けに染まる海水に浸りながら届いた言葉が叶わなかったのは、少しだけ寂しい。


「さあ、本を還そう。この物語は、私たちにもう必要ないからね」


 余白が少なすぎて、わかりづらい長文ばっかりで、お世辞にも最高とは言えない本だった。

 でも、だけどこの本は、なによりも俺たちの心を繋げてくれた。

 凪原が遺そうとした苦しみは、一度俺たちの中に入り込んで、水平線の果てにまで消えていったのだ。


 『インパチェンスの差出人』


 俺と凪原は横に並び、一緒に、あの日を思い起こしながら。

 ぎりぎりにまで詰まった本棚の端っこに、二人で買ってきた新品の小説インパチェンスの差出人をそっと並べた。


「ねえ、今日もさ、朝まで小説を読んでいようよ。あの人の好みの本、私ちょっと気になるし」

「いいよ。でもなんか、気づけば俺もだいぶ小説に通暁つうぎょうしてきたもんだなー」


 そう言った俺の手を優しくすくい上げて、凪原は微笑みながらただ甘い声で答える。

 彼女の肩にまで伸ばされた黒髪が、仄かに嗅ぎなれたシャンプーの香りを漂わせていた。


「人生はやっぱり、終わるまでの過程が一番面白いね」



                                君は通暁・了

 

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君は通暁 冬麻イチト @Junjun95

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