第5話 君はこの世のすべてを受け入れた
「ねえ、今日で夏が終わっちゃうね」
凪原は、海の浅瀬に沿って造られている段々の石の道をゆっくりと歩きながら言っている。
制服姿に朝日が差し込む光景は、目が離せないぐらいに美しい。
本当に、どうしてか、夏が終わってほしくないと俺は願い始めている。
「氷室くんは、どの季節が一番好き?」
歩みを止めて、凪原は訊いてくる。
「俺は、特に好きな季節なんてないな」
「……なにそれ。答えとして一番最悪だよ」
凪原は頬を膨らませ、元からつり気味だった目をさらに鋭くしている。
俺はそれがなんだかおかしくなって、凪原に訊き返した。
「逆に、凪原はどうなんだよ」
「私? 私は春も、夏も、秋も、冬も、全部の季節が好きかな」
「それ、俺とあんまり変わらないだろ」
「うそ、変わるよー。なにも好きじゃないのと全部好きなのとでは、大いに違いがあると思う」
そうだろうか。いや、そうかもしれない。
一緒に小説を読んでから、凪原の言葉に説得力が増したような気がする。
——いや、きっと俺が素直になっただけなのだ。
誰にも求めないという決め事を、俺はもう全く守れていない。
だからもう、きっと俺は、特に好きな季節がないことなんてなくて——
「氷室くん、提案があるんだけど」
凪原は言って、俺へと細長い右手をまっすぐ伸ばしてくる。
俺はその手を掴み、凪原を見つめ返した。
「まだなにも言ってないのに、随分と素直になったんだね」
「なんだか、凪原といると楽しいんだよ。小説を読むのも、普通に会話していても。俺、凪原に惚れたのかもしれない」
それが本心かどうかは、俺にも全くわからなかった。
ただ、いまこの言葉を言うべきだって、心の中でそう感じたのだ。
凪原はいつものように優しく微笑んで、雪に塗れる苺のような甘い声で答える。
「だったら、これからすることを最高に楽しめそうだね」
「することって、なにを——」
言い切る前に、俺は身体を凪原に引っ張られる。
正面に。左に。
そうして俺たちは体勢を崩して、そのまま海の浅瀬へと引き込まれるように倒れ込んだ。
「……っ」
この海は、海水浴場のように整備されているわけでもない。
だから、浅瀬と言えど伸びきった海藻や漂着したガラクタが視界を滲ませて、俺は思わず空気を吸い込もうと口を開く。
次に、苦しみが襲ってくるのだと俺は思った。
だけど、どれだけ長い時間目を閉じていても、水を吸い込んだ時に感じる不快さが訪れてこない。
不思議に思い、片目を開く。
『俺、凪原に惚れたのかもしれない』
『私もだよ、氷室くん』
凪原は、俺のすぐ前で目を閉じていた。
額が擦れあうほどの距離で、互いの頬を撫でるように俺の頭を引き寄せて。
唇を、俺の開きかけた唇を、
花をめでるようにして安らかに、そっと合わせていた。
——凪原と、キスをしている。
その事実にうちひしがれて、俺はもう一度委ねるように目を閉じる。
『逆に聞くけど、きみはどこに行きたいのかな? 旧校舎の端にある空き教室にバレないように一晩泊まり込んで、どうしたかったの?』
父さんが死んだら、掻き消えてしまおうと思っていた。
本当の意味で一人になったら、自分も死んでしまおうと考えていた。
空気が移り変わるように、誰からも忘れられようとしていた。
だけど、だけどもう、俺は。
俺は凪原に。凪原彩夏に。
「好きだよ、氷室陸月くん。去年の夏頃から、ずっときみを求めてた」
二人で海面から顔を出す。
海藻に髪を絡めながら、凪原はいままでで最も大きな声でそう言った。
朝日が差し込み、海水が滴る彼女の瞳は、
なによりも美しく、眩しく、
◇
私が彼を選んだきっかけは、きっと境遇が似ていたから。
一学年一クラスの小さな高校。ほとんどの人が小学生、幼稚園からの付き合いの中で、私だけが親が実家に帰るという理由で引っ越してきた。
二学期の最初の登校日に自己紹介をした。
だから昨日、きみに三年間同じクラスだって言ったのは嘘だった。
氷室陸月の名前を知ったのは、彼が学校を休みがちなことを知った三週間目。
クラスの皆や先生に事情を訪ねたら、家庭の事情と教えられた。周りは彼のサボりにさして気にしていない様子で、それ以上追及してもあまりいい情報は降ってこなかった。
普通なら、多分その時点で終わってる。だけど、私は必死に調べ上げて、氷室くんのお母さんが既に死んでいることと、お父さんが癌になったってことを知った。
その時にして、私が君にどうしても惹かれていた理由がようやくわかった。
私ときみは、同じなんだ。
だからいつか、きみに関わろうと考えるようになった。
自暴自棄とは少し違う。
彼は学校をふらふらと行ったり来たりするけれど、テストの点がそこまで悪いわけじゃない。
六十点から七十点辺りが彼の平均点。
定期テスト最下位常連と言っても、この高校は人数が少ないし、奇跡的に頭が悪すぎる人というのがいないみたいだったから、彼はそこそこの頭脳を備えているわけだ。
そして冬になって、私はとある人生の転換期を迎えた。
親に隠れてネットに投稿していた小説が、ある出版社から書籍化の打診がきたのだ。
タイトルは『インパチェンスの差出人』。ペンネームは本名をもじったりしていた。
正直、嬉しかった。
私が日々の中で感じていたあれこれを書き連ねた小説が、誰かに褒められたのだ。
幼い頃にお母さんが死んで、お父さんが丁度一年前ぐらいにうつ病になって働けなくなって。
どんな些細なことでも苦しみを感じるようになった日常を、できるだけ楽しく、美しく描いた物語が認められたのは、確かな救いだった。
私はこの世のすべてを知り尽くしている。
たとえばオムライスを食べる時。
たとえば強風に吹かれている時。
きみは言った。まるで夢を見ているようだと。
私は、どんな時だって詩的に、まるで夢を見ているような表現をすることができる。すべての出来事に、意味を持たせることができる。
生まれてから白いままの肌にケチャップの赤が付着して、私はようやく身体中に血が巡ったような気がした。
なんだか面倒くさくなって切らなくなった髪の毛が風に踊らされて、私はついに苦しみを自由の中の一つとして受け入れられたような気がした。
でも、それでも。
私は、そんな日々が嫌いだった。
苦しみの伴う自由が早く終わってほしかった。
八月三十日。早朝。
その日も、お婆ちゃんは早くからお父さんの見舞いで家にいない。自由過ぎるほど自由だ。ご飯も面倒くさくなってきて、最近は昼食だけ食べている。
半年ほど経ってようやく発売された小説の売れ行きは、正直芳しくなかった。
それもそうだ。国語辞典から無理して言葉を引っ張って、とっつけはっつけばっかりした小説が、ただの孤独な高校生が書いた文章が、多くの人に刺さるはずない。
ただひたすらに、苦しくて空白な時間を誤魔化そうと、意味を持たせようと私はページを無意味な文字で埋め尽くした。これが私の生きた証だって、流し読みされて当然の文章を、なんの面白みのない日常風景に加えて、どこまでも書き連ねた。
だから、理解できるわけがない。
出版社の人は多分、頭が良すぎたから色々と自分で文章の意味を付け足してしまったのだ。
普通の人は、最初の一ページを読んだ時点で脱落する。
それなのに。
きみは笑っていた。
『インパチェンスの差出人』を読んで、きっと苦痛ばっかりの一冊を読み続けて。
きみは最後まで、笑いを消さずに文章を見ていた。タイトルを知らないまま、内容に目を背けながら、多くの時間をその一冊に費やしていた。
意味なんて、最初から求めなければいい。
きみの笑顔を見て、私はその時そう思った。
きみの生き方がなぜだか眩しくて、私はふと迷い込んだ空き教室に居座った。
私の人生の苦しみを読んで、きみは心安らぐように笑ってる。
だからかな。だから私は、自分の書いた文章をもう一度読んで、理解してあげようと思ったんだ。
『……確かに、ほとんどが意味のわからない長文だったよ。でも、なんか、本って面白いんだって思えた』
終章は、他の章と変わって、まとめるために難しい言葉を入れなかった。
いいや、私の実力不足で、入れることができなかった。
『インパチェンスの花言葉には、『私に触れないで』の他にもあったみたいんなんだ。それが『鮮やかな人』で、この二つってちょっと矛盾してるよねって、登場人物の女の子が言ってた』
それは、インパチェンスの花言葉を調べたときに思った、私の素直な感想。
どうしても、この本に合っていると思った。
頑張って、頑張って言葉で埋め尽くした鮮やかな一冊だけど、それは読者の理解を拒むほどにわかりづらく、稚拙だ。
その意味を読み解こうとしたら、複雑に絡み合った言葉が
残るものは、きっとなにもない。
『意味はあったよ。この昼食の時間は、きみとの会話は、充分に意味を持ってた』
私ときみは、同じだった。
いつか一人になった時に、死のうと考えていた。
だから惹かれた。最初は、一緒に溶けあおうと思った。
でも、きみと会話を重ねるにつれて、私たちの根本的な違いに気づいたんだ。
私は死ぬ前に、小説を書いて誰かに私の苦しみを覚えてもらおうとしたけど、
きみは死ぬ前に、いることもいないことも当たり前にして、なにもかもを忘れてもらおうとした。
私は内容を理解せずに『インパチェンスの差出人』を読み終えたというきみが、『私に触れないで』という花言葉だけを目に焼き付けていたきみが、
——どうしても、私以上に
『……たぶん、いい夢だった。俺は、日常に対してこれがどう楽しいとか、面白いとか、苦しいとか、あまり思わないから』
ううん。違うよ、違うよ氷室くん。
きみはまだ、知らないだけなんだ。この本は、そんなに素晴らしいものじゃないんだ。これは私の苦しみが詰められた本。理不尽を受け入れるために生み出された、
だから、もっともっと、意味があって楽しい小説が、この世には沢山存在しているんだよ。
『そっか。たとえ苦しみがあっても、氷室くんはそれをいい夢だって思えるんだね』
氷室くんは、まだ生きれる。
知らない世界が多すぎる。
きっとまだ、きみなら耐えられるよ。
『凪原は『インパチェンスの差出人』に通暁している』
当然でしょ。この本は、私が書いたんだから。
前までは自分ですら読み解くのに苦労した文章だけど、君の前だと、不思議にも感情が溢れてきて意味を説明できたんだ。
そして、気づいたんだ。
私は、
私は、
『氷室くんは、いい旅をしているよ』
だから私も、連れてって。
どこまでも——
◇
「——ねえ、氷室くん! 氷室くんは、私のこと、好き⁉」
凪原が、ばちゃばちゃと惨めな音を立てながら訊いてくる。
なんだか、いままでの彼女と似つかない姿だ。けれど、不思議にもそれが美しく見えて、朝日に照らされているんじゃなくて、彼女が朝日を照らしているんじゃないかって思えてくる。
「ああ、好きだ! 俺は、凪原のことが、好きだっ……!」
浅瀬なのに、足が着くのに。
俺たちは藻掻いて、何度も口内に海水をしまい込んだ。何度だって愛を叫び合った。
ふと、水平線の彼方へと流れる二冊の小説を目にして手を伸ばす。
けれど、その手は凪原に抱きしめられるようにして歩みを止めた。
「私はね、変わったんだよ。苦しみを受け入れるために生み出した『インパチェンスの差出人』は、海に——この夏に溶けたの。氷室くんに文章の意味を説明して、脆く砕け散ったんだよ!」
凪原の言うその言葉の意味は、何度考えたって理解できなかった。
だけど俺は、その言葉にどうしようもなく満たされる。
いま、目の前にいる彼女こそが、凪原彩夏だと、そう感じた。
『そうかな、関係あるよ。だって私は、きみの答えによってこれから行く場所を決めようと思ってるから』
当たり障りのないことを、何度も繰り返していた彼女。
春が、夏が、秋が、冬が、全部の季節が好きだと言っていた彼女。
俺の死のうと思っていたこれからに、君は希望を与えてくれた。
『インパチェンスの差出人』の意味を、読書の楽しさを教えてくれた。
『この物語はね、苦しみを受け入れるために存在しているんだよ』
——ああ、これは気のせいかもしれないけれど。
君も、凪原もずっと、掻き消えようと思っていたのか。
この世界から、苦しみ悶える君の姿を、忘れてもらおうとしていたのか。
だったら。
俺と、君が、二人とも愛し合っているのなら。
「氷室くん。私はね、生きたい。苦しいものに抗って、きみと生きたい。
どこまでも、いきたい」
「……俺もだよ、凪原」
いつからか、凪原は俺をきみと呼ばなくなった。
『俺はもう、いてもいなくても変わらない存在だからな。無断欠席なんて、気にも留められていないよ』
きっかけは多分、この言葉。
それに対して、羨ましいと凪原は言った。
「誰からも求められず、誰にも求めない。そうして掻き消えるのが、俺の人生なんだって思ってた。なにも得意じゃない俺が、誰にも迷惑をかけずにいれる正しさだって信じてた」
だけど、それは間違いだった。
俺はただ諦めて、
人生における苦しみを、受け入れていただけだったんだ。
「凪原は、わかってたんだな。俺がまだ、なにも知らなかったってことに」
「……そうだよ。きみはばかだから、終わり方しか考えていなかった。きっと、小説なんて普段は読んでいないんでしょう?」
凪原は海の底に足をつけて、俺の肩へと両手を置いた。
彼女の黒髪が、朝焼けに染まった海を暗く照らすように存在している。
それは、いつになっても流れるのをやめず。
彼女は
「
凪原のその声は、言葉は。
楽しくて、面白くて、苦しかった。
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