第4話 きみは旅をしていた
「思っていたよりも、酷い状況なんだね」
凪原は病室のベッドに横たわる父さんへと目を向けながら、微かに開かれた窓際に身を寄せて座っている。
こまめに寝息を立てる父さんは、どことなしか苦しそうな表情をしている。
俺は道中で適当に買ってきた花束を棚の上に置いて、横にある丸椅子に腰を下ろした。
「多分、今週中には峠を迎えるんじゃないか。まあ、頑張った方だよ」
「その言い方、なんだか悲しくないみたいだね」
凪原は手に持ったままの分厚い本の表紙を指先でなぞり、続ける。
「インパチェンス、売ってたらよかったね。ばかなきみが、小説を読んで得た知識を披露できるチャンスだったのに」
「……いま、チャンスの部分でちょっと笑っただろ。というか、俺はもう十八歳だ。そんな子供じみたこと、するわけない」
「それはどうだろう? きみには案外、子供みたいなところがあると思うけど?」
凪原は軽く跳ねて床に降り立ち、ひらりと身体を回転させる。彼女の長い黒髪が、この病室の主役となって舞っていた。
「もっと、現実を見ていようよ。きみが行こうとしている場所は、まだきみが行くべき場所じゃない」
「……どういう意味だ」
「そのまんまの意味だよ」
相変わらず、意味のわからないことを凪原は言う。
俺が行こうとしている場所は、間違っているのか。彼女はこの現状を知ってもなお、俺を止めるのか。
暫くの間、逆光となって暗く染まった凪原の背中を見つめていると、制服姿の彼女の腰あたりから携帯の振動音が聞こえてきた。
「……出ないのか」
「きっと、高校からの連絡だからね。私今日、無断欠席しちゃったから」
凪原は携帯の電源を切って、俺へと向き直る。
「きみは? きみには確認の連絡、きていないの?」
「俺はもう、いてもいなくても変わらない存在だからな。無断欠席なんて、気にも留められていないよ」
「そっか」
羨ましいな。
凪原は微笑んで、一歩右足を前進させる。
目元が糸のように細まって、黒髪がふわりとシャンプーの香りを漂わせていた。
「つぎに行く場所が決まったね。私についてきて、氷室くん」
◇
「……俺たち、無断欠席したんじゃなかったのか。制服を着せたのはこのためだったんだな」
「念のためだよ。でもまさか、本当に来るとは思わなかったけど」
凪原は言って、開けっ放しの校門をすらすらと通り抜けていく。
彼女はこのまま、授業中の教室へと向かうのだろうか。荷物は財布とスマホ、そして一冊の本しか持っていないのだから、あまり意図が読めない。
「私もね、借りようと思うんだ。『インパチェンスの差出人』」
「はあ。いや、今手に持ってるだろ、実物を」
凪原は答えず、まるで忍び込むように腰を下ろして玄関を通り過ぎる。いまさら隠密行動したところで、窓を見られていたら気づかれていると思うのだが。
「氷室くんと読みたいんだよ」
凪原は図書室へと向かう途中、そんなことを口走った。
いつの間にか名字で呼ばれていることに気づき、不思議な感慨に浸っている。
だが、それとは関係なしに俺は、もう一度読むのかと正直嫌な気持ちになった。
内容を理解しようとしなくとも、沢山の文字を読むのは疲労が溜まる。読み終えた時の達成感はあれど、この暇つぶし方はもうやめようと思っていたのだが。
まあ、凪原と二人で読むのなら、悪くないかもしれない。
俺の部屋で読んだ終章は、確かに面白かった。
「知ってた? 『インパチェンスの差出人』って、この町に住んでる新人作家が書いてるんだよ」
誰もいない図書室。凪原は五冊ほど横並びに置かれたうちの真ん中を手に取って、俺へと向き直る。これは、俺の答えを待っている表情だ。
「謎に目立つように置かれてたのはだからだったんだな」
「中身なんて関係なしに、嬉しいものなんだよね。なにもない田舎の町から、小説家が生まれたってのは」
行こう、と凪原は付け足して、俺の手を取り廊下を進んでいく。
彼女の手のひらはまるで雪のよう冷たかった。このまま握り続けたら溶けてしまいそうなほど、細くて弱々しい手のひらだ。
まるで、インパチェンスの花のようだと、俺は思った。
「それじゃあ、今度は内容を理解しながら読み進めよっか」
目的地は、俺が昨日泊まった旧校舎の端にある空き教室だった。
カーテンはバレないように僅かに開き、窓は開けられる限界の三センチまで開けている。それぐらいならば、よく目を凝らさない限り気づかれない。
凪原は教室真ん中の席に座り込んで、早速ぱらぱらと序盤数ページをめくっている。
俺も彼女に倣い、左隣の席で目次のページをざっと一読する。
序章と終章を除いて、『インパチェンスの差出人』の章の数は五つ。
章題には鮮やかな人、私に触れないでの二つがあることから、花言葉をそれぞれ名付けているのだろう。
俺はまず序章を開いて読み始める。余白が、信じられないほどに少ない。
物語のはじめからこれだけ文字が詰め込まれていると、正直先が思いやられる。今日はこのまま、日中から夜通し読み続けることになるのだろうか。
現在時刻は丁度十二時を回ったところなので、お腹が空いてきた。
「わからない漢字や表現があったら、迷わず訊いてね。私が細かく解説してあげるから」
「わかったよ。だったらさっそく訊きたいんだけど——」
それから、俺たちは何時間も『インパチェンスの差出人』を読み進めた。
毎ページ俺の知らない言葉が出てくるので、凪原からは何度も何度も新しい知識を教えられた。
作者にしか理解できないような比喩表現までもを、ゆっくりとわかりやすく解説してくれる彼女は、本当に頭がいいらしい。
時間は信じられないほどにかかったが、俺はようやく、物語の一章を読み終えることができた。
「どうだったかな。なにか大きな事件が起きる話じゃなかったけど、楽しめた?」
訊かれて俺は、素直にすらすらと感想を並べる。
時計の針は、五時六分を指していた。
「楽しめたよ。この世のすべてを知り尽くしてるらしい女の子が、日常で感じたことを難しい言葉で言語化していて、なんだか新鮮だった。同じ世界で同じ日本の話なのに、まるで夢を見ているみたいだった」
「そっか。じゃあその夢は、いい夢だったかな、悪い夢だったかな?」
質問の意図がよくわからなかったが、さっきまで似たような小説を読んでいたせいだろうか。俺はまた、正直に思ったことを口走る。
「……たぶん、いい夢だった。俺は、日常に対してこれがどう楽しいとか、面白いとか、苦しいとか、あまり思わないから」
「そっか。たとえ苦しみがあっても、氷室くんはそれをいい夢だって思えるんだね」
凪原は言うと、会話はお終いだと示すように目元を自分の持つ本へと動かした。彼女は既に、半分以上のページを読み終えている。俺に教えながらでこのスピードだ、実際に隣にいなければとても信じられなかっただろう。
その後も、俺たちは同じように本を読み進める。
腹の減りも、頭の使い過ぎによる眠たさも、不思議といまは関係なかった。
俺はまた同じように、凪原へと知らない言葉の意味を訊ねる。
「……なるほど、
「なんだかかっこいい響きだな」
「わかるよ、私も好きなんだ、この言葉。最後の方にもまた出てくる」
「で、意味は?」
「今回の場合は、非常に詳しく知っているかな。たとえると——」
「凪原は『インパチェンスの差出人』に通暁している」
「……そうだね。その使い方であってると思う」
「理解したよ。ありがとう」
俺が言い終えると、凪原はそっと微笑んで目線をもとの場所に戻す。
そして、いつもよりもいくらか高いトーンで呟いた。
「氷室くんは、いい旅をしているよ」
その言葉の意味を知ろうと思ったが、なんだか無意味なような気がして、俺は問いをひっこめた。
確かに、いい旅だ。
小説を読むことがこんなに楽しいだなんて、いままで知りもしなかった。
あとに俺たちは、翌日の八月三十一日金曜日の早朝四時頃まで『インパチェンスの差出人』を読み続けた。
同時刻、俺が凪原より三時間ほど遅れて終章を読み終えた後に、彼女は言う。
「この物語はね、苦しみを受け入れるために存在しているんだよ」
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