第3話 きみは昼食をとっていた

暮らしの男子高校生のことだから期待してなかったけど、せめてもう少し食材があってもよかったと思うんだよね」


 凪原は唇を尖らせながら、そんなことを言って所狭い台所に立っている。少し前から聞こえてくるのは、フライパンの上で踊るの音と、卵を返すタイミングを見極めるようにコンコンと響く鉄器の擦りあう音だった。


「べつに、オムライスを二人分作るには足りたんだから構わないだろ。具材はちょっと寂しいけどさ」

「私はね、きみに女子力を見せびらかすチャンスを失ったから怒っているんだよ。ふわとろオムライスを作り上げたところで、きみはピクリとも驚かないだろうから」

「……流石に俺だって、ふわとろの難しさは知ってるが」


 俺の言葉に凪原は答えず、背を向けたまま仕上げの作業へと入っていく。濡れたままの髪の毛は、ポニーテールにして縛っている。

 現在の時刻は午前八時六分。夏休みも開けて平日なのだから、もう学校に遅刻してしまう時間帯だ。俺が交代でシャワーに入っている間に、こんな時間になってしまった。

 一体どうして、凪原は俺の部屋で二人分の朝飯オムライスを作っているのか。


 元々俺は、今日学校を休むつもりだったので構わないが、彼女はどうなのだろう。言動から見ても、きっと凪原は頭がいい。五百ページを超える本の正確なページ数と内訳も覚えているから、記憶力も相当なはずだ。

 だからなぜ、凪原が学校をサボってでも俺へと構って過ごしているのか——


 いや、知らなくていい。気にする必要などない。

 俺は、誰からも求められず、誰にも求めない。

 その決め事は既に凪原の前で崩壊してしまっているけど、それは彼女が一方的に嫌にでも関わってくるからに過ぎない。


 最後まで完璧に全うできなそうなのは残念だが、だからと言って振り切ってしまう必要もないのだ。

 せめて俺からは、できるだけ彼女に対してなにも求めずにいよう。

 そうすればきっと、いつか飽きる時がくるはずだ。


「おまちどうさま。要望通りのふわとろオムライスだよ。今度、千円払ってね」

「俺の家の食材を使ったのに、金をとるのはおかしくないか? 普通に割高だし」

「それだけ、私の手作り料理には価値があるんだよ。たとえ、具材が賞味期限ちょっと過ぎたウインナーだけでもね」


 凪原は食べて、と俺が机の上に用意しておいたスプーンを持って、俺へと渡してくる。押入れの奥に埋まっていた母さんのエプロンがやけに似合っているせいで、なんだか居心地が悪い。


「……いただきます」

「はい。いただきます」


 手を合わせ、最初にケチャップが大量にかかった真ん中の部分をスプーンで掬い上げる。口に運んでまず思ったのが、ふわふわでとろけて美味しいということだった。


「どう? 美味しすぎて、言葉が出てこないかな?」

「……癪だけど、ああ。なんかまるで、店の料理みたいに美味い」

「あれ、珍しいね。素直に答えてくれるだなんて。ひょっとして、私に惚れてくれちゃったかな?」

「べつに、いままでも割と答えてただろ。でもまあ、今度は答えないでおくよ」

「えー、私、本気にしちゃうよ?」

「真顔で言われてもね」


 凪原は行儀悪く頬杖をついたまま、スプーンを口に入れて咀嚼する。

 それを見ながら俺は、元々今日に予定されていた父さんの見舞いをどうするかと、壁に掛けられたカレンダーを見ながら考える。


 多分、父さんはもう長くない。本当に、短すぎるほど短いだろう。

 父さんとは、特段仲がいいわけでも悪いわけでもなかった。幼い頃に母さんが死んで、ここまで育ててくれたことには感謝しているし、死ぬ前になにか恩返ししたいと思ってもいる。


 だからきっと、見舞いには行くべきなのだろう。人間というのは、突然会えなくなってしまうものだ。

 そう願わなくとも、空気のように移り変わってしまうものだ。


「ねえ、これからどうしようか?」


 ふと、凪原にそう呼びかけられる。


「どうって。俺の行きたいところに行くんじゃなかったのか?」

「それはだいぶ、都合のいい解釈をしたんだね。私は、きみの答えによって行く場所が変わってくるって意味で言ったんだよ」

「それ、俺のと変わらないだろ」

「変わるよー。きみのだと、きみ自身が行き先を決めるけど。私の場合は、きみに質問した答えから私が適切な場所を選び取って決めるんだから」

「じゃあ、またなんか聞けばいいだろ」

「確かに、そうだね。じゃあきみは、これからどこに行きたい?」

「……父さんの、見舞い」

「了解ー。それじゃあ食べ終わったら、きみのお父さんのお見舞いに行こう」

「…………絶対、今の問答必要なかっただろ」


 俺の言葉に、凪原は仄かに微笑んでいた。そして、暫く二人で咀嚼しあった後に席を立つ。早速食器を片付けて、出かけるつもりらしい。


「意味はあったよ。この昼食の時間は、きみとの会話は、充分に意味を持ってた」

「相変わらず、意味のわからないことを言うな、凪原は。まるで『インパチェンスの差出人』みたいだ。それと、今食べたのは朝飯だろ」


 凪原は俺に背を向けたまま、囁くような声で答える。


「確かに、そうだったね。でも、意味があったのは確実だよ」


 それはどういうことか。

 聞く前に、凪原は俺の分の食器まで抱えて台所へと向かってしまった。

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