第2話 きみは風に吹かれていた

「まずは、先生が登校してくる前に学校を出るべきだと思うの」


 築百年を超える田舎の公立高校。ここ数年で一学年一クラスが普通となったそこには、不法侵入者や不審な時間に出入りする人を感知するセンサーなどあるはずもない。

 だから俺と凪原は急いで学校を後にして、現在はまだ人通りの少ない海沿いの通りを縦に並んで歩いている。


 別に、ついてこいと直接言われたわけじゃなかった。

 けれど、不思議と彼女の細い後ろ姿には人を惹きつけるなにかがある。


 あの日から、誰からも求められず、誰にも求めないと決めたはずなのに。

 俺はいま、凪原彩夏の背中を追って晩夏の朝風に吹かれている。


「……なあ、いったいどこに向かってるんだ? 凪原さんは俺を見つけて、なにをしたかったんだよ」


 多分、もう十五分ぐらいは歩いただろう。

 重い本を持ったままどこ吹く風で歩く彼女に嫌気がさして、俺はついに訪ねてしまう。これで完全に、俺の決め事は曲げられてしまった。


「逆に聞くけど、きみはどこに行きたいのかな? 旧校舎の端にある空き教室にバレないように一晩泊まり込んで、どうしたかったの?」


 凪原はくるりと身をひるがえして、一メートルほどに開いた間隔を維持したままそう訊いてくる。

 三年間同じクラスだったとはいえ、あまり話したことのない彼女へと答えたくない質問だ。


「なんだよ。べつに、それはいま関係ないだろ」

「そうかな、関係あるよ。だって私は、きみの答えによってこれから行く場所を決めようと思ってるから」


 完全に逆光となって暗がる凪原は、持ったままだった『インパチェンスの差出人』を自分の胸に傾けて、ぱらぱらとページをめくっていく。

 すると突然、海原のある方角から一際強い風が吹き荒れてきて、一枚一枚の薄紙が音を立てながら空を次々に流れる。


「きみは、本文五百三十一ページに及ぶ長編文学小説を一日でほとんど読み終えた。しかも、その本のタイトルを知らずにね。小説の中で、なにか印象に残っている一文はある?」


 五百を超える紙束の流れが止まる前に、凪原は滔々と言い終える。甘い声に乗って届くその言葉の数々は、流そうとしても頭にこびりついてもう離れない。


「……『私に触れないで』、インパチェンスの花言葉の一つだって、それを読んで知った。あとは、内容についてはあまり気にしていなかったから覚えてない」

「なるほど。定期テストで最下位常連のきみにしては、中々上手い返しだね」

「どうしてそれを把握しているのかは訊かないけど。そう思ったなら、いい加減当たり障りのないことを言うの、辞めてもらえないか。あと、きみって呼ぶのも。同じ年齢で同じクラスなのに、なんだか気持ち悪い」

「だったら、に答えてよ。きみは、いったいどこに行きたいの? 意味もなく、あの教室で過ごしていたわけじゃないんだよね?」


 面倒くさい。

 質問に答えても、答えなくても、次に出てくるのはまた質問だ。

 凪原は、俺からその答えを聞いてなにがしたいのだろう。目立たぬように過ごしてきた俺に、どんな興味を持って関わっている。

 

 どうして早朝の五時三分の教室に、凪原も独り立っていたんだ。

 どれだけ考えてもわからない。面倒くささと彼女の甘い声が相まって、もう話してしまってもいいような気がしてきた。


「……意味なんて、特になかった。俺はただ、あの教室で暇をつぶしていただけに過ぎない。もう、わかっただろ。俺に付き合ったってなんの面白みもないんだ。その本を返してくれないか。あと少しで読み終わるところだったんだ」

「おかしい。内容を気にしないで読んでた本なんだから、べつに最後まで読まなくたって変わりはないんじゃないの?」

「そうだとしても、だ。俺は、その本を読み終えたい」

「じゃあ、本のタイトルを全文違えずに言ってみて」


 その程度なら、もう余裕だ。


「インパチェンスの……あれ」

「決まりだね。今回ばかりは仕方ないから、私がに行き先を決めてあげる」


 凪原は最後までめくれ切った本をパタンと閉じて、裏表紙からくるんと回して言葉を続ける。

 ……差出人。少し前までは覚えていたはずなのに、自分の記憶力のなさに嫌気がさしてくる。


「きみは昨日から一日中、学校にいたわけだから、まだシャワーに入っていないんだよね。だからまずは、きみの住む家に向かおうか」


 ◇


「ドライヤーを持っていないなんて、いったいどういう生活をしているのかな。私、ちょっと信じられないんだけど」


 凪原はシャワーからあがって早々に、俺の家電製品事情へと文句をつけてきた。確認も取らずに先にシャワールームへと入ったのは彼女だというのに、いささか理不尽だ。


「あ、いま理不尽だって思ったよね。それってちょっとおかしいよ。普通、ドライヤーの一つは持ってるものなんだから」

「そんなことを言われても。俺は髪が短いから使う必要がないんだよ」

「髪が短かろうが長かろうが、ドライヤーは髪のケアの為に使うものなんだけど」


 知らなかったと言ったら、彼女はまた呆れたような声を出すのだろうか。この話が続くのは面倒くさいし、それに凪原が先にシャワーに入ったこの状況からおかしいのだ。

 俺は会話を続けることなく、ラスト一ページに差し掛かっていた『インパチェンスの差出人』へと視線を下ろす。


「少しは話が理解できた? たった二十一ページの終章だけ頭に入れたって、あまり意味はないと思うけど」

 

 寄り添うように腰を下ろしてきた凪原の湿った髪から、仄かに嗅ぎなれたシャンプーの匂いが漂ってくる。

 少し身を離した俺とは裏腹に、彼女はあまり気にしていない様子だ。

 せめて、もう少し服を着てほしいと思う。今は本を読んでいるからいいが、端に辿り着いたらどうすればいいのだ。


「……確かに、ほとんどが意味のわからない長文だったよ。でも、なんか、本って面白いんだって思えた」

「それは、どうして?」

「インパチェンスの花言葉には、『私に触れないで』の他にもあったみたいんなんだ。それが『鮮やかな人』で、この二つってちょっと矛盾してるよねって、登場人物の女の子が言ってた」

「……きみはそれを読んで、どう感じたの?」


「確かにって、納得した」

「…………それだけ?」


「それだけって。それ以外にどうすればいいんだよ」

「はあ。なんだか訊くんじゃなかった。もっとさ、自分の人生に置き換えて考えるとか、そういうのを期待していたのに」

「それは、終章以外の五百ページを流し読みした俺に期待しちゃだめだと思うけど」

「自分で言わないでくれる? やっぱりきみは、定期テストで最下位常連なだけあるね」


 凪原は溜め息を吐いて、その場から立ち上がった。

 隣に建つもう一つの集合住宅のせいで陽の届かない窓際へと歩みより、手前の木製の突き出し部分に頬杖を突く。

 彼女はちらりと横にある仏壇に目をやって、多分なんの気なしに呟いた。


「……きみ、両親はいないの?」

「仏壇に上がってる写真を見ながら言うことかな、それ」


 俺の答えに凪原は微笑んで、大きく開かれた窓の向こうを見やった。 

 やはり、隣にある集合住宅が邪魔になって景色が見えづらいのだろう。


 彼女の髪が、冷たい涼風に荒く吹かれている。

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