第1話 きみは笑っていた
朝、仄かにカーテンから差し込む光に瞼を刺激されて目を覚ます。
時計を見ると、針は五時三分を指していた。
結局俺は、昨日高校から帰らずに空き教室へと泊まり込んだ。
硬い木製の勉強机を枕。背丈の合わない硬い木製の椅子を布団としていたために、身体中が悲鳴を上げている。
俺は立ち上がって、一夜のうちに硬くなってしまった身体を解すように伸びをする。ぽきぽきと鳴り響く体内の音色は、不思議と心地がよい。
欠伸の後に、俺はまっすぐと窓際へと向かいカーテンを微かに横にスライドさせる。
快晴。遠い坂の下にある海模様は深い青のグラデーションに染められていて、波は少しだけ高い。カモメが空を飛び回って仲間へと呼び掛けている。早朝からたいそうなことで、海沿いの町ならばよくある光景だ。
今日の日付は八月三十日の木曜日。晩夏の北海道と言えど、流石に暑い日はある。
俺はそこだけが開けられるようになっている窓の取っ手を掴み、軽く押し上げる。安全のためか三センチほどしか開かない窓は、すぐにつっかえて鈍い音を鳴らした。
俺の住む町は、人口一万人僅かの北海道の田舎だ。
海沿いに細長く建設された町並みは、高くても二階建ての家しかなく、毎日のように潮風に吹かれてる。
だから、丘の上に一際高く建つ四階建ての高校校舎には、ようやく現れた壁を乗り越えてやろうとする風が吹き荒んでくる。
それはたとえ三センチの隙間だろうと、見逃さずに。
「…………っ」
昨日はシャワーに入らず寝てしまったので、塩気が混ざっていようとも涼しくてよい風だ。身体にこびりついた汗や汚れを取り払われたかのような心地よさに全身が包まれる。
背後でぱらぱら、ぱらぱらとめくれているのは五百ページあまりに及ぶ文学小説だった。昨日、図書室で借りてきてから一日中読み込み、昨夜の深夜三時ほどに終章へと辿り着いたものの、眠気に負けてしまったことを記憶している。
確か栞は適当に、筆箱にしまってあった鉛筆で代用したはずだ。借り本だからなるべく汚さないよう芯の部分を突き出させて本を閉じ、そのまま隣の机へと慎重に動かした。
コロンッと鉛筆の転がる音がして、俺は駆け足で窓際を後にする。
目次があって助かった。皆が登校してくる前に読み終えて、今日はもう帰ろうと思い定める。
——その時だった。
「インパチェンスの差出人。なかなかいいセンスしてるね、きみ」
目の前には、人が——制服を着た女性が立っていた。
胸元にまで伸ばされた黒髪は精緻に整えられている。制服にもしわがなく、細長い指先がぱらぱらとめくれる本のページを抑え込んでいる。女性はどこか浮世離れした白い肌を緩ませて、俺へと微笑みかけていた。
寝ぼけていたせいだろうか。全く気付かなかった。一体いつからいたのだろう。
「……インパチャンスの差出人って、なんのこと?」
俺ができるだけ動揺を隠すためにそう問うと、女性は更に頬を解して瞼さえ糸状に細める。だが逆に、唇は豪快に大きく開いていた。
「きみ、おかしいね。インパチャンスじゃなくてチェンスだし。読んでた本のタイトルがまるまるわからないって、ばかみたい」
女性は言って、分厚い本を軽々と持ち上げて表紙を俺へと見せてくる。
表紙上部にでかでかと『インパチェンスの差出人』の文字。その下には、色鮮やかな花の数々が満開に咲いている。そういえば、小説中に度々そのような名前の花が出てきたような覚えがある。
確か、花言葉の一つとして「私に触れないで」があったはずだ。内容を理解しようとしなくとも、流石に何度も繰り返されれば覚えてしまった。自分の置かれた状況と妙にマッチしていたのも、一つの理由だろう。
著者名については、下部に四つの漢字が小さく並んでいた。
夏凪灰地と。
「……べつに、そこまで笑うことじゃないだろ。初対面な人に対して、失礼だと思う」
その本だって、暇つぶしの為に読んでいただけだ。なにかを得ようとしていたわけじゃない。タイトルも内容も、なんだってよかったのだ。
女性は俺の答えに対しても、また大きく体を震わせて笑い声をあげる。今度はどこがおかしかったのか、まったく意味がわからない。
「きみ、流石に変過ぎるよ。初対面だなんて、私たち、三年間クラス一緒だったんだけど?」
「……それは、嘘だろ」
「一学年一クラスの高校でどうしてそんな嘘を吐くの?」
「…………」
見落としていたが、うちの高校は学年によってネクタイの色が変わってくる。彼女は俺と同じ青色を身につけているために、学年が違うのはありえない。
「ひどいね、
そう表情をもとの微笑みへと戻して制服姿の女性は言う。
氷室くん。まるで雪に巻かれた苺のような甘い声で発せられたその響きには、どこか聞き覚えがある。
確か、彼女の名前は——
「凪原。
凪原は指を本に挟んだまま、暫く俺を見つめていた。
なにか意図があるように、キラキラと奥深い二重の瞳を細めて。
その純粋さはまるで、まるで、
遠足を心待ちにする幼い小学生のようにも見えた。
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