君は通暁

冬麻イチト

プロローグ

 独り、放課後の空き教室で本を読んでいた。

 ただ暇をつぶすために図書室から借りてきた、五百ページほどの分厚い文学小説。なぜだか大っぴらに何冊も置かれていた一冊を、適当に選んで取ってきた。

 どちらかと言えば小説は嫌いな方で、夏休みに毎回課題として出される読書感想文に苦労していた俺が、はじめから文字沢山の堅苦しい小説の丁度百ページのところをひらりとめくっている。

 

 正直言って、内容はあまり理解できていない。意味のわからない詩的な表現ばかりで、楽しくもない。

 ページをめくるたびに広がる余白の少なさに、何度も嫌気がさした。

 だけど俺は、午前中に借りてきたばかりの小説を現在に至るまで読み続けている。その読書体験に意味を求めるわけでも、必然性を迫られたわけでもないのにだ。

 ただ、孤独を忘れられればそれでよかった。空白な時間の惨めさを、少しでも減らせるのなら満足だった。


 黒板を正面として広がる左側の窓ガラスから夕陽が差し込んで、ページの半分が明るい橙色に、もう半分が暗い灰色に染まっている。

 ただでさえ頭に入ってこない文章に読みづらさまで加わって、状況は最悪だ。

 だけど、帰る気にはなれなかった。町中から五時を知らせるメロディーが聞こえてきても、俺は明かりのついてない教室に居座り続けた。


 誰も、気づかない。

 二時間目の授業から下駄箱の外靴と共に消えた俺のことなど、もう誰も気にしない。最近きつくなってきた黒色の外靴はまだ、俺の足元に置かれているままなのに。


 そんな考えに至ってようやく、俺は長らく俯けたままだった顔を上げる。


「誰かに見つけてほしいってか」


 五時一分四秒を刺す時計を見つめながら独りつぶやく。

 当然ながら、後に続く言葉はない。


 学校から抜け出すわけでもないのに上履きを置いて、外靴を空き教室に持ってきたのは俺自身だ。それなのに、まるで誰かへ助けを求めているようなことを思うなど、馬鹿げている。


「決めただろ。俺はもう、独りだって」


 きっかけは父さんが病に倒れてから。ご飯を食べて、風呂に入って、課題に取り組んで。母さんは幼い頃に事故で死んでいるので、家はいつも以上に静かだった。

 寝る前に仏壇へと手を合わせる。その夜にふと、浮かんできたのだ。

 誰からも求められず、誰にも求めない。

 まるで空気みたいに。いてもいなくても変わらない存在になろうって。


 そうすれば、救われるような気がした。

 勉強も運動も、それほど俺の正しい生き方が、わかったような気がした。


「最初から期待なんてしなければ、みんな幸せだ」


 多分、父さんは死ぬ。

 医者からの説明は当時の忙しさのせいで忘れてしまったけど、話を聞いて絶望したことだけは覚えている。


 高校三年生——夏。

 もうじき俺は、頼れる親戚一人もいない孤独な男性となる。

 子供じゃない。十八歳といくらかの大人として、世の中に放り出される。


 だから、決めたのだ。

 まるで空気みたいに。日々、一秒ごとに移り変わっても見向きもされない世界の理のように。



 掻き消えてしまおうと——。

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