トウキョウ・デイズ (3)
珈琲
空にコーヒーを届けたアイリーンが、カウンターに戻ってきた。美咲の前のティーカップとケーキ皿を下げて、これも美咲の前に置かれている、空になったフラスコを下げようとしている。
コーヒーを飲まない美咲の前に置かれていたそのフラスコには、少し前——空とリディが到着する少し前には、わずかに赤みがかった薄い茶色の透明な液体が入っていた。——美咲が好んで飲む紅茶だ。
〈フェル〉では紅茶もサイフォンで淹れている。これもアイリーンがどこで覚えてきたのか、珍しい淹れ方だ。
空の前に置かれた透明なグラスには、黒に近い茶色の液体と氷が入っている。空はそれに少しだけミルクを入れ、スプーンで二回りかき混ぜてから、グラスを口元に運んだ。
アイスコーヒー——中でも空が好んで飲むのは水出しの〝ダッチコーヒー〟だ。
ファンシーな〈フェル〉のメニューにおいて、ただ〈ダッチコーヒー〉と書かれている、ファンシーさを持たない数少ないドリンクの一つ。ホットの〈フェアリーン・ブレンド〉と並ぶ、人気メニューだ。
最近は水出しのアイスコーヒーを飲める店も少なくない。チェーンのコーヒー店でも取り扱っているし、リディも飲んだことがある。
だが、そうした水出しアイスコーヒーと、この〈フェル〉のダッチコーヒーは、全くの別物だ。
美味しさの次元が違う。
〈フェル〉のダッチコーヒーは、飲み口のインパクトが強烈で、苦味、コク、旨味、わずかな甘味、酸味に至るまで、全てが重くどしんとくる。端的に言うとものすごく〝濃い〟のだ。それがたまらなく美味しい。
本来はミルクではなくシロップだけを添えて提供しているのだが、空はシロップを入れずミルクを好んでいる。
このダッチコーヒーが初の水出しコーヒー体験だったリディにとっては、これがベースになっているので、他店で水出しアイスコーヒーを飲むのはそれが最後になった。
おそらく空も同じだろう。空と水出しアイスコーヒーをシェアしたあの日以来、彼も他店で飲んでいない。
白く濁ったダッチコーヒーを、美味しそうに愉しんでいる空の目は、先ほどとは違う方を向いていた。
テーブル席からカウンターの中へ入る入り口の脇に、奇妙な形をしたアンティークのインテリアのようなものが、二つ並んでいる。
古い化学実験装置にも見えるそれは、高さが床から腰の高さほどまであり、正方形の底の四隅に木の柱が立っている。その内側には上から、大きい透明なガラスの球体、金色の金属——真鍮?——の筒、小さなガラスの球体、そこから金属の管が降りて、逆さ丁字の管で二つに分かれる。左右に分かれた管は水平に十五センチほど伸びて、また真下に降りている。二十センチほど降りると、左右それぞれにガラスの筒があって、管の先端はその中で三つ叉になっている。左右の筒の底には白いフィルターが敷かれていて、その下には透明なガラスの瓶が置かれている。
二つ置かれている同じもう一方の装置には、上の大きな球体に水が入っていて、下のガラスの筒には粉状の黒茶色が詰まっている。その下からはとてもゆっくり、黒茶色の液体がぽたぽたと落ちていて、それがガラス瓶に溜まっている。
空はダッチコーヒーを愉しみながら、その様子を興味深く眺めている。
〈ウォータードリッパー〉という。水出しコーヒーを淹れるための装置だ。
大きな球体から水が流れ、途中でその量と速度が調整されて、三つ叉の先端からガラスの筒に落ちる。粉状の黒茶色が挽いたコーヒー豆。その中に水が染み込みゆっくりとコーヒーが抽出されて、ガラス瓶に落ちてゆくのだ。
〈フェル〉のオープン当初はもっと小型のものを使っていたのだが、あまりの人気に抽出が追いつかず今のものに買い替え、さらにもう一台を追加し、同時に4リットルを抽出できるようになっている。
抽出にかかる時間はおよそ8時間。
アイリーンは一週間に一度ほどのペースで淹れているようだ。
そしてここにも〈フェル〉の謎がある。
このダッチコーヒーは不思議なことに、冷蔵庫で寝かせることで、さらに美味しくなるのだ。
コーヒーは淹れたてが最も美味しい——というのが一般的な常識だ。時間とともに美味しくなくなってゆく。
だが〈フェル〉のダッチコーヒーは、冷蔵庫で熟成させること二週間。ちょうどこのタイミングで美味しさが最高潮になる。
リディも試飲してみたが、本当に二週間が最も美味しく、それより早くても遅くてもダメだった。
〈フェル〉には、この、他ではまず飲むことの出来ない〝二週間熟成ダッチコーヒー〟を目当てにした客が少なくない。当初は裏メニューだったのだが、量産体制が整った今では、普通に提供している。
店の奥の〝専用〟冷蔵庫には、日付がラベルされたボトルがたくさん眠っていて、ダッチコーヒーを美味しく熟成させている。
洗い物をしているアイリーンに視線を戻して、リディは少し首をかしげた。もう長いこと謎になっている秘密に改めて考えを巡らせる。
(いったい、いつどこで覚えてきたのだろう——)
フェアリーン・ブレンド
サイフォンでの抽出の技——ハンド・ドリップも美味しい
サイフォンで淹れる紅茶
次元の違うダッチコーヒーと
不思議な二週間熟成
たぶん父は知っている。
母と二人だけの秘密を楽しみつつ、私をのけ者にしてからかっているのだ。
(仲がよろしいことで——)
もう思春期も過ぎた娘としては、両親の仲が良いのは微笑ましいことなので、嫌ではない。
だが〝謎〟が〝謎〟のままなのが、どうにもむずむずするのだ。
なのでいつか必ず〈ファンシー館・フェル 謎のコーヒーの秘密〉を解き明かそうと思っている。謎解きが好きな空もきっと乗ってくれるはず——
——いやダメだ。空にかかると瞬きで解いてしまいそう。これは私ひとりで解かなければ——
(知らぬはリディばかりなり——)
美咲は心の中でに〈にやり〉とした。
美咲は母・陽子から聞いて〈フェル〉のコーヒーの秘密を知っていた。
実のところ秘密でも謎でもなんでもない。空も知っているし、アイリーンと仲の良い常連さん達も知っているらしい。
ただこの話をする時、アイリーンは必ず、無邪気ないたずらっこのような笑顔で、こう付け加えるのだ。
「アスティにはナイショね」
アイリーンにはちゃんと師匠がいるのだそうだ。
コーヒーメニューを考えるに当たって、〈フェル〉に珈琲器具を納入した業者に相談したところ、とある珈琲店を紹介してくれたらしい。
東京副都心、池袋にほど近い閑静な住宅街にあるその店は、
〈サンドウェッジ 芝球愛好珈琲店〉
という。
ゴルフ好きの珈琲職人であるマスターと、パティシエールの奥さま二人で営む珈琲専門店だ。
あらかじめ問い合わせをしてマスターの快い了承を得たアイリーンは、客が少ない時間に〈サンドウェッジ〉を訪れた。
マスターと奥さまの笑顔の歓迎を受け、サイフォンが並ぶカウンターに座ってしばらく談笑をしていると、コーヒーカップと共にサイフォンのフラスコがアイリーンの前に出された。
アイリーンはフラスコから魅惑の液体をカップに注ぎ、神妙な心地でそれを一口飲むと——
アイリーン曰く、
「なんて言うのかな——ぱーっと立ちこめてた霧が晴れたら、目の前に可愛いお花の草原が広がってて——そう、アリッサムやペチュニアやカスミソウや——みたいな?」
——ファンシーである。
とにかくその瞬間、アイリーンはコーヒーの〝美味しさ〟に目覚めたのだった。
もちろん今でもしゃばしゃばコーヒーをがぶ飲みしてるが、アイリーンの中ではもうあれは〝種類の違う別の飲み物〟で、ちゃんと棲み分けされている。
それからアイリーンはできるだけ〈サンドウェッジ〉に通い、マスターからたくさんのことを学んだ。
ハンドドリップとサイフォンでの抽出技術
紅茶をサイフォンで淹れる技
ダッチコーヒーの秘密
これらはみな、〈サンドウェッジ〉のマスター——師匠から学んだものだ。
家ではアスティの目を盗んで、設備が整うとまだ内装工事の終わらない店で、師匠の教えを反芻し技術を磨いた。
夫のスヴェンは毎日、〈南極〉から画面越しにその姿を見ていた。それはスヴェンが最も敬愛する妻の姿で、
The Wholehearted Pursuer——全力全霊の追求者
の二つ名——リディは知らない——を持つリーンリンの真の姿だ。
だからスヴェンは何も驚かなかったし、当たり前に彼女が作り上げたこの〈フェアリーン・フェルリン〉を、誇りに思い愛しているのだ。
ちなみに、〈フェアリーン・ブレンド〉は、〈サンドウェッジ〉の〈特選ブレンド〉と同じものだ。さすがのアイリーンも、焙煎とブレンドの技までは習得できず、コーヒー豆は〈サンドウェッジ〉から仕入れている。
だが諦めてはいない。いずれ焙煎もブレンドも極めてみせる——とアイリーンは心の火を灯し続けている。
——美咲は思う。
いつか、私がコーヒーを嗜む大人になったら、アイリーンと一緒に〈サンドウェッジ〉を訪れよう。
すっかり種明かしをして、悔しがるアイリーンの悪態を聞きながら、〈元祖・フェアリーン・ブレンド〉愉しもう。
もちろん、窓の外を走る路面電車を見つめるお兄ちゃんも一緒に——
リディ・チビ中佐
〈フェル〉のカウンターは、入り口から奥へと作られていて、入り口側の端にはいくつかのフォト・フレームが並んでいる。デジタル・ディスプレイではなく、紙にプリントした写真が四つ、控えめにファンシーなフレームに収まっている。
教会の前に立つ若きアイリーンとスヴェン
——結婚式の写真だ。アイリーンは薄い上品なピンクのマーメイド・ドレスに、長いオフホワイトのカテドラル・ベール。スヴェンはグレーのモーニング・コートとストライプのパンツに、シャンパン・ゴールドのアスコット・タイ。幸せが弾けるようなアイリーンの笑顔が印象的だ。
小さなピンクの自転車に乗る幼いリディ
——スヴェンに教わって初めて自転車の練習をした時のものだ。リディはピンクを選んだサンタクロースを恨んでいて、愛車を勇ましい名前で呼ぶことで神に抗議をしていた。
ウェット・スーツを着てサーフボードを抱えてるスヴェンと少し大きくなったリディ
——後ろには鮮やかな青い空と、きらめくサウス・ミッション・ビーチの砂浜と海が広がっている。リディが敬愛する至福の海だ。
こぢんまりとした家の前に並ぶアイリーンとスヴェンとリディ
——日本へ発つ朝、ベイサイド・レーンの懐かしい我が家での最後の一枚だ。リディが生まれ育ったこの家は、今は賃貸住宅として貸し出されている。
リディが十歳まで暮らしていた〈サウス・ミッション・ビーチ〉は、サンディエゴのダウンタウンから北西に約8マイル、車で約二十分ほどのところにある。西側を太平洋、東側を広大な人口の内海〈ミッション・ベイ〉に挟まれた、南北に細長い半島の南端に位置している。
リンドグレン家のこぢんまりとした——東京の感覚ではわりと大きな——一軒家は、半島の東寄りを南北に走る〈ベイサイド・レーン〉近くにあって、西側の〈ミッション・ビーチ〉にも、東側の〈ミッション・ベイ〉にも、徒歩で数分の場所だ。
リディの父——スヴェン・リンドグレンはマリーン・レジャーに親しんで育ったので、愛娘・アストリッドにもサンディエゴの海の至福を教え、果たしてリディもサンディエゴの海を愛する少女に育っていった。
リディが特に夢中になったのがサーフィンだ。〈サウス・ミッション・ビーチ〉の波は穏やかで、幼いリディがサーフィンを覚えるのに最適だったが、身体能力の高さ故にリディはすぐに物足りなくなってしまった。
3年生になる頃には大きな波を求めて少し北の〈ミッション・ビーチ〉、さらにもっと大きな波が来る〈オーシャン・ビーチ〉——祖父母の家の近く——へと足を運んだ。
スヴェンは、チャレンジ精神旺盛なリディの手綱を握ってはいたのだが、生傷の絶えないリディを心配する、アイリーンの逆鱗に触れることも度々で、口論ではアイリーンに勝てないスヴェンは、リディを波が穏やかな〈サウス・ミッション・ビーチ〉にしか連れて行かなくなった。
納得できないリディは、サーフボードを背負い〈勇ましい名前二世号〉にまたがって、ひとりで〈オーシャン・ビーチ〉目指した。
〈サウス・ミッション・ビーチ〉から〈オーシャン・ビーチ〉は直線距離で1マイルも無いのだが、その間には〈ミッション・ベイ〉の入り口である湾口と、サンディエゴ河の河口があって、そこをまたぐ橋が無い。橋を渡るには大きく回り込んで約4マイル、子どもの自転車——しかもサーフボードを背負ってる——では一時間以上もかかるルートになるのだ。
大冒険——いや、大騒動である。
意気揚々と〈オーシャン・ビーチ〉にたどり着いたリディが、祖父母に無事保護されるまでの数時間、たくさんの大人を巻き込んでの大捜索が行われた。
さすがのリディも、号泣するアイリーンと顔を真っ赤にしたスヴェン——見たことのないマムとダッド——にこんこんと諭されたのでは、事の重大さに怯えるしかなく——
——リディは〈オーシャン・ビーチ〉を諦め、波は低いがずっと近い、少し北の〈ミッション・ビーチ〉をまたひとり目指した——
こうして、リディのためにアイリーンがデザインし、スヴェンがこつこつと製作した、〝真っ赤な飛行艇〟がステンドグラス風に描かれた小さなサーフボード——裏には〝飛行帽をかぶった豚〟が描かれている——は、屋根裏で厳重に封印されることなった。
全く悪びれないリディが次に夢中になったのが〈ビーチ・バレー〉だ。
カリフォルニアではビーチ・バレーが盛んだ。もちろんサンディエゴにも多数のチームやスクールがあり、様々な大会も行われている。
大騒動からしばらくして、リディはスヴェンに連れられて、あるU12(十二歳以下)カテゴリのジュニア・チームを訪れた。アイリーンとスヴェンの友人がコーチをしている、地元リーグで上位を占めている強豪チームだ。
「この子があなたのパートナーよ」
コーチがリディに紹介したのは、カッパー・レッド——オレンジ色に近い鮮やかな赤髪の少女。長い赤髪を頭の横で二つに結んでいて、大きな目には綺麗なエメラルドグリーンの瞳。羽織った大きめの白いパーカーからは、日焼けで赤みを帯びた細く長い足が伸びている。
リディよりずっと背の高い少女は、二歩前に出てすっと右手を差し出すと、
「アシュリン、アッシュって呼んでね」
といたずらっぽい笑顔でリディを見下ろした。
するとリディは、差し出されたアシュリンの手と、笑顔を浮かべた顔の間で、視線を二往復させてから、にやりと笑って、
「アストリッド、リディよ」
と差し出された手をぱんと払うと——アシュリンの手から砂が飛び散ちった。
アシュリンは手のひらをたっぷり砂まみれにしていたのだ。それを見抜かれたアッシュリンは、声を出して笑いながら、
「これから楽しくなりそう!」
とリディをハグしようとしたので、リディは全力で抵抗したのだった。
アシュリンはコーチ——アイリーンの親友の娘でリディの一つ年上。チームではコーチの贔屓目無しに、未来のエースとして一目置かれていた。
前のパートナーが十三歳になって上のカテゴリに移ったため、新しいパートナーを探していたらしい。
そこで、サーフィンで高い身体能力を示していた親友の娘——リディに目を付けたのだそうだ。
とはいえこの時、リディはまだビーチ・バレーは未経験。サーフィンより楽しいことなど無いとふて腐れていたのだが、リディに過剰な期待をするコーチの熱血指導が始まり、アッシュの懲りないいたずらを日々かわしつつ——時には反撃しつつ——、リディは徐々にビーチ・バレーにのめり込んでいった。
リディが今でも鮮明に覚えている瞬間がある。
ある日、チームの年長のペアと対戦していたときのこと。
年長ペアの重いアタックをレシーブしたアッシュが、すぐさま、少し下がってからネット際に向けて走り出した。
その時、リディの視線はふわっと上がったボールを見ていたが、視界には——
ネットの向こうの二人の動きと位置
ネット際に向けて走るアッシュと、その未来の位置
そして、自分からネット際の上——ジャンプしたアッシュの未来位置を経て、ネットの向こう側の砂浜までを描く、金色に光るライン——
——が見えていた。
リディはその光るラインをなぞるように、ぽんとトスを上げた。するとボールはジャンプしたアッシュの完璧な打点に吸い込まれてゆき、振り下ろしたアッシュの腕の先から、勢いよくネットの向こうの砂浜へと突き刺さった——リディに見えていた金色に光るラインの通りに。
その瞬間、すべてが完璧だった。アッシュの呼吸、対戦相手の思考、ボールへ加える力加減——何もかもが理解できた。自分はただその通りに身体を動かすだけだった。
リディはコーチに駆け寄り、興奮気味に今起きたことを話すと、コーチは少し驚いたように、
「ゾーンに入ったのね」
と、短く切りそろえたリディのブルネット髪を、くしゃくしゃと撫でたのだった。
それからのリディはますますビーチ・バレーに夢中になっていった。
長身と脚力を活かし、多彩な攻撃を繰り出すアッシュ。
直感と洞察力に優れ、瞬時の状況判断から攻撃をリードするリディ。
この二人のペアがリーグの勢力図を塗り替えはじめると、年長ペアたちからは、
Tiny Commander Riddy——リディ・チビ中佐
と恐れられ、リーグ関係者たちの間では〈オリンピック〉という単語がささやかれはじめていた。
(さすがにオリンピックはね)
振り返ってみて、あの時のあの瞬間はとても特別なものだったのだとリディは思う。あの後も何度か経験したが、ラインが金色に光っていたのはあの瞬間だけだった。
それでもあの〈光るライン〉はリディに大切なことを教えてくれたのだと思う。
自分を信じること。
何の根拠も理屈も無いが、余計なことは考えず、ただ自分の〈感覚〉を信じる——それが私、アストリッド・ブリギッタ・リンドグレンの本質なのだ。
ビーチ・バレーでの活躍がそれを裏付けていたし、アッシュからの敬意もそこに向いていたと思う。
でもそれが確信に変わったのは、激怒するアッシュ——ボーイフレンドができたら怒りを忘れたらしい——に後ろ髪を引かれながら、日本にやってきてからだ。
日本に来てみると、住まいの地域に海は無く、もちろんビーチ・バレーのチームも無い。足を伸ばして海辺を訪れても、海も砂浜もサンディエゴとは比べるべくもない。
それより何より——寒い!
なのでもう、リディはビーチ・バレーをあきらめていたのだが、そんな時、学校のバレーボール・クラブの上級生に声をかけられた。
「あなた、〈リディ・チビ中佐〉よね?」
どうやらコーチがSNSに載せたアッシュ&リディ・ペアが拡散されて、日本でも一部で話題になっていたのだそうだ。
リディはその上級生に連れられて、バレーボール・クラブの練習を見に行った。
コートに立つ6人を見て、
(窮屈そう)
などと思ったが、
「ちょっとやってみない?」
と言われてむくむくと好奇心が湧いてきた。
最初は、〈チビ〉なのでリベロと交代してコートに入った。
ビーチ・バレーのコートは砂。対して通常のバレーボールは平らな床。リディにとっては驚くほど動きやすかった。
ビーチ・バレーのコートには二人だけ。対してバレーボールでは6人。コートは少し広いようだが、リディにとっては守備範囲が狭すぎた。
そのため動きが良すぎるリディは、コート内で他のメンバーにぶつかってばかり。
危ないと思った上級生が、
「セッターやってみる?」
とリディを促した。
この時リディはまだ6人制バレーボールのことをあまり知らず、セッターがどういうポジションなのかもわかってなかった。
言われるがまま、コートの真ん中でトスを上げていると——見えた。
金色でも光ってもいなかったが、あのラインが視界に映った。
リディは〈感覚〉に任せ、ラインに沿ってネット際に向けて鋭く速いボールを上げた。
ネット際では上級生がすでに飛んでいて、もう一人が助走から飛ぼうとしているところだった。
それは彼女たちには普段の練習で組み上げたフォーメーションの一つで、先に飛んでいるのが囮、後から飛ぶのが本物の攻撃になる——はずだった。
リディの上げたトスは、ラインに沿って鋭く、先に飛んだ囮の上級生の前に飛んでゆき、空振りするはずだった腕の先にピタッと入り、空振りは見事にボールを捉え、ネットの向こうに突き刺さった。
Aクイック——バレーボールで最も速い速攻技だ。
リディの目には、囮の空振りの打点が見えていた。なのでラインに乗せてそこにボールを送り込んだ。
驚いたのは囮の上級生だ。いきなり目の前にボールが現れ、振り下ろした腕に勝手に当たったのだから。
着地した彼女は驚きで転びそうになっていた。
他のメンバーもざわついていて、リディは何かまずいことをしたのかと、様子を窺っていると、
「凄い!今の何?」
Aクイックは、アッシュ&リディ・ペアの奥の手だ。リディは鋭く速く、アッシュの打点にボールを送り込む練習を重ねてきた。
それにビーチ・バレーは二人だけなので、囮が飛ぶことは無い。なのでリディは先に飛んでいた上級生が打つものと判断したのだ。
リディが説明すると、上級生はリディの両肩をぎゅっと掴んで、
「お願い!うちのクラブに入って!」
——こうしてリディはイクスサーシャ学園バレーボール・クラブにセッターとして所属することになったのだった。
当時、リディは5年生。最終学年の12年生となった今では懐かしい想い出だ。
中学に上がり、空に出会ってからしばらく経ったある日。
リディは自分の雄姿を見せたくて、空をクラブの練習に誘った。空がスポーツに興味が無く、バレーボールのルールも知らないのは承知の上。ただ敬愛と畏怖の主である〈魔王〉に、忠実なる僕の最高の姿を見て欲しかったのだ。
練習が終わるまでの間、空は体育館の隅に座って無表情に何かを見つめていた。その視線の先に何があるのか、リディにはわからなかったが、自分の方を見ていないのは確かだ。
でもきっと、視界の端で自分を捉えてくれている。それも確かだった。
練習が終わり、空に駆け寄ったリディは、
「どう?私の雄姿に恐れ入ったでしょ?」
などと虚勢を張った。
すると、すっと立ち上がりながら空が言った。
「リディには、あの中で起こることの全てが解るんだね」
リディは、心の底から湧き上がる喜びを、表情に溢れさせながら思った。
(これぞ私の〈魔王〉)
この瞬間、リディの本質——自分の〈感覚〉を信じることが、〈魔王〉によって裏付けられ、確信に変わった。
もう何も迷わない。迷う必要はない。ただ自分の〈感覚〉に素直に従えばいい。私の〈魔王〉が言うのだから、間違いはないのだ。
そう確信を得たリディは、空の頭に手をかざし、こう言ってのけた。
「私を信じなさい。神はあなたを祝福するだろう」
威厳を振りかざすように胸を張るリディを視界の端に捉えながら、空は無表情の裏で——この時のリディにはまだ読み取れない——神妙な面持ちでいた。自分の心に現れた、ある気持ちに付ける適切な名前を見つけ出そうとしていたのだ。
そして——見つけた。
これが最適な呼び方のはずだ。
〈信頼〉
まだ〈スキル〉が未熟だった当時の空にとって、リディは複雑で予測不能、とても厄介な人間だった。それにもかかわらず、なぜかリディの存在は不快ではなく、むしろ心地よかった。
何故なのか。空には理解できない不思議な感覚に、パニックを起こしそうになった——美咲が未然に防いでくれた——こともあったのだ。
それが今日、理解できた。
圧倒的な信頼感。
自分の全てを預けてもいい——そう思えてしまう、リディが醸し出す何か。
その源が、あの白い線で囲まれた枠——コートと呼ばれる中にあった。
彼女には分析も理論も必要ない。ただ感じるだけでいい。感じたままが全ての理解と答えになる。
だからリディの側では、自分もただ感じるままでいればいい。彼女に全てを委ね、ただそこにいればいいのだ。
——その時、空の頭にふとある言葉が浮かんだ。
空はそれを口にしてみようと思い、厳粛で慈愛に満ちた表情で、自分の頭に手をかざすリディに、
「アーメン」
とつぶやいた。
ぷっと吹き出したリディ。
無表情で笑う空。
空は笑うリディに満足していた。
大成功だ。
なぜならこれが、空が人生初のジョークを口にした瞬間なのだった。
サイ✦ドリブ✦ワールド! / Science Driven World! -科学で世界を駆動せよ!- 空飛ぶ猪 @FlyingHog
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