トウキョウ・デイズ (2)

 ファンシー・リーンリン

 

 この時間帯はランチタイムを終えての休憩時間。夜の営業は17時からだが、今日は美咲のために臨時休業だ。

「アスティ、コーヒー飲む?」

 アイリーンに〈アスティ〉と呼ばれたリディは、もぞもぞと身震いをした。

「その呼び方やめて——飲む」

「〈アスティ〉の方が可愛いのに」

 ねえ?とアイリーンは、向かいに座る美咲に同意を求めた。

「だから嫌なの」

 美咲は黙って微笑んで、ちらっとリディの眉根を確認すると、またスマートフォンに目線を落とした。

 リディまたはアスティ——眉根にしわを寄せたアストリッドは美咲の隣に座る。

(ったく、ファンシー・リーンリンめ——)

 アイリーンはとにかく可愛いもの好きで、好むものすべてがファンシーだ。

 この店の名前もそうだし、ロゴも扉にかかった札も、せっかくの素敵な北欧デザインを台無しにしてる——とリディは思う。

 父によると、母のファンシー嗜好は父と出会う前から——おそらく子どもの頃からのようだ。当時は父も、母の心を射止めたいが故、ファンシーな贈り物の物色に勤しんでいたようだ。だが一緒に暮らしはじめてみると、あれよあれよとファンシーになってゆく家の中の様子に、父はたじろぎ危機感を覚えた。

 そこで父は、愛するアイリーンの機嫌を損ねないよう慎重に慎重に時間をかけて説き伏せて、〈家内ファンシー規制〉が導入された。それにより家の中で母に許されたファンシーは、ドレッサーとクローゼットの中、そして寝室の母の枕元だけになったのだそうだ。

(グッジョブ、ダッド)

 リディは心の中で親指を立て、店内を見回した。この店の中にもファンシーが無いわけでは無いが、カウンターの後ろの棚の限られた一角だけだ。そこだけはリディがもぞもぞするような可愛さに溢れているが、ほかはちゃんと北欧シンプル・オシャレをしていて、店内はとても素敵な空間になっている。

〈店内ファンシー規制〉

 そういうことなのだろうと、リディは確信している。

 父の同僚によると——

 アイリーンがリディの冗談を真に受けて、この店を始める決断をしたとき、父は遠く、とても遠く——宇宙よりも遠いところにいた。

「カフェをはじめるの」

 長期出張先の〈南極〉でアイリーンから報告を受けた父は、少し間を空けてから狼狽した。

 何の前触れも相談もなく、いわば事後報告。母を愛し良く知る父なので、その点はあまり気にならない。アイリーンの突発的な行動はいつものことだ。

 だが今回は行動の影響範囲が大きく、これまでとは規模感が違う。

 画面の向こうで満面の笑みをたたえる美しい愛妻を見ながら、父は思考を巡らしある考えに至ると、改めて狼狽した。

〈ファンシー・ハリケーン〉

 父が名付けた現象。

 アイリーンに自由な空間を与えると、そこはハリケーンのような凄まじい勢いで、あっという間にファンシーで埋め尽くされてしまう。〈ファンシー・ハリケーン〉の跡にはただ、ファンシーが広がり溢れリアリティが薄れた異空間。

 父は一応——微かな希望にすがって——画面の向こうに確認をした。

「お店の名前は決まったのかい?」

 アイリーンは言う。

「候補を三つに絞ったけど、迷ってるの」

 そしてアイリーンの唇からこぼれる心地よく魅力的な声に乗って、ファンシー極まりない語感が三つ爆ぜた。

 希望は打ち砕かれ、父はひどく狼狽した。

(聞かなければよかった)

 と思った時、アイリーンが続けて、

「今内装のデザインを考えてい——」

(!!)

 父は妻の声をさえぎり、

「ごめん!また後で!」

 急ぎラップトップの画面を閉じ、部屋の中を見まわし、ベッドの枕元に転がっていた衛星電話を手に取り——

 ひと呼吸ほど間をおいてから、また部屋を見まわす。今度は小さなデスクの上で充電中のスマートフォンを手に取り、連絡先アプリからある名前——救世主になり得るある人物の名前を探した。

 ふたたび衛星電話を手に取り、その人物の電話番号を打つ。呼び出し音が数回鳴り、それが止まると父が良く知る声が届いた。

 北欧でインテリア・デザイナーとして活躍している父の友人だ。アイリーンのことも良く知っていて、幼いリディとも面識があるらしい。

 父は慌てずゆっくりと友人に状況を話すと、

「ヴォイ・ヒュヴァ・ルオヤ!」

 ——フィンランド語で言うところの〈オー・マイ・ゴッド!〉——

 友人はひとしきり神を罵ってから、

「これは最優先の緊急事態だ。すぐに東京に飛ぶ。任せろ」

 と頼もしい台詞を父に残し——

 その二十時間後には、立川のリンドグレン宅のリビングで、彼は自ら機内で描いた内装のラフ・デザインを、アイリーンと画面の中の父にプレゼンテーションしていたのだった——

 こうして〈ファンシー・ハリケーン〉は防がれ、今この素敵な空間がある。

 父の友人に感謝。日本風に言うなら、フィンランドに足を向けては眠れない。

 

 ことっ

 リディの前に一組のコーヒーカップが置かれた。中はまだ空だが触れれば温かい。その傍らにすっと、半分ほど濃い茶色に染まったサイフォンのフラスコが出された。

 リディはフラスコの柄を持って、香しい液体をカップに注ぐ。カップからゆっくりと湯気が昇り広がってゆく。

 リディは口を結んで大きく息を吸った。

 香ばしさの中にわずかに甘さを感じる香りが、額の奥に立ちこめた霧を払う。

(かんぺき——)

 注いだ液体で熱いほどになったカップをとり、ひと口。音も無く啜る。

 まず感じるのはとろっとした重さと微かな甘味。酸味はほとんどない。次に淡い苦み。液体が喉へ降りてゆくと、後から旨味が充満し、香ばしさが鼻に抜けてゆく——

 フェアリーン・ブレンド

 ファンシーな名前の〈フェル〉イチ押しオリジナル・ブレンド・コーヒーだ。

 いったいどこで覚えてきたのか、アイリーンが淹れるコーヒーは美味しい。

 ごくありふれたアメリカ人家庭に漏れず、リンドグレン家でもコーヒーは暮らしに欠かせない飲み物のひとつだ。毎朝コーヒーメーカーのスイッチを入れるのは父の担当で、アイリーンに飲み干されないよう先んじるのが、リディの朝の試練になっている。

 珈琲——

 リディアにとっては何も特別なものではなく、日本人でいうなら緑茶や麦茶みたいなもの。そういう習慣で日常だった。

 父もアイリーンもそうだったはず。

 美味しいとか不味いとか、意識したことも考えたこともなかった。

 しかし——

 毎日〝アメリカン〟なしゃばしゃばコーヒーをがぶ飲みするアイリーンが、コーヒーメーカーで淹れる——それも自分ではほとんどしないアイリーンが、〈フェル〉がオープンしてみたら、こんな美味しいコーヒーを淹れるなんて。

 驚くリディをよそに、父はさほど意外では無さそうだった。父に尋ねると、

「だってリーンリンだからね」

 と一言。

 父からすると、凛と目を輝かせた美しい妻の、その行動力、決断力、そしてポテンシャルは、これまで何度も目にしてきたものなのだろう。

〈リーンリン〉は母のお気に入りの愛称だ。

 アイリーン・マクローリン

 結婚して〈リンドグレン〉姓が加わる前の名前。これを縮めて〈リーンリン〉。

 エレメンタリーのいじめっ子に付けられたあだ名だが、当の本人はいたく気に入って、いじめっ子が感謝されてしまう——というエピソード付き。

 父は愛しさを込めて母を〈リーンリン〉と呼んでいる。

 リディとしては、これには〈アスティ〉に共通するファンシーさを覚えるので、好きではない——むしろ嫌い。なので、リディは母親への感謝と尊敬の念を込めて、

 ファンシー・リーンリン

 と、〝心の内〟で呼んでいる。

 母を傷つけたくないとか、罪悪感があるとか、そういうのではない。

 あれはサンディエゴの頃だからずいぶん前のこと。アイリーンがリディにファンシーな服を着せようとして、喧嘩になったことがある。嫌がるリディにアイリーンがとても悲しそうにしたのを見てつい、

「〈ファンシー・リーンリン〉なんて大っ嫌い!」

 と口走ってしまった。

(しまった——)

 我に返ったリディがアイリーンの顔色をうかがうと、そこには満面の笑み。

 アイリーンは可愛さ二倍のこの呼び名を、一瞬で気に入ってしまったのだった。

 なのでこれは〝あだ名〟としてはもう二度と使えない。呼べばアイリーンを喜ばせてしまう。

 リディは心で苦虫を潰しつつ、淡い苦みを口に含んだ。

 

 

 

 エステル・フレイヤ

 

 入り口の方へ視線を向けると、大小二つを繋げて少し広くなったテーブル席に、空が座っていた。

 いつものように足を揃えぴしっと姿勢正しく顎を引いて、目線は向かいの壁にかかる写真に向けられている。

 空はこの写真が気に入っているらしい。無表情の奥に穏やかさが見える。

 写真には、どこまでも青い空に浮かんだ小さな飛行機が写っている。白い胴体にはスカイブルーのチートライン。白い翼を背負っていて、鼻先にはプロペラが一つ。後部に向けて細く絞られてゆくそこには、何かの型番のような英数字と、

 Estel Freya——エステル・フレイヤ

 と読める筆記体の英文字が書かれている。

 日本では一般に〈セスナ〉と呼ばれる、小型のプロペラ機だ。

 ——〈セスナ〉は飛行機メーカーの名前なので、このタイプの飛行機をなんでも〈セスナ〉と呼ぶのは誤りなのだが——

 この飛行機については〈セスナ〉で誤りではない。

 セスナ206

 セスナ社製の6人乗りの単発——エンジンが一つ——のプロペラ機だ。

 ただ——

 胴体の下に注目すると、いわゆる〈セスナ〉とは違っていて、見方によっては不格好に見える。

 その下部には胴体と同じくらいの長さの、奇妙な形をした細長い箱が二つ、エルフシューズ——妖精が履いている先が長く尖った靴——を後ろ前に履くように取り付けられている。

 そのせいでいわゆる〈セスナ〉よりも大きく、重量感があり、鈍重にも見えてしまう。

 この後ろ前のエルフシューズは〈フロート〉と呼ばれるもので、水面で離着陸をするためのものだ。

 セスナ206アンプフィビアン

 この飛行機は日本では珍しい水上機であり、かつフロートに格納された車輪を使って、陸の滑走路でも離着陸ができる〈水陸両用機〉。国内ではなかなかお目にかかれないレアな飛行機だ。

〈エステル・フレイヤ〉と名付けられたこのセスナ機は、父——スヴェン・アンスガル・リンドグレン博士のもの。

 マリーン・レジャーを愛するスヴェンが、サンディエゴで飛ばしていた機体だ。

〈エステル〉はリンドグレン家にとって家族同然の大切な飛行機で、リディもアイリーンも大好きな〝姉〟であり〝娘〟。

 日本への転居が決まり、そんな家族をひとりサンディエゴには残しては行けないと、苦労して——何ヶ月もかかった——日本に持ち込んだのだ。

 しかし——

 サンディエゴには水上機が離着陸できるマリーナ——水上飛行場がいくつもあったが、日本では広島と島根の二箇所だけ。持ち込んだはいいが、広島も島根も遠すぎるので、近隣の飛行場で泣く泣く陸上機としての扱いに甘んじさせてしまっている。

(〈エステル〉も海に降りたいよね)

 とリディは思う。

 写真はサンディエゴ時代に撮影されたもので、リンドグレン家の家族写真の一枚になっている。

(しばらく飛んでないな)

 写真を見つめる空の瞳を見ながら、リディは

(最後に飛んだのはいつだっけ?)

 と考えていた。

 リディにとって〈飛ぶ〉とは、父の操縦に同乗することではない。

 リディ自らの操縦で文字通り〈飛ぶ〉のだ。

 幼い頃から父に飛行機の操縦を教わっていたリディは、去年の夏、ひとりサンディエゴに帰省し、二ヶ月半の夏休みをフルに利用して

 ・SEL(陸上単発)

 ・SES(水上単発)

 ・IR(計器飛行)

 のライセンスを取得した。

 父の教えのおかげでSELとSESまでは、予定通り最短で取得できたのだが、IRで苦労した。IR——Instrument Rating ——計器飛行では難解な航法をマスターしなければならず、座学が得意ではないリディにはなかなかハードルが高かった。

 またIRの訓練に入ってから、何故か天候に恵まれず、夏休みのリミットぎりぎりまでかかってしまった。

 日本に戻ったリディは、すぐに日本のライセンスへの切り替え手続きを始め、追加で必要になる、

 ・航空法

 ・航空無線通信士

 の試験と、少し足りなかった飛行時間分の訓練を受け、先月、晴れて日本でも飛べるようになったばかりだ。

(最後はサンディエゴだったな)

 リディはあえて日本での訓練飛行を数にいれなかった。

 結局まだ日本では飛んでない。だが来週か再来週か——遅くともゴールデンウィークには飛べるはずだ。

 〈エステル〉は車で三十分のところ——〈調布飛行場〉にいる。いつでもすぐに会いに行けるのだから。

 

 

 

 美咲

 

 リディの隣では、美咲がスマートフォンの画面を眺めている。先ほどからほぼ一定のリズムで上スワイプを繰り返していて、くるくると変わる表情が可愛らしい。その表情は〈喜怒哀楽〉では足りず、百面相と言ってもよいくらいだ。

 美咲の前には空になったティーカップと、少しクリームがついた透明なフィルムだけが残ったケーキ皿が置かれている。

 美咲はコーヒーが苦手らしい。曰く、

「そんなに焦って大人になることないんだよ?」

(子どもが言うセリフじゃない)

 と思ったが、こういうに妙に大人びたところと、無邪気な子ども——今日から女子高生——が同居してるのが美咲だ。

 空と美咲を見ていると、常に空は空で空なのだが、美咲は時に優しい姉のようで、時に甘えんぼうの妹で、つかみ所がない。

 ひとりっ子のリディにとっても可愛い妹なのだが、時折ちょっとだけ、美咲の〝したたかさ〟が垣間見える気がして怖くなるときがある。

 ルックスはかなり良い。小柄だが可愛い系で明るく元気。学校ではきっと女子にも男子にも好かれてるだろうと思う。

 だがリディはこれまで一度も、美咲の友達に会ったことがない。街で見かけたことも無い。リディが知る美咲はいつも独りだ。

 かといって心に何か闇を抱えてるという感じでもない。藤井家に入り浸っているリディは、空より美咲と過ごすことが多いので、何かあればさすがのリディでも気づく。

 以前、冗談で、

「美咲は友達いないからねえ・笑」

 とからかったことがある。すると美咲は、

「そうだね。学校ではみんなで仲良くやってるよ。楽しいクラスメイト。でも本気で仲良くなりたいって子とはまだ出会えてないんだよね」

 と肯定されてしまった。

 思春期女子にあるまじき発言に、

「寂しくないの?」

 とリディが訊ねると、

「JCの時間は思春期に振り回されるためにあるのだよ、君。真の友情だけがそれを救うのだ」

 なのだそうだ。リディは返す言葉が見つからず、ただ

「そか」

 とだけつぶやいた。

 

 一方、美咲は思う。

(私は恵まれてる)

 空の妹に産まれたこと。空がリディに出会ったこと。そして自分がリディに出会えたこと。

 この二人こそが〝真の友人〟。

 リディはわかってないみたいだが、二人に自分がどれだけ救われてきたか——だからこれからも目いっばい、二人の妹でいようと思う。

(リディが本当に〝お姉ちゃん〟になってくれたらなあ)

 と空に視線を向けては、

(兄よ、その時はこのカワイイ天使がひと肌脱ぐぞよ)

 と心の中で空の背中をばんばんっと叩くのだった。

 とはいえ、恋の〝こ〟の字の気配もない二人なので、

(ひと肌じゃ足りないな。ふた肌み肌——きゃーお兄ちゃんてばヘンタイ)

 などと意味不明な妄想している。

 

 美咲がリディに初めて会ったのは小学5年の冬のこと。

 いつも通り学校から真っ直ぐ家に帰ると、リビングのソファーに見知らぬ美女がいた。それもガイジン。リビングの扉を開けた美咲の方を見て、きりっとした笑顔を向けている。

「?!」

 想定外のことに咄嗟に身構えた美咲の頭がフル回転して、

(何語?あたし日本語しかできないよ?)

 すると、

「ミサキ?あナタがミサキね?ワタしはアストリッド。リディってヨんで」

 少しガイジンっぽい日本語で名前を言い当てられ、動揺したものの

(あー、お兄ちゃんの学校の子か)

 と空が秋からインターナショナル・スクールに通ってることを思い出した。

 だが——

 美咲は我が家のリビングを見回した。空はいない。リディ一人だけだ。

(?!——お兄ちゃん?!——まずい——)

 表情を堅くした美咲が、空の部屋を振り返ったその時、

 がちゃ

 水の音と共に脇にあるトイレから空が出てきた。空間を見つめて美咲の傍らを、

「おかえり」

 と通ってリビングの中へ——

(?!)

 美咲は完全に呆けてしまった。

 何事?——クラスメイト?友達?——お兄ちゃんの??——

 空にはこれまでクラスメイトや友達はいたことがなかった。空の特性がそれを許さない。

 通級指導教室——特別な支援が必要な子どもが、支援学級などのサポートを受けつつ普通の小学校に通う仕組みだ。空は小学校の間このサポートを受けていた。自分の特性を踏まえて、他人と関係を築く方法を学ぶ必要があったからだ。

 それでも特にコミュニケーションでトラブルになりやすい空は、周囲から敬遠されていたし、空自身も孤独を好んだ。

 当然そんな空が家に人を連れてくることなど無かったし——美咲には今いったい何が起きているのかさっぱり——

(リディ?——そういえば聞いたことがあるような——)

 それは少し前、帰るなり美咲の部屋に空が来て、学校での出来事を〈無表情〉で楽しそうに語り始めた。美咲は学校の話を〝楽しそうに〟する空など見たことが無かった。とても驚いたのだが、空がやや興奮気味だったので、落ち着かせようとしながら話半分に聞いていた。その話の中で〈リディ〉という名前が何度も出てきたような——

(なんだっけ?——懸賞がどうとか——)

 美咲はちょっと首をかしげて、

「懸賞のリディさん?」

 と、ソファに座ろうとしている空に聞くと、

「ミス・スペル・リディ」

 と無表情。だが美咲には空がにやにやと笑っているのがわかった。

「Just a——Oops!ミサキちゃんマデ——」

 リディは両手で頭を抱えてわしゃわしゃとキャップを引っ掻くと、片方の眉を上げて空を睨む。

 空は声を出して笑っていた——無表情で。

 未だリビングの入り口に立っている美咲は、心底驚いていた。

 空が友達を家に連れてきた。

 その友達はガイジン。

 しかも女の子——それも美人!。

 さらに空はその子とふざけあっている。

 そして声を出して笑っている?!

(なんだこれは——何が起きてるの?!)

 空が声を出して笑うのは珍しいことではない——笑いのつぼが独特ではあるが——。でもそれは母や美咲の前だけのこと。

〈リディ〉

 目の前でじゃれ合っている二人を見ながら、少し落ち着いてきた美咲は、その空の友達——二人の様子からかなり〝なかよし〟なのがわかる——をよく観察することにした。

 肩より少し下まで伸びたボブは淡いこげ茶色。瞳は茶色だが緑がかっているように見える。運動部——きっとバレーボール部——なのが覗える、細身だがしっかりした身体つき。中学一年にしてはかなり長身だ。

 日本の中一基準では大人っぽい顔立ちだが、ガイジンだから普通なのかも。美人系。キレイというよりカッコイイ。表情から快活さが伝わってくる。

 トップスは綺麗なセージグリーンのニットで、厚手のもこもこタートルネック。ボトムはスリムなデニムで、足先にもこもこのソックス。頭には明るいワインレッドのキャップが後ろ前に乗っていて、耳には小さなピアス。そういえば玄関にライトグレーのダウンコートが掛けてあった。あれはれリディのか——

 傍らにはキャップと同じワインレッドのバックパック。横長だから通学バッグだろう。何が入っているのかぱんぱんに膨れているが、重そうではない。

 ——観察終わり。

 さて——

 二人の仲が良いのはわかった。これは〝友達〟だ。兄に友達ができた——女の子の!——ということだ。

 そしてその友達を家に連れてきた。空が誘った?——

「ミサキ、コこ」

〈リディ〉がソファーをぽんぽんと叩いている。

 美咲は疑問符を浮かべながら〈リディ〉の隣に座り、空の方を見た。すると空が〈何もない空間〉を見ながら、

「勝負に負けた」

 とひと言。

 また疑問符が増えた美咲に、傍らから少し外国訛りで、

「ソラに妹がいるって聞いてから、ずっと会いたかったの。でも何度お願いしても会わせてくれないから、ミサキを賭けて勝負してたんだけど——」

 兄よ、妹を賭けのネタにするな——

 なるほど、〈リディ〉が妹に会わせろと迫り、空は承知せず、ならばと〈リディ〉が勝負を持ちかけた——ということか。

 どうやらこの勝負は、だいぶ前から毎日続いていて、これまでは空の全勝だったらしい。どんな勝負をしてたのかはわからないが、スポーツ以外で空に勝負を挑むのは、無謀というものだ。

 だが今日、とうとう空の連勝記録が止まった。何日もかけて練りに練った作戦が功を奏し、〈リディ〉が初勝利を飾ったらしい。

 空曰く、

「見事だった」

 毎日、どんな勝負が繰り広げられていたのかは、あえて聞かないことにしたが、とうとう兄をして〝見事〟と言わしめた〈リディ〉には、

(ただ者じゃないな)

 と素直に思え、彼女が帰る頃にはもう

(大好き!)

 になっていた。

 後に美空は、リディが無表情で空間を見つめる空を眺めながら——

「He is irresistibly adorable.」

 とつぶやいたのを聞いたことがある。その時は意味がわからなかったが、そのフレーズが何故か耳に残っていて、ずいぶんと調べ回った。フレーズの音から元の文を再現するのに苦労したが、隣のクラスの鼻持ちならない帰国子女の協力を得て——借りができてしまった——、やっと突き止めたその意味は——

〝彼は狂おしいほど愛くるしい〟

 その瞬間、美咲の目から涙が溢れた。美咲はそれを止めようとは思わず、溢れるままにした。むしろ尽きるまで溢れさせたかった。

 まさか、美咲と母と父以外——つまりは〝他人〟の中に、同じように兄・空を想う人がこの世に現れるとは——

 そして、心の奥底で繋がり合うとは、こんなにも嬉しいものなのか——

 それからひととき、自分を包む心地よく暖かいものに身を委ねながら、美咲は涙を止めなかった。

 その翌日。美咲が真夏の極暑の中を汗だくで帰宅すると、リディがリビングでくつろいでいた。

 美咲は鞄を放り出して駆け寄り、リディに飛びつき、ひしっとしがみついた。そして、汗だくの美咲を引き剥がそうと抵抗するリディの耳元に——

「He is irresistibly adorable.」

 するとリディは抵抗をやめ、暖かい笑みを浮かべて、しがみつく美咲の髪を何度も撫でてくれたのだった。

 そのあとに、美咲の汗でべたついてしまったリディと、一緒にシャワーを浴びたバスルームの騒ぎを思い出して——

 

 隣に座る美咲の様子をうかがっていたリディの目が、スマートフォンからすっと顔を上げた美咲と交わった。くすっと笑った美咲にリディは、

「コーヒー飲む?」

 とフラスコに手を伸ばす。

 リディの意地悪に美咲は、ちろっと舌を出してスマートフォンに目線を戻した。

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