サイ✦ドリブ✦ワールド! / Science Driven World! -科学で世界を駆動せよ!-
空飛ぶ猪
トウキョウ・デイズ (1)
サイ✦ドリブ✦ワールド!
Science Driven World!
——科学で世界を駆動せよ!——
トウキョウ・デイズ
魔王
(キモチイイ…)
ベンチの背もたれに身を投げて空を仰ぐ少女がつぶやいた。いや、そう聞こえただけかも知れない。少女自身も
(声に出てたかな?)
と思ったが、別に気にはならない。少女の周囲は心地よいピアノの音で満たされているので、他の人には聞こえるはずもない。
平日の昼過ぎだというのに、歩道には多くの人々がのろのろと行き交っている。皆、上を見上げていて足元がおぼつかない。いつもなら人目を惹いて背中がもぞもぞするところだが、今日は——一年のこの数日だけは気にならない、お気に入りのひととき。指ハート。
だらんと伸ばしたすらりと長い腕の先に、真珠のような白い手と、ハート型に交差した細く長い指。スポーツのため爪は短く切り揃えられ、左中指のテーピングが痛々しい。
座っていてもわかる長身——日本では——にスレンダーな体つき。薄いピンクのパーカーにスリムなデニム、長い足の先には白いスニーカー。
スポーツ少女らしいショートボブの髪は淡いブルネット。日本人には染めているように見えるだろうが、母親ゆずりの地の色だ。空に向いた整った顔立ちを真珠色の肌が際立たせている。目を閉じているので瞳の色はわからない。
パーカーの右袖には
Exsurcia Academy High Shcool
の文字が読み取れる。
イクスサーシャ学園高校
ここからほど近くにある、少女が通うインターナショナル・スクールだ。少女はその最終学年——12年生(高校3年)に在籍している。
このパーカーは少女が所属するバレーボール・クラブのサブウェアなのだが、少女は常々、
(ピンクでさえなければ一軍にしてもいいのに)
と思っている。でも、
(この時期だけは特別)
なのだそうだ。
少女は大きく息をしてゆっくりと目を開いた。そこには吸い込まれそうなヘーゼルの瞳。これも母親ゆずりだ。
真っ直ぐ天頂を向いた瞳に写ったのは、パーカーと同じ薄いピンクに染まる空——
駅から真っ直ぐ南へ下る片側二車線の道路。その両側には幅3メートルほどの広い緑地が設けられ、その外側が広めの歩道になっている。緑地には約2キロにもにわたって桜の木——〈ソメイヨシノ〉が並ぶ。
東京・国立、大学通り。都内有数の桜のメッカだ。
2024年4月6日——今年は桜の開花が遅れに遅れ、ここ東京・国立では今日がピークの大満開。卒業式には間に合わなかったが、入学式を満開の桜と迎えられるのは、さぞかし嬉しいことだろう。
少女の座るベンチは、この桜並木の緑地の一角にある。そのすぐ側には透明なドーム——背丈より二回りほど大きい、透明なサッカーボールを半分に割ったようなドームがあり、その中に小ぶりなアップライト・ピアノが置かれている。
そのピアノは先ほどから軽快だが力強い音を奏でていて、花見客の耳を撫で足を止めさせている。
4分の5拍子。誰もが耳にしたことのあるフレーズが、ピアノの前に座る少年によって、徐々に複雑になり、そして不快手前ぎりぎりのハーモニーに展開して、また耳慣れたフレーズに戻ってくる——そんな繰り返しがかれこれ10分近くになる。足を止めた聴衆もさぞ飽きてるかと思いきや、見事な演奏に聴き惚れている様子。
しかし——
少女はドームの入り口に立つ女の子を見とめた。小学校高学年くらいか。大事そうに楽譜らしき冊子を抱いて、やや怨めしそうに少年の背中を見つめている。
(そろそろ止めるか…)
少女はよいっと立ち上がり、ドームの入り口に身を入れて少年に声をかけた。
「ソラ!」
十分に聞こえている声量だったが、少年は白黒の鍵盤の上を走らせる指を止めようとしない。
「ソーラ!」
少女はもうひと目盛り声量を上げたが、指は走り続けている。
ふと、業を煮やしたのか先ほどの女の子が少女の脇をすり抜け、少年の背後に近づこうとして——
「あ、ダメ!」
少女は女の子を慌てて静止した。
「ゴメンね」
少女は女の子に微笑んでから、ピアノの背後——少年の正面へと回り込み、少年の目線の先で手を振りながら、
「ソラ、ほら、もう終わり!次の子が待ちくたびれてるよ!」
すると、唐突にピアノの音が消え、辺りはすぐ側の車道を行く車の音に変わった。
何もない空間に焦点していた少年の目線が、ゆっくりと少女のそれと合うと、
「あ、ごめん…」
少年はスッと立ち上がりピアノから離れようと振り向くと、そこに楽譜を抱いて立つ女の子が——
ビクッ!
少年の身体は硬直し鼓動が跳ね上がり——
——ふわっと安らかな香りが寄り添ってきて、
「大丈夫」
意識を手繰りよせるような美しい声が耳をくすぐって、少年は平常に戻る。
ほんの数秒のこと。辺りの人々は誰も気づいていない。
ぱらぱらと聴衆の拍手が聞こえてくる。少年は無表情で、向けらる視線をすべてかわし、ドームを出た。少女もそれに続く。
「ごめん」
つぶやく少年に、
「あれはしょーがない」
少年の視線を覗き込んで破顔する少女。一瞬、二人の視線が交わったが、逃げるように少年の視線は外れ空間を泳ぐ。
「上出来」
少女はもう一度破顔した。
少女はその一瞬の視線の交わりが、とても嬉しかった。なにしろ、彼と一瞬でも目が合うようになったのは最近のこと。もう6年近い付き合いだというのに、最近まで彼が目を合わせてくれることはなかったのだ。
不満なわけでもないし寂しいわけでもない。これも彼の特性の一つであり、少女には愛らしく思える。でもあの日、ただの偶然だったのだが、視線が交わっても彼は逃げなかった。
ほんの数秒だったのか、それ以上だったのかわからないが、少女には人生最大の幸せであり、こんな幸福感がこの世にあったのかと驚愕した。舞い上がった彼女は、すぐに目を逸らした少年にしつこく、
「もう一度!もう一度だけ!」
とねだり————少年はパニックに陥った。
(あれは久しぶりにヤバかった。ミサキがいなかったらどうなってたか…)
それから時折、ふとしたときに一瞬だが目が合うようになった。どうやら少年にも感じるところがあったらしい。彼曰く、
「幸福感は脳内神経伝達物質がうんたらかんたら…」
だそうだが、少女にはそんなことはどうでもよく、隙あらば目を合わせるべくチャンスをうかがっている。
二人は先ほどのベンチに並んで座った。
細い足を投げだしてだらりと座る少女とは対照的に、少年は足を揃え姿勢を正している。黒いTシャツのタートルネックを几帳面に直しながら、空を覆う〈ピンクのもこもこ〉——満開の桜を見つめている。
少女に〈ソラ〉と呼ばれた少年——
これといって特徴があるわけでもなく、特に美男子でもない。どこにでもいそうなごく普通の男子高校生なのだが、なんと言えばいいのか——
その表情——なんの感情も読み取れない、まさしく〈無〉表情。身体の内から何かが溢れ出てくるのを、あるいは外から何かが飛び込んでくるのを防ぐかのように、きりっと一文字に結んだ口元。
その目——まるで宇宙の果てを見つめているような、果たして混沌あるいは静寂の深淵を覗いているような、深い深い瞳。
初めて彼と向き合う人々は皆、その顔立ちに目眩のような感覚を覚える。決して不快なものではないが、強いてなら圧倒的な敗北感とでも言うべきか。太刀打ちできない巨大な何かを前にして、ただ畏敬を覚える——そんな感覚だ。
少女も然り。あの感覚に慣れるまでだいぶ時間がかかった。今の彼女にとって〈藤井 空〉は絶対的な尊敬と畏怖の対象で、実は密かに〈魔王〉と呼んでいる。
空の可愛らしい妹——美咲に言わせると、
「どっちが〈魔王〉だかねえ…」
となるのだが。
一方、彼女にとって〈魔王〉は激しく愛らしい存在でもある。
でもその気持ちは誰にも知られてはならない。
この私が——クールで面倒見の良い姉御肌の私が、愛らしさに狂おしくなる、などということはあってはならない。クローゼットの奥の奥の奥に〈極秘の箱〉があることなど、マムにも知られてはならないのだ!。
(はぁはぁ…鎮まれアストリッド…)
隣で〈ピンクのもこもこ〉を見つめる、空の瞳に酔っていた自分を振り払い、その視線の先を追ったその時。
傍らの空がすっと立ち上がった。
スキル
「リディ、時間だ」
リディ——少女の愛称だ。
アストリッド・ブリギッタ・リンドグレン。アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴ生まれの北欧系アメリカ人。ルーツを問えば母はアイルランド系で、容姿も髪や瞳も母似なのだが、真珠のような白い肌は北欧系の父ゆずり。見た目では北欧系の方がしっくりくる。
10歳までをサンディエゴで育ち、念願叶って日本で仕事を得た父と共に、来日して8年。今や家族ですっかり日本に馴染んでしまっている。元々日本推しだった両親は、もはやサンディエゴに戻る気は無いらしい。何でももう墓まで買ってあるという。
(私はサンディエゴも好きなんだけどな)
実際リディは二年に一度のペースでサンディエゴに帰省している。大好きな祖父と祖母がいるし、なんといってもサンディエゴの海は最高なのだ!
「リディ、今日の〈予定〉では15時に〈フェル〉に行くことになってる。不慮の事態を想定すれば14時23分の高尾行きに乗りたいが、早く着きすぎるから37分に乗る。」
〈予定〉——空は予定や計画通りに行動することにとてもこだわる。これも彼の愛すべき特性の一つだ。自分の想定通りに事が運んでいれば心穏やかなのだが、想定外のことになるとひどく不安になってしまう。リディが出会った頃は取り乱してしまうことも少なくなかったが、最近はそんなこともなくなった。彼曰く、
「想定外を想定すればいい」
のだそうだ。想定できないから想定〈外〉なんじゃないの?と思ったが、リディはあえて突っ込まなかった。空ならそれができそうだと思うから。
あれは出会って間もない7年生(中学1年)のとき。雨の日の教室。懸賞付きのパズル本を持ってきたクラスメイトがいた。全問解くとなかなか魅力的な賞品が貰えるとあって、クラス中を巻き込んだパズル大会になったのだが、どうしても解けないパズルが数問。クラスに絶望感が漂い始めたとき、リディは、いつものようにきっちりと姿勢を正し、雨が降る外をじっと見つめる空の前に、件の難問のページを広げた。リディは彼の前の席に座ってにんまりと空に視線を向けると——
空はすっとリディを見て、そのまま流れるように開いたページに目を落とすと、ぱちぱちと数回瞬きをして、すぐにまた視線を窓の外に戻した。
「April showers bring May flowers.」
彼の口元がわずかに動いて、小さいがまだ声変わり前の澄んだ声が、しっかりといリディの耳に届いた。
April showers bring May flowers.——四月の雨が五月の花を咲かせる。
(いや、今十二月だし)
と思ったが、すぐにそれが有名なことわざだと気がついた。
(えっ?!)
「ソラ、もう一度お願い」
視線は変わらず雨を見つめているが、空はすっと右手でページを指さして、
「April showers bring May flowers.」
さっきと変わらない小さいが澄んだ声。
リディは勢いよく立ち上がり、教室正面に据え付けられている巨大なホワイトボードへ駆けよって、
A42 April shuwers bring May fluwers.
と書き加えた。
注目するクラスメイトに空が解いたことを伝えると、一斉に視線が空に向いたものの、それは驚きでも喜びでもなく、疑いの目。
当時の空はリディ以外とコミュニケーションを取らず、窓の外——いやもっと何か違うもの——を見つめているばかりだったので、クラスでは〈存在しないもの〉として扱われていたのだ。
しかもこの難問、ページ一面に数字とアルファベットが、まるで〈スクラブル〉のタイルをばら撒いたかのように、向きも並びも不規則に書かれているだけ。みんなは何かの画が浮かんで見えるのだろうと、パズル本をくるくる回したり、目に近づけたり遠ざけたりしていたのだ。
それをぱちぱちと瞬き——ほんの1、2秒見ただけで解けるとは到底信じがたい。至極当然のことなのだが、そう言われてリディはむきになった。
リディにとって空はすでに絶対的尊敬と畏怖(そして愛くるしさ)の対象だったので、彼女はいつになく真剣な目でクラスメイトの説得を試みた。
空にも、どうやって解いたのか説明してもらおうとしたが、曰く、
「説明できない」
と塩対応。リディが食い下がると、
「ただ見るだけ。見れば頭に浮かんでくる」
などと言う。
超能力者じゃあるまいし——とふて腐れつつも、リディはみんなに、空のこの、なんというか、説明できない何かを知って欲しかった。
結局、最後はその剣幕に脅えさせ、あるいは買収して、空の答えを採用させた。
空は残る難問も瞬きで解き、その答えをリディがホワイトボードに書き、字の美しさでパズル書記に抜擢された女子が、それを解答用紙に書き写して、パズル大会は終了した。
そして数週間が経ち、年が明けての新学期。
件のクラスメイトがパズル本の最新号を持ってきた。そこでみんなを集めて結果発表会となり、前号の正解と当選者が載る、後ろの方のページを開くと、
——正解者なし——
大ブーイングだ
当然のようにその矛先は空に向き——かけたが、ページに書かれた正解と自分のスマートフォンを見比べていた男子が、
「あれ?これ全部あってるよ?」
「なに?!」
クラス中が浮き足立ち、それぞれに自分のスマートフォンとページを見比べる。彼らはリディが書いたホワイトボードをスマートフォンで撮影していたのだ。
そして誰かが気がついた。
「あ、スペルが間違ってる!」
「ホントだ!」
「これ書いたのって?」
みんなの冷え切った——いや赤く煮えたぎった視線がリディに集まり、リディは必死に言い訳を考えた。
(確かに書いたのは私だけど)
(みんなも見てたのに気づかなかったじゃん!)
(あ、書記!書き写す時に直してくれよう!)
この危機に際してリディの頭脳は大して役に立たず、
「ぐう…」
ぐうの音が出てしまった——
騒動はリディが〈駅前のバーガーキング〉という賠償を負うことで決着した。
ワッパー×クラスメイト全員という賠償を負ったリディは、その後しばらく、〈ミス・スペル・リディ〉とからかわれ、半年ほど母が営むカフェ&レストランを手伝うこととなる。
この騒動は、
〈ミス・スペル・リディ事件〉
として、美咲の日記に記録され、語り継がれることとなった。
一方——
瞬きで難問パズルを解いてみせた空は、この騒動でクラス——に留まらず、学校中から一目置かれる存在となった。
変わらず誰とも話さず窓の外を見つめるだけの空であったが、遠巻きに存在を消されるのではなく、存在を重んじて距離を置かれるようになった。
尊敬と畏怖と愛くるしさの対象である空が、ちゃんと重んじられているのが、リディには誇らしく、
(あいつは私のマブダチなんだぜ)
などと自慢げになっていたものだ。
こうした空の不思議な〈スキル〉も、彼の愛すべき特性なのだと知ったのは、もう少し後のこと。
初めて空の家で夕食をご馳走になったとき、空の母や妹の美咲が、彼の〈スキル〉を上手く活かしているのを目の当たりにしたときだ。
母・陽子によると、空は〈パターン認識〉と〈アルゴリズム解析〉という能力が抜きん出ていて、あらゆるもののパターンや仕組みの成り立ちを、一瞬で見抜き理解できるらしい。
あの難題パズルなどは空の〈スキル〉が最も発揮される場面で、あのページに散らばった英数字に、パターンとアルゴリズムを見いだし、回答を導き出したのだろう。
藤井家では日々の暮らしに空の〈スキル〉が活かされている。
例えば〈ど忘れ〉。キッチンに来たものの何しに来たのか思い出せない——誰にでもあることだ。
そんな時、陽子や美咲は空間を見つめる空に尋ねる。
「私、何しに来たんだっけ?」
普通なら
「そんなのわかるかー」
と突っ込むところだが、空は違う。
「キッチン挟み」
的確な答えが返ってくる。
どうやら長く一緒に暮らしている陽子と美咲は、すでに空の中では解析済みで、思考や行動が予測できるらしい。
(何それ!私も解析されたい!)
とリディは羨ましがったが、6年たった今ではリディも解析済み。陽子や美咲と同等の存在になれたことが、リディは素直に嬉しい。
ほかにも、何か行動を始めるとき、空に任せると、最も効率の良い、確実に成功へと導く筋道と計画を立ててくれる。特に不慮のトラブルなどリスクの予測が怖いほど的確で、外れることはまず無い。
ただ当初、彼が作る旅行などのレジャーの計画は問題だらけだった。
空は人の感情に共感するのが酷く苦手だ。いや、そういう能力が欠けているのかもしれない。
なので喜びや楽しみといった感情を分かち合うレジャーの計画は、彼には難しい課題だった。
しかし今ではそれも克服している。彼曰く、
「心の動きも解析可能だと気づいた。予測して対処すればいい」
だそうだ。
空が突然、周囲に自分から話しかけるようになったときは、心底驚いた。慣れないコミュニケーションゆえに、最初は小さなトラブルを頻発させていたが、慣れるにしたがってそれも無くなった。
今では誰とでも普通にコミュニケーションがとれるが、やはり空には負担が大きいらしい。
コミュニケーションをしていても、空は相手と同様に自然に共感しているわけではない。〈スキル〉の力で共感をシミュレートしているだけだ。彼の脳や心には相当な負荷がかかっているはず。
実際、空はリディや家族には〈共感シミュレート〉を使わない。リディの前では今でも出会った頃の、尊敬と畏怖と愛くるしさの〈魔王〉のままだ。
それがリディには嬉しい。
フェアリーン・フェルリン
空に続いてよっこらとリディも立ち上がった。空は立ち上がったリディを視界の端に捉え、駅に向かって歩き出した。リディもそれに続く。
空の足元は、いつものグレーのカーゴパンツに、ティンバーランドの茶色いスニーカー。リディのスニーカーより靴底が厚いので、二人の身長差が少し縮まっている。
空は平均的な男子の身長だが、リディは日本の女子としては高身長だ。だが北欧・アイルランド系としては平均的。むしろバレーボールのプレーヤーとしてはもっと欲しい。
去年の秋、高校最後の身体測定では174.9cmだった。
(1ミリ!なぜ1ミリ!誤差の範囲でおまけしてくれよう)
表向きはクールに振る舞っていたリディだったが、帰宅途中のコンビニでアイスを〈やけ買い〉し、帰るなり自室にこもって〈やけ食い〉をした。
——翌日学校を休む羽目になり、美咲に大爆笑されたのだった。
空はまっすぐ前を見て歩みを進めている。早くもなく遅くもなく。花見客で歩道はやや混み合っていたが、空は人混みをするすると進む。
リディはその後ろをついて行く。いつも不思議なのだが、空の後ろはとても歩きやすい。ただ空の後ろ頭を見ているだけでよく、人混みでも苦にならない。
空は人との接触を嫌うので、本来、人混みを好まない。だがこれもきっと彼の〈スキル〉なのだろう。彼の目には人混みをするすると歩くルートが、カーナビのように見えているに違いない。
もしかしたら、〈ソラナビ〉には〈リディを考慮〉モードかあるのかも。だから歩きやすいのかな?——
本当は並んで歩きたいのだが、この人混みでは無理なので、空の視界を妄想して心でにんまり(顔に出してはならない!)。
駅前のロータリーを回り込んで、駅の正面で空が立ち止まる。振り返ると真っ直ぐ南へ延びる大学通りが見渡せた。
遠く視界の奥までを埋め尽くす〈ピンクのもこもこ〉。
リディは来日してから毎年、この幻想的な景色を見てきた。
あと二カ月と少しで、二人はイクスサーシャ学園を卒業して、毎日この駅へ降り立つことも無くなってしまう。
でもリディは心に決めている。
これからも、
この景色を毎年観に来ようと。
空と一緒に。
〈ピンクのもこもこ〉の下で、
それを見つめる空の瞳を眺めたい。
その視線の先に何を見ているかに思いを馳せたい——
そう決めている。
空とリディは、スマートフォンを自動改札機にかざして、ほぼ同時に並んで改札機を通った。下り方面のホームに上り、電車を待つ。37分まではまだ5分ほどある。
これから向かうのは立川駅。その駅から北へ10分ほどにある〈フェル〉——〈フェアリーン・フェルリン〉という小さなカフェが目的地だ。
Fairyeen Ferlin——妖精・フェルリン
なんともファンシーな名前のカフェだ。ファンシーとか、自分とは無縁でありたいと思うリディなのだが、まあこればかりは致し方ない。
国立から立川は一駅で3分。立川駅から〈フェル〉まで歩いて10分。15分あれば余裕で着けるのだが、予定が狂うリスクを避けたい空は、早め早めに行動したがる。
これでもだいぶマシになった。以前なら23分に固執していただろう。そして美咲に
「早起きは寝不足の元!早けりゃいいってもんじゃないんだからね!」
などと言われ、無表情でしょんぼりしたに違いない。
リディもだいぶ、空の無表情のその向こう側の感情を、読み取れるようになってきた。まだ陽子や美咲にはかなわないが、美咲によると、無表情で爆笑してることもあるらしいので、そんな空をぜひ見てみたい。
しかし、その日の美咲の日記には、
(リディ、本気で信じたみたい。可愛すぎる・ハート)
と書かれてることをリディは知らない。
シルバーのボディにオレンジのラインが入った電車に揺られて一駅3分。二人は立川駅の北口へ向かう。
北口のロータリーは二階建てになっていて、一階はバス・ターミナルとタクシー乗り場、二階が歩行者用のペデストリアン・デッキとなっている。二人は二階のデッキに出て北口大通りへと繋がるエスカレーターを下りた。
北口大通りは、立川駅から北北東へ延びる広い道路で、木々が並んだ緑地になっている中央分離帯があり、車道は片側二車線。通りの両側には、家電量販店やカラオケ店、飲食店などの商業施設やオフィスビルが並んでいて、歩道を行き交う人たちも多い。
北北東へしばらく歩いて二つ目の大きな交差点を渡ると、中央分離帯が無くなり道路が狭くなる。行き交う人も減り、駅前の賑やかさはすっかり無くなって、街の商店街の雰囲気に変わってくる。
二人が目指す〈フェル〉——〈フェアリーン・フェルリン〉は、もうすぐそこだ。
人通りが減ったので、リディは空の隣に並んだ。定位置は空が左、リディが右。
元々は二人とも左側を好んでいて、毎日ジャンケンで決めていた。だがどうやら、予定や計画に固執する空は、毎日変わって予測できないことが嫌だったようで、ある日、
「俺は左利きでリディは右利きなのだから、うんたらかんたら…」
と、長々と謎理論を展開され、辟易したリディが折れる形で今の位置に決定した。
とはいえ、今となってはこの位置に決めてよかったと思っている。リディも右側に慣れたし、何より、リディが右隣に並ぶと、空が穏やかになるのがいい。変わらない表情の向こうに、ほっとくつろいだ空が見えるのだ。
二人は目的地に到着した。時間はちょうど14時55分。
「5分前行動だよ、お兄ちゃん。10分でも1分でもダメ」
美咲の指導がちゃんと行き届いている。
〈フェル〉は立川駅を背にして通りの左側、中層マンションの一階にある。同じ建物だがずっと幅を利かせている不動産会社の脇で、こじんまりとしている。
入り口のガラス扉には、
Fairyeen Ferlin
と綴られた、とても可愛らしいロゴが描かれているが、店の外観は特にファンシーではない。すっきりとシンプルで落ち着いた雰囲気だ。
ガラス扉には、
Mixing Magic——魔法をかき混ぜ中
と書かれた札がさげられていた。どうやら〈準備中〉のことらしい。ファンシーだ。
リディは札を気にせず扉を手前に引いた。
「おかえりー」
「おかえりんこー」
二人は店内に入り、空が扉を閉めた。内側から見ると、札には
The Magic is Served——魔法を提供してます
なんともファンシー。
店名といい、札といい、ファンシーさが溢れてるのにもかかわらず、店内は外観と同じくすっきりとシンプル。要所要所に強めの色がカラフルにあしらわれているが、決してシンプルさ損なうことはなく、上品かつ質素な明るさを演出している。
とてもオシャレ。
リディはこのデザインをとても気に入っている。店名やあの札はいただけないが、内装は完璧。自分のファッションでも、こういうシンプルで質素だけどオシャレ!、を心がけている。
(今日のパーカーは例外)
〈ピンクのもこもこ〉とお揃いだから。
店は中もこじんまりとしていて、入り口から奥へと細長い作り。いわゆる〈鰻の寝床〉というやつだ。入り口付近には4人掛けと2人掛けのテーブルが一つずつ。その奥のカウンターには4席。さらにその奥は厨房になっている。
カウンターの端には小柄な制服姿の少女が座っていた。少し縦ロールがかかった胸元まである黒髪をハーフアップにして、芯の強そうなパッチリした目がリディを見て破顔する。
「ただいまー」
とリディ。
すると少女がすたすたと寄ってきて抱きつこうとしたので、リディは小柄な少女の頭をっぐいっと抑えて、
「美咲、昨日ぶりー」
とそのまま少女の頭をわしゃわしゃする。
「うわっ、早起きして気合い入れてセットしたんだよー」
少女はさっとリディから離れて、髪型を気にしながらさっきの席に戻った。
〈美咲〉——空の妹だ。高校1年。自宅からの近さと制服の可愛さで選んだ都立高校に、この春から通い始めるほやっほやの新入生だ。
今日は入学式。午前中で終わって帰宅した後、自慢の可愛い制服をリディ——とリンドグレン家の面々に見せに来たのだ。
そしてこの後、この店で美咲の入学祝いご馳走会が行われる。
カチッ——ぽっ
カウンターに並んでいるサイフォンのランプに火を付けたのは、年の頃は40代半ばの女性。肩ほどの長さのブルネットの髪を、ポニーテールに結んでいる。瞳はヘーゼル。少しオリーブ色がかった白い肌が際立つ。耳元にはファンシーなピアスが下がっているので、きっとこの女性が、このファンシーな名を持つ店の店主なのだろう。
彼女は〈アイリーン・ファルネラ・マクローリン・リンドグレン〉——リディの母だ。ここ〈フェアリーン・フェルリン〉はアイリーン——リディの母が営むカフェ&レストランなのだ。
8年前、父と共に来日したアイリーンは、初めこそ憧れの日本での生活を満喫していたのだが、父が仕事で長期出張に出てしまうと、時間を持て余すようになってしまった。
そんな母を見ていたリディが、ふと冗談で、
「お店でも初めてみたら?」
と言ったのが事の始まりだった。
アイリーンは料理が得意で、家族はもちろん友人・知人も絶賛するほど。とはいえ素人の母がお店などと思っての冗談だったのだが。
それからわずか4ヶ月後には、この〈フェアリーン・フェルリン〉がオープンしていた。
どこで覚えたのか知らないが、アイリーンがサイフォンで淹れるコーヒーは、とても美味しくい——リディ、びっくり。
フードメニューには、家では出てきたことの無い知らない料理があって、それがまた実に美味しい——リディ、またびっくり。
そして、リディが大好きなシンプルでオシャレな内装は、父の友人である、北欧の有名デザイナーが手がけたのだという——またしてもびっくり。
もう驚かないぞと構えていたリディだが、口コミがあっという間に広がり、半年後には大手グルメサイトで〈3.95〉をマークした。
リディはもう、母の偉大さにひれ伏すしかなかった。
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