鉄道その3

増田朋美

鉄道その3

その日も水穂さんたちが希さんのことを見守っていた。こういうときには、見守るしかないということは、意外に知られて居ない。てを出すのではなく、本人の意志や体力に任せるしかない、という状態であった。

「今日も誰とも話してくれないか。」

杉ちゃんが水穂さんにいった。

「ええ、誰にも話さないで泣いてばかりですよ。」

水穂さんは、大きなため息を付いた。 

「そうか、ああいうことが露呈しちゃったわけだから、そうだよな。難しいよな。たちなおるには。」

たしかにそうである。由紀子にあんなこと、つまり希さんは、バレリーナだったことや、爆撃のためにおかしくなってしまったという事実。これを本人は理解していないのであって、そこを理解させるには並大抵の苦労ではできないと言うことである。

「まあ、仕方ない。誰にも話してくれないで、以前にもまして無気力になっちまったけど、なんとかしてもらわないと行けないから、なんとかしようと思ってくれるのを待つだけだ。僕らに出来るのは。」

杉ちゃんは、水穂さんにそういったのであった。

「でも、事実がわかっても、希さんが思い出してくれるとは、限らないんですね。」

水穂さんは心配そうに言った。問題はそこである。いくら事実を押し付けたとしても、希さんの記憶が戻ってくるわけでは無いということである。

そこを何とかならないかなと思うけど、人間はそういうわけにはいかないんだと思う。

「こんにちは、竹村です。クリスタルボウルのセッションに参りました。」

ガラッと音がして、竹村さんがやってきた。水穂さんたちは、お待ちしてましたと言って、竹村さんを迎え入れた。

「彼女は、まだ、誰とも話してくれないですか?」

竹村さんが聞くと、水穂さんはハイと答えた。

「そうですか。それでは、昔のことを思い出してくれたのでしょうか?」

「いえ、それと、事実がわかったのとは、意味が違うようです。」

水穂さんは静かに言った。

「そうなんですね。それでは、自分が、松井希であって、バレリーナだったという意識が、まずかけているということでしょうかね。それで、ウクライナに留学されていたことも思い出せないと言うことでしょうか?」

竹村さんがそうきくと、

「ええ、そういうことだと思うんですが、まず初めに、由紀子さんが露呈したことが、事実かどうかを確かめる必要があるのではないでしょうか?」

と、水穂さんはそういった。

「ええ、それも確かにそうかも知れないんですが、まず彼女を、つらい状態のまま放置させては行けないと思います。それよりも彼女を新しい居場所へ出してやるべきではないでしょうか。記憶が戻ってくるのは、医者や他の人に任せるしかありません。だから僕たちはこれからどうしようかということを考えましょう。実は今日、耳寄りな情報を持ってきました。うちでクリスタルボウルを習っている生徒さんが持ってきた情報なんですが。」

竹村さんは、カバンを開けて、一枚のチラシを取り出した。

「なんて書いてあるんだ、読んでくれ。」

と、杉ちゃんがいうと、

「はい。実は、昨年発足した自主保育サークルぶどうの会の、手伝い人を募集しているチラシなんですが、入園を希望する子供さんが多すぎるそうで、現在、手伝い人が足りないというのです。保育時間は短時間ですので、勤務時間は比較的短時間で済みます。」

と、竹村さんは説明した。

「自主保育サークル?なんですかそれは。」

水穂さんがそうきくと、

「はい。自主保育とは、保育園に何らかの事情で通えなくなってしまった子どもたちを、保育士や保護者と共同で世話をさせる試みですよ。デンマークで始まったようですが、最近は日本でも流行っているようなんです。園舎を設けるわけではなく、公共の施設や、寺院などを借りて、保育を行っているんですけどね。時折、僕も、クリスタルボウルのセッションで行かせてもらっていますが、重い障害を持っている子供さんが来てますよ。」

竹村さんはそう説明した。

「そうなんですか。そんな試みがあるんですね。確かに待機児童と言うか、それは増える一方と聞きますし、それなら、子供さん同士で、集団でなんとかすれば良いという考えに変わってきているのかな。そのグループが、富士にあるんですか?」

水穂さんがそうきくと、

「ええ。昔は、東京とか大阪等の大都市にしかなかったサークルですけどね。最近はこういう地方都市でも需要があるようですよ。このチラシのサークルでは、歩けない子供さんたちを中心に預かっているみたいなんです。だから、多動とか、そういう心配は無いのです。だけど、そのかわり、愛情とか、世話を焼くということは、たくさんしてあげなければいけません。どうでしょう。希さんを、手伝い役としてこのサークルに参加させて上げたらいかがですか。そうすれば、居場所ができて、少し彼女も変わってきてくれるんじゃないでしょうか?」

と、竹村さんは言った。

「ありがとうございます。竹村さん。とりあえず、見学だけでもさせてあげたほうがいいですね。純粋な子供さんたちと、話をすれば、少し彼女も変わってくるかもしれない。」

水穂さんは竹村さんの話にうなづいた。

「じゃあ、そのチラシに書いてある日付に、希さんを連れてきてもらえますか?僕もその日は、一緒に行きますから、乗り合わせで、ぶどうの会までいきましょう。」

竹村さんがそう言ったので話は決まった。2日後竹村さんの車に乗って、希さんは、ぶどうの会に向かった。竹村さんの説明によると、公民館の部屋を借りて行っているらしい。

「こんにちは。竹村です。今日は、一名お手伝い役を連れてきました。名前は松井希さん。何でも話を聞いてくれますから、気軽に話しかけてやってください。」

と、竹村さんはサークルの代表と思われる女性にそういった。代表の女性は、もう60歳を等に超えてしまったような女性で、ベテランの保育士という感じの女性であった。

「よろしくお願いします。もうすぐ、子どもたちも来ますから。そんな暗い顔をして何をやっているの。もっと優しい顔でいてあげないと、子どもたちは、懐いてくれないわよ。」

ベテランの保育士さんはそういうことを言った。

「代表の雨宮と申します。よろしくどうぞ。」

「はい。」

希さんは小さな声で答える。それと同時に、ドアを叩く音がして、一人の女性と、車椅子に乗った子供さんが一人、部屋に入ってきた。

「おはようございます。椛島です。今日もよろしくお願いします。」

ということは、お母さんだろう。子供さんは、車椅子に乗っているのであるが、新しい手伝い人が来てくれたことに興味を持っているらしい。

「おじさん、このお姉ちゃんは?」

と、子供さんは竹村さんに聞いた。

「ええ、椛島洋介くん。この人は今日から、ここでお手伝いをしてくれる人で、名前はえーと、」

竹村さんが説明すると、

「松井希です。」

希さんは小さな声で答えた。

「希ちゃんって呼んでもいい?」

と洋介くんという少年はそういった。

「いいけど、、、。」

希さんがそう言うと、

「じゃあ、一緒に遊ぼうよ。ねえ、一緒にお弾きしない?それともお手玉でもいい。こうやって遊ぶんだよ。」

洋介くんは、雨宮さんからお手玉を受け取って、上手に投げ始めた。

「まあ、上手ですね。」

思わず、希さんはそう言ってしまう。

「ここでは、テレビゲームとか、そういうものは使用してないんですよ。それよりも日本の伝統的な遊び、例えば、おはじきとか、お手玉とか、あるいは、福笑いとかそういうもので楽しく遊んでいます。そういうほうがテレビゲームよりも、よほど楽しく遊べます。」

と雨宮さんが説明した。洋介くんは、本当にお手玉を投げるのがうまく、障害のあるこどもさんとは思えなかった。

「洋介くんは本当にお手玉が上手だね。誰かに習わせてもらったの?おばあちゃんにでも習っていたのかな?」

希さんは洋介くんに聞いた。

「いいえ、彼の家族はお母様だけですよ。彼は、見様見真似でお手玉を覚えてしまったんです。」

と、雨宮さんが言った。なんだか家族の話は洋介くんはあまりしてほしくないらしい。もしかしたら、うまく行っていないのかもしれない。希さんは、それ以上は言わないことにした。

「でも上手だね。そういうふうに手先が器用だったら、ジャグラーにでもなったら良いよ。」

希さんは、そう言ってあげた。洋介くんは、とてもうれしそうな顔をして、希さんの方を見た。そのかわいい顔を見ると、希さんも笑いを返さずにはいられなかった。

「希ちゃんもやってみて。」

洋介くんは希さんにお手玉を渡した。希さんはどうしたらいいかわからないという顔をした。

「希ちゃん知らないの?」

洋介くんに言われて、希さんは恥ずかしそうにええという。

「じゃあ僕が教えてあげる。こうやってね。投げるの。」

洋介くんがお手本を見せてくれたのであるが、希さんは、うまくできなかった。

「今度来るときは、一緒にお手玉しようね。」

と、洋介くんは、希さんに向かってそう笑いかけた。希さんもにこやかに笑いかけた。なんだか気持ちが通じたというか、お互い楽しい時間を共有できて嬉しいなという気持ちになれたのだろう。

希さんが笑いかけると、他の小さな子どもたちが集まってきた。確かに、車椅子に乗っている子供さんばかりだ。中には酸素ボンベのようなものを車椅子に設置してある子供さんもいる。みんな確かに重い事情を抱えているのだろうけど、絵を書いたり、おはじきをしたりして、楽しそうに遊んでいた。まだ純粋に遊びを楽しんでいる子供さんがいるんだなと、希さんは思った。希さんは、楽しそうに遊んでいる障害を抱えた子どもたちを眺めながら、なにか、自分にできることはないかと思った。

その日一日、希さんは小さな子どもさんと話をしたり、おはじきをしたり、豆つまみ皿移しをしたりして楽しんだ。主催の雨宮さんに話を聞くと、ここでの子どもたちは、みんな重い障害を持っていて、体を動かすゲーム遊びはできなくても、こうして伝統的な遊びであれば、遊ぶことが出来るんだと教えてくれた。そうか、そういうふうに、伝統もそうやって解釈することが出来るのか、と希さんは話を聞きながら思った。そうなれば、又居場所が変わってくるかもしれない。そうなると、希さんは自主保育サークルの手伝いをしたいと思った。

それから数日が経って、製鉄所の前に、一台のピカピカの高級車が止まった。誰だろうと思ったら、高級な絹のワンピースを着た女性と、手伝い人と思われる女性が、そこから降りてきた。

「誰だお前さんたちは。」

杉ちゃんはでかい声で言った。

「ええ、松井希の母の松井秀美と申します。」

と、立派なワンピースを着た女性はそういった。

「希が、ここにいると聞いて、こさせていただきました。一刻も早く、希をこちらへ取り戻したいと思いました」

「はあそうですか。その前に、希さんの経歴を話してください。一体どういう経路で、ここへ来たのか、それがはっきりしません。涼さんが発見したということになっていますが、その前後が、あまり良くわかっていないのです。」

応答した水穂さんはそういったのだが、秀美さんは、水穂さんの着物を見てばかにするような表情をして、

「あなたに何がわかるんですか。どうせ、ろくな人生歩いてきたわけじゃないでしょう。そういうことなら、お話することは無いと思います。希を返してください。」

というのだった。

「ちょっと待て。銘仙の着物着ているからって、そういう言い回しをするのはやめてくれ。一方的に希さんを返してくれではなくて、ちゃんと僕らの質問にも答えてもらえないかな?」

と、杉ちゃんがそう言うと、

「そんなこと。」

秀美さんはばかにするように言った。

「いや、本当に困るのはこっちだ。悪いけど、希さんは、今自主保育サークルの手伝いをしているよ。」

杉ちゃんがそう言うと、

「そんなところに希をやったんですか!それよりも、希が早く治療してもらって、もう一度、バレエコンクールに出場させるほうが先決です!」

と秀美さんはびっくりして叫んだ。

「治療という言葉を使われたということは、希さんの記憶が曖昧になっていることはご存知なんですか?」

水穂さんが、そうきくと、

「はい。ウクライナから戻ってきて以来、何も覚えていないということは知っています。それを思い出させるために、いろんな治療を試みていますが、それも、うまく行っていません。近い内に、東京の偉い先生に見せるようにしたいと思っています。」

秀美さんはそういった。

「そうなんですか。わかりました。では、その記憶を無くす前の、希さんのことを話してください。彼女は、留学されていたのですか?」

水穂さんがいうと、

「ええ、中学校を出たあと、バレリーナになるため、キーウの舞踊学校に留学させたんです。だけど、そこで戦争が始まってしまって、ずいぶん危ない目にあったようです。具体的にどんなことをされたのかははっきりしませんが、私が、連絡を受けて希にあったときは、自分が誰なのかも、わからなかったのです。もうこうなっては日本で治療をさせなければと思って、帰国させましたけれども、どうにか松井希であることは思い出してくれたようです。だから、ほかを思い出してくれるように本格的な治療が必要だということで、今家にいさせているのですが、今月に入ってから、行方がわからなくなりました。」

秀美さんはいやいやそうにそう話してくれた。これで、希さんがどういう経緯でここに来たのか、やっと真相がつかめたような気がした。

「そうなんですね。わかったよ。それでは、もう思い出さないほうがいいのかもしれないね。まあ大事なこと忘れられて困るということはあるのかもしれないが、それは弱い人間が見を守るためだったんだから、無理やり思い出させたら、逆に彼女が可哀想になる。だから、もうさ、バレリーナということは切り離してさ。もう、自主保育サークルの女性として別の人間にさせちまったほうが、いいのではないかな?」

杉ちゃんが腕組みをしてそういった。

「でも、私のことも、家にいることも、みんな忘れているんですよ。それでは困るから、ちゃんと治療してもらおうとしてるんじゃありませんか。早く希を返してください。そして、もう一回、バレエに挑戦させてやりたいんです。」

秀美さんは、そう懇願するように言った。

「だからなあ。事実は事実としてあるだけでそれに感情も甲乙もいらないんだよ。希さんがお前さんのことを忘れてしまったのは、お前さんのことを思い出すと、大損するってちゃんとわかっているからじゃないのかな。まあ確かにさ、バレリーナになれなかったのは悔しいかもしれないけどさ、だけど、それをいつまでもぐちゅぐちゅ根に持っていたらいかんよね。それより、彼女がどうするかを考えたほうがいい。彼女はまだ、いっぱい時間がある。それをお前さんが、つまみとろうとしてはいかん。」

杉ちゃんがでかい声でそう言うと、秀美さんは、それでもという感じの顔をしていたが、

「いえ、私も十分考えられることだと思ってました。」

と、お手伝いの女性が言った。

「お嬢様は奥様よりも長く生きなければならないのですから。」

「ほんなら、お前さんも行ってみるか。希さんはとても楽しそうに子供さんと遊んでるよ。今頃はおはじきしたり、楽しくやってるんじゃないの?自分の目で確かめてみれば、それでわかるんじゃないか?」

杉ちゃんにそう言われて、松井秀美さんは、そうねとうなづいた。水穂さんは、製鉄所に残って、杉ちゃんと、秀美さんは呼び出したタクシーに乗り込み、あの自主保育サークルが行われている公民館に向かった。

「おーい、なんだか又見学したいやつがいるみたいだよ。ちょっと入らせてやってくれ。」

と、杉ちゃんが自主保育サークルの行われている部屋のとを叩くと、どうぞという声がして、部屋のドアがギイっと開いた。応答したのは、代表の雨宮さんだった。事情を聞くこともなく、秀美さんは部屋の中に入った。部屋に入ってみると、希さんが女の子といっしょに、せっせっせのよいよいよいなんて歌いながら、楽しそうに遊んでいるのが見えた。秀美さんが思わず、

「希!」

と言ったのであるが、希さんはそれを無視して、子供さんと遊んでいるのであった。その態度を見て、杉ちゃんたちは、希さんが本当に記憶が無いのだと確信した。母親である秀美さんに全く反応しなかったのであるから。

「希!帰りましょう。家に戻ってちゃんと、記憶を取り戻しましょう。そうして、」

秀美さんはそういいかけたのであるが、

「それは、無理だねえ。」

と杉ちゃんは言った。子どもたちは、希さんと一緒に楽しそうに遊んでいる。希さんも彼らと楽しそうに遊んでいる。それでは、わざわざ記憶を取り戻してしまわなくても、いいのではないかと思われる気がした。

「希!」

秀美さんは半分泣き声で言っている。でも、希さんはそれに反応することもなく、子どもたちと一緒に、茶摘みの歌を歌っているのであった。

「もういいじゃないか。」

と、杉ちゃんが言った。秀美さんは、希さんを見つめながら、その場に崩れ落ちた。もうこれ以上、記憶を取り戻さないほうが、希さんには幸せになれるということは明白だった。

「希、、、。」

秀美さんは泣きじゃくっている。やっとここで希さんも子どもたちも気がついてくれたらしく、

「おばちゃんなぜ泣いているの。」

と洋介くんが優しく言うのであった。希さんは、その泣いている女性を黙ってみているしかできなかったようであった。希さんは、

「気にしないで一緒におはじきして遊ぼうね。」

と、洋介くんたちを、離してしまった。

泣いている、秀美さんと笑っている希さん。その差はまるで、天と地の差があるようで、なんだか悲しい物があった。もうこうなってしまうのが、一番正しいやり方であると示しているかのようだった。

空は青空だった。いつもと変わらない、何もない青空。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

鉄道その3 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る