7.水の誘惑 (3)(ホプラス)


その瞬間まで、ルーミに対する僕の気持ちは、もっと穏やかで、静かで、大海のように広がる、おおらかな物だと思っていた。




だが、違った。それは、光の射さない水底から、深海魚が、輝く水面を見上げるような、深き淵からの、ほの暗い憧憬だった。




ルーミが自分から僕に「誓い」、僕を選ぶ、と言った瞬間、それは怒涛のように訪れた。


光を一杯に含んだ、夏の飛沫のように輝かしい。


誇りと栄誉、希望と幸福、生きる喜び。暗い洞窟の中、僕は光に包まれていた。


ルーミを抱き締め、改めて誓う。僕も同じ気持ちだ。今も昔も、これから先も、ただ、お前一人だけを―――。


遠くから、僕たちを探す、ディニィとエスカーの声が聞こえた。ルーミが腕の中で、ぴくりと動いた。僕は、それでも、離す気はなかった。


「気がすんだか?すんだら、離せ。」


凍てついた声を聞くまでは。


力が緩んだとたん、ルーミは僕を突き退け、踵を返す。


「待って!」


「うるさい、離せ、触るな!」


全力で拒絶する後ろ姿に、伸ばした僕の手には、何も残らなかった。




その夜は、サヤンの宿まで戻れず、道場に泊めてもらった。女性三人は、女性用の宿舎に。男性五人は、それぞれ一人部屋を貸してくれた。


食事はみな一緒に、道場主のテーブルに招かれた。円形のテーブルで、僕の右隣にディニィ。左にキーリ。ルーミは、ちょうど向かいになったが、ずっと目を合わせてくれなかた。普段、僕としゃべる分を、エスカーと喋っていた。


僕はディニィと、キーシェインズの「変身能力」は、とても珍しく、ひょっとしたら、暗魔法の素質があったかも知れない、という話を聞いた。さらに、彼女は、キーシェインズの周囲の事情を話してくれた。


ハープルグ家に王家から与えられた領地は、将軍の亡き夫人の故郷にあたる、クーベルより西の地方都市だが、キーシェインズ家は、王都で起業している。ディニィは一族とは会ったことはないが、夫妻は慈善事業にも熱心で、年老いた傷病兵のための基金は有名で、評判はよい。


「さっきエスカーと話していて思い出したのですが、何年間か前に、ウジュールの大きな茶園のお嬢さんと、婚約したことがありますね。一月で解消になってしまったので、色々噂がたっていました。お嬢さんの遠縁に、少し素行の良くない方がいた、というのが理由だったようですが。」


ディニィは、そんな遠縁のたいした事のない問題で引き裂かれて、それが遠因で、こんな事になったかも、と考えていたようだ。


その話なら覚えている。ちょうどルーミと再会したころだ。有名茶園の令嬢とは知らなかったが、祖父が孫の素行を心配して、早めに婚約させようとしたが、キーシェインズ本人が「容姿が好みでない」と、祖父に無断で解消してしまった、という噂だった。


それはディニィには黙っていた。キーシェインズ個人よりも、今後の複合体戦の方針のほうが重要だったからだ。


だが、重要な話のなかでも、僕の頭は、ルーミの事ばかり考えていた。部屋に引き取った後も、眠れない。


明日の朝には、元通りかもしれない。あの時は、僅だが、ガスがあったのだから、混乱していたことにすればいい。その上の悪ふざけ、でもいい。謝ったらルーミは許してくれる。


だけど、それで、いいのか?


ベランダから、ルーミの部屋に、まだ灯りが付いているのを見て、僕は決心した。


きちんと、正面から、ルーミに言おう。軽蔑されるかもしれない、罵倒されるかもしれない。でも、誤魔化さずに、気持ちを伝えよう。どうなっても、それは、「裏切った」僕への罰だ。


ドアを開ける。そこには、ルーミがいた。


「話があるんだ。いいか?」


と、彼は僕が言うはずだった台詞を言った。


「いいよ、何?」


努めて平静な声を出し、彼を招き入れた。ドアを閉めると、ルーミはいきなり、平謝りに、勢いよく、謝った。


「さっきはごめん、この通り。すまなかった、許してくれ。」


僕は状況が飲み込めず、謝る彼に呆然としていた。そもそも、彼が謝るような事ではない。


「キーリの話があったから、絶望したら、あっさり消えてくれると思ったんだ。ガスで、何となく、気が大きくなってたんだと思う。あんな真似して、悪かった。お前の事を考えてなかった。ごめん。」


それは、僕にその気がまったくないのに、という意味なのか。だったら、それこそ、誤解だ。


「僕は…」


「ごめん。ガスのせいだろ。お前、俺より、もろに吸い込んだはずだよな。なのに、お前の状態も考えず、一方的に、お前が悪い、みたいな態度、とってしまって悪かった。」

金色の頭が、上下する。最後に顔をあげたルーミは、本当に、済まなそうな顔で、


「やっぱり、傷ついたよな。すまなかった。」


と、真っ直ぐに僕を見ていた。心の底まで、曇りのない、オリーブグリーンの瞳。僕の、一番好きな色。


僕は、やっとの思いで、


「僕こそ、悪かった。水魔法使いだからって、耐性を過信しすぎるな、と、騎士団の医者に、何度も言われていたんだ。混乱していたみたいだ。気まずい思いをさせて、ごめん。」


と、もっともらしい話を作って、自らに勧告した。


そして、和解して、無邪気な笑顔を残し、部屋に帰るルーミを見送った後、一人になった僕は静かに泣いた。


涙は、深海よりも、暗く、だが熱く濁った、深き淵に吸い込まれていった。




翌日、キーリが、これからの旅に、同行を申し出た。サヤンと、ユッシもだ。


昨日の戦いで、彼らが戦力になることはわかったので、反対する理由はなかった。


僕達は、ひとまず、王都に「戻る」ことになった。


旧い想いと、新しい仲間と共に。





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