最終話 讃華

 約束の十九時まであと十分。

 家の中は必要以上にばたばたしていた。

「ほら、あった!」

 隣の部屋から興奮気味な声が聞こえてきた。

「ほらほら爽太っ、これ着てきな」

 開けっぱなしのドアから、祖母が嬉々として入ってくる。手には藍色の甚平。祖母が二十分以上探してくれた物はさすがに断れず、性に合わないと思いながらも袖を通した。

「そうそう、で、それとこれを結ぶ……そう!」

 いいじゃなーい、と祖母はうっとりしたように言う。心なしか、いつもより声が大きい。

「似合ってるんじゃないか」

 それは祖父の声だった。

「ありがとう」

 顔を見ると祖父は、ふっと破願した。

「ほら爽太、あと五分だよ」

「あっ、うん。じゃあ」

「あ、下駄は?」

「いや、慣れてないからいいよ」

「そう、じゃあまた今度ね」

 俺は相槌を打って玄関に向かい、サンダルを履いた。

「じゃあ、行ってきます」

 振り返ると、祖母と祖父が廊下に立っていた。

「楽しんできなね」

「いってらっしゃい」

 二つの声に押されて、俺は家を飛び出した。




 小走りで道を抜けた。勢いよく走り出したら転びそうになったからだ。

 空は暗くなっていた。もうじき完全な漆黒になろうというところだった。

 そのとき、極めて明るい光が俺の顔を捉えた。

「爽太くーん」

 声が聞こえた。それと同時に目の前の光は消え、声の主の顔を照らした。

 ひよりちゃんが歩道際まで出てきていた。

「あれ? 甚平着てるの?」

 そう言うひよりちゃんは、英語がプリントされた白い半袖にジーンズ生地のショートパンツという、いつも通りのラフな格好だった。

「いや、ばあちゃんが探してくれて。せっかくだから着てけって」

 俺は思わず下を向いた。そういうつもりではないのに、張り切っているようで気まずかった。

「似合ってるよ? 行こっ」

 そんな俺をよそに、――いや、確かに気にかけながら、ひよりちゃんは微笑んで歩き出した。その微笑みにつられて俺の足も動いていた。

 玄関のドアを開けられ、緊張気味に足を踏み入れる。小学一年生かそこら振りにこの家に上がった。中の様子は、記憶とほとんど変わらなかった。お母さんに簡単に挨拶をして、玄関の目の前にある階段を、ひよりちゃんの後に続いて上っていった。

「あれ、サンダルは?」

 先に上り終えたひよりちゃんは振り返ると、俺の手を見てそう言った。俺は赤くなる顔を隠すように、急いでサンダルを取りに戻った。


 屋根に繋がる部屋は物置き部屋だった。ひよりちゃんの部屋だったらどうしようかなどという考えが一瞬過ったが、無機質な収納を前に、そんなことを考えるようになった自分に呆れた。

 その間にひよりちゃんは窓を開け、ためらいもなく屋根に出ていた。

「大丈夫。意外と傾いてないから」

「別に、怖がってないけど」

 ひよりちゃんは、ふふっと笑う。笑い声を聞きながら、俺はサンダルを屋根に置き、そこに足を入れた。初めて屋根に上った瞬間だった。外はもう真っ暗だった。

 少し歩いてみる。手の届くところに何の支えも無いのが恐ろしく、自由だった。

 後ろで窓が閉まる音がして、ひよりちゃんが俺の二、三歩前のところに座った。いつの間にか持ってきていたクーラーボックスを隣に置いて、両膝を抱えた。

 俺はその隣に腰を下ろし、同じように両膝を抱えた。開放的な空間で、二人並んで縮こまっていた。

 そうして一分が経つころ、公民館のアナウンスが漏れ聞こえてきた。

 ――只今から、花火の打ち上げを開始いたします。

 公民館のざわざわとした雰囲気が伝わってくる。誰かが指笛を鳴らした。

 それから数十秒後。

 真っ黒なスクリーンに前触れもなく鮮やかな光の粒が広がり、続いて重い爆発音が空気を震わせ、全身に響いた。

 視界の端から端まで花火で占められた。その円は、建物によって一部が欠けることもなく、完全体として網膜に映った。

 内側から、淡い黄、橙、紅。大小異なる三つの円が重なっている。

 その一秒後には、それら全てが金色となってパチパチと点滅する。

 また一秒後、消えてゆく。

 その儚さに、息が止まった。少しでも息をすれば、それがあの光たちを揺らして、消してしまいそうな気がした。

 花火の音以外には、二人の空間は無音だった。呼吸音すら耳は拾わなかった。

 その一発を皮切りに、花火は二発、三発と立て続けに打ち上がり、光が開いていった。

 その度に、火薬の爆発音が心臓を叩いた。行け、行けと内部から俺に訴えていた。このまま花火を見るだけで時間を過ごしてはいけないと。この景色が目的ではないのだと。

 また一つ、ドオオォォォーーーーンと心臓が震えた。


「「ねえ」」


 自分の声ときれいに重なって、左隣から声が聞こえた。

 自分の声と、耳が捉えた音が異なることに頭が飽和したまま、左に顔を向ける。

 視線が交差する。

「爽太くん、先でいいよ」

 幾度目の微笑みを湛えて、彼女は言う。

「いや……、ひよりちゃんが先で」

「えー、私、後がいい」

「俺も」

 珍しく俺が引き下がらない態度を見せると、彼女は観念したように口を開いた。

「爽太くんはさ、何で、今日誘ってくれたの?」

 その質問に、胸の辺りが重い衝撃を受ける。余韻が尾を引く。

 全て見透かされているように感じた。

 どこまで話そうか考えて、「じいちゃんから花火大会があるって聞いて、一緒に行ったらどうか、って言われたから」と、消極的な理由に留めた。

「そっか」

 ひよりちゃんは続けて言う。

「爽太くんのおじいちゃんは、私のことを知ってるからね」

 含みのある言い方だった。

「俺は、知らない?」

「……どうだろうね」

 左隣の彼女は、俺を弄んでいるとも切ないともとれる表情をしていた。

 俺は、何かを知らなかったせいでひよりちゃんを傷つけた?

 彼女に、つらい思いを抱かせた?

 あのときの罪悪感が蘇る。

 剥がれ落ちた快活さ。

 初めて見た表情。

 ひよりちゃん、俺は――。

「ひよりちゃ――」

「ねえ爽太くん」

 ひよりちゃんは、達観しているように笑って俺の目を見た。

「爽太くんは、後がいいんでしょう?」

 その言葉に俺は焦る。

「いやっ、――」

 遠くへ行ってしまいそうで。

「私が先」

 けれど、これ以上割り込めなかった。

 有無を言わせぬ強い自我があった。

 そして彼女は、漆黒の空を見上げる。

「ねえ爽太くん、赤ってどんな色?」

 その瞬間、緑色の花火が俺らを覆うように開いた。

 幾度目の衝撃。

「あれは赤?」

 はっとして、彼女の顔を見る。

 彼女は眉尻を下げて、無数の光を眺めていた。

「それとも緑?」

 彼女の声は、少しずつか細くなっていった。

「それとも、また違う色?」

 それは初めての衝撃だった。

「分からないんだ」

 彼女は再び俺の目を見た。

 異なる二つの視線が絡み合う。

 俺は彼女の眼差しに耐えられなかった。

 あの日、炎色反応の話をしたときに見せた動揺、孤独感。

 全て俺が引き起こした。

 リチウムの色を答えて、それで終わりにしておけば良かった。

 なのに、

 俺は緑を指して、彼女を突き放した。

 違う世界にいるのだと告げた。

 無自覚ゆえの、冷酷な宣告だった。

 頭上では、幾多の美しい爆発が起こっていた。

 でももう、上は向けなかった。

 下唇の内側を強く噛んだ。歯がめり込んでいくのを感じながら強く噛んだ。明日にはそこが口内炎になることなんて構わずに、自分で自分を罰した。

「爽太くん?」

「……ごめん、……本当にっ」

 そんな拙い言葉しか、振り絞れなかった。

「やめてよー、私がかわいそうな人みたい」

 そう言われると、もう口を開けなくなった。俺の目的は、向こう側から否定されてしまった。

「顔上げてよ。――私も悪かったの。爽太くんは色が見えるって分かってたのに、違う世界にいるって思いたくなくて、……分かってたけど、それを聞いて自分がどんな気持ちになるかも分かってたけど、確かめたくて」

 だから私が悪いの、と彼女は俺を慰めた。

 そこで俺はゆっくりと頭を持ち上げた。

 彼女の目を改めて見て、そうか、とは言えなかったけれど、その柔らかな眼差しに包まれて、だらしない心は緩んだ。

「はい、私の話は終わり。次、爽太くんの番だよ」

 ほのかに明るい声色で、励ますように彼女は言う。

「俺も終わりだよ」

 そう告げると彼女は一つ息をして、

「そっか」

 と優しく呟いた。

 ドオォーーーン――。ドオォーーーン――。

 ドォンドドドンドオオォーーーン――。

 花火大会はいよいよ大詰めだった。

「ねえねえ、アイス食べない?」

 彼女は、隣に置いてあったクーラーボックスから棒アイスを二本取り出し、俺の前に差し出す。

「どっちがいい?」

 その袋には、それぞれ「スイカ」、「メロン」という文字が油性ペンで書かれていた。

「じゃあ、こっち」

 俺が指した方を見て、彼女は「じゃあこっち」と、俺が選択しなかった方を渡してきた。

「いつも私がスイカ好きだからって、気ぃ遣ってるでしょ。今日は交換」

 俺の手には、スイカバーが握られた。俺はそれをびりっと破り、かじりついた。

 不意に、彼女が近づいてきて距離を詰めて座った。

 体の距離ゼロセンチメートル。

 俺の体の左側と、彼女の右側が密着していた。

 鼓動が速くなる。

 この拍動が彼女に伝わらないように、花火の爆発音を必死に浴びた。

「爽太くんには言いたかったんだ、この目のこと」

 彼女は上を見上げながら話し始めた。

「他の友達より、爽太くんの方が好きだから」

 友達としてだよ? と彼女はおどけた。

「学校でもみんな知ってるんだけどね、なんか必要以上に気を遣われるんだよね。絶対に違うんだけど、疎外されているみたいで、ちょっと悲しいし、寂しい。気を遣うなら、もっとスマートに遣ってほしいな。みんな、あっ……、って感じなんだもん。先生だって、心のどこかにあるものは、どうしても感じ取れちゃう」

 そこで彼女は俺の方を見て言った。

「だから、私を違う世界にいると思わないでほしい」

 その眼差しは真っ直ぐ俺を貫いている。

「『見て、虹!』とか、『この服かわいくない?』とか――、正直、他の人と同じようには楽しめないことも多いけど……でも、最初から遠ざけられる方が悲しいから」

 彼女は伏し目がちになりそうなところをどうにか堪えるように俺の目を見ていた。

「……だから、同じ世界にいさせて?」

 目と目の距離、十五センチメートル未満。

 懇願する彼女に、俺は吸い込まれそうだった。

「もちろん」

 その中で吐き出た言葉は温かかった。

「俺も、ずっとここにいたい。帰らないで、ここでずっとこうしていたいよ」

 なんてことは、言えなかったけれど。

 でも、俺とひよりちゃんは確かに同じ花火の下で、同じ空気を感じて、同じ世界にいた。


 無数の光が空いっぱいに、中心から球状に広がり、大輪の花火が夜を包む。その色は、赤、青、ピンクと移り変わり、最後には優しい白色の光が不規則に現れて、一点一点が球を形作りながらもはらはらと崩れてゆく。

 一つ一つを観賞する暇も無く、絶え間なく打ち上げられる花火。

 最後の数発が、満を持して宙に放たれた。

 ドォーンドオォーーーン――、

 ドォンドンドドドン、ドドオオォーーーーン――、

 

 パラパラパラパラパラァァーー――。

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讃華 鳳梨 @pine-apple

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