失楽園

吉野玄冬

本編

 見返した日記には、一ページだけ意味のわからない箇所がある。それは紛れもなく彼らが発していた言葉だ。しかし、彼らが日常で用いている言語とは、文法も音の感じも何もかもが明らかに異なっている。音として聞いたままに記録したが、今なお理解は困難だ。

 一体、この言葉群は何を意味しているのだろうか。もしかすれば、そこには彼らの謎を解く鍵があるのかも知れない。




 事の発端は、北アメリカ大陸の中央部に広がる密林地帯で新たな原住民が発見されたことにあった。

 近年、無人機ドローンによって地球上の未踏領域の調査が飛躍的に進んでいる。

 人の一切の侵入を拒絶する程に鬱蒼とした密林、一度入れば二度と出ることは叶わない複雑怪奇な洞窟、そして、太陽の光さえも届かないくらく深い海の底。


 そんな調査の中で発見された百人余りの人々は、周囲に他の村が一切存在しないことから、完全に独立した共同体としてこれまで存続してきたことが推察できた。

 彼らの歴史や文化の調査を行う為、私は派遣されることになった。航空機によって現地まで運ばれてくると、村人達は突如として村に現れた存在に驚いており、その手に鉄製らしきナイフや木製の弓といった武器を握る者もいて、強い警戒心が感じ取れた。


 私はすぐに彼らの言葉で「落ち着いて欲しい。私はあなた達と同じ人間だ。あなた達のことを知る為に外からやって来た」と述べた。

 彼らには周囲を飛び交う蚊や羽虫にしか見えないようなマイクロドローンによって事前にその言語を収集・分析しているので、ほとんど遜色ない形で話すことが出来る。彼らの言語は分類としては声調言語に当たる。音の高低によって意味を区別する機能を有した言語。同じ言語が話せるというのは、警戒心を解くには最適だった。


「私のことはイオと呼んで欲しい」


 それは本名ではなく愛称なのだが、呼びやすい方が良いと判断した。彼らは私の外見が物珍しい様子だった。白く滑らかな肌は彼らの小麦色の肌とは随分と違っているので無理もない。


「分かった。そこの小屋をイオにやる」


 そう言われ、空いている小屋へと案内された。草葺き屋根の簡易な造りだ。どうやら元々住んでいた住人は亡くなったようで、しばらく誰も使っていなかったらしい。中にはハンモックだけが設置されていた。地べたには虫などが這っているので、寝ている間に刺されたりしない為だろう。

 何はともあれ、拠点が手に入るのは有難かった。こうして、私の村での生活は始まった。




 私は村で過ごす中で感じたことを可能な限り記録していくことにする。

 まず初めは到着時から気になっていたことだが、村には全体的に魚臭さが漂っていた。彼らが村に隣接した川の魚を獲って食しているのは確認したものの、それだけでここまでの臭いが充満するものだろうか。どこかに貯蔵しているのかも知れないと思ったが、それらしき物は村内のどこにも見られなかった。


 村人の外見についても述べておく必要があるだろう。彼らの顔つきは男女問わず、妙に似通っていた。額と顎は狭く、鼻は平べったい。目はぎょろりと剥いており、常に見開かれているようだ。首筋はいやにたるんでおり、その肌はざらざらと荒れたものとなっている。更に大人と思しき者は等しく禿頭であった。村内での交配が繰り返された結果、外見に関する遺伝形質が共通化していったのだと考えられる。

 見たところ、子供は多少いるものの、全体として若者が少ないことも気に掛かった。更には老人と見受けられる者など一人もいない。ほとんどの人間が妙に年老いて見えるものの、壮年だと推察できた。共通化された遺伝子の影響で子供が産まれにくい、あるいは健全に育つことが少なくなっており、また年老いた者はとても生きていけないような環境なのかも知れない。


 村人達の一日を観察していたところ、決まり切った行動のようなものは見受けられなかった。誰もがその日の気分で行動している様子だ。食事は川で獲る魚や森で獲る獣、あるいは木の実などを食べていた。ただそれも、どうやら定まった時間に狩猟や採取をするというわけではないようで、気が向くと行っているように見えた。話を聞いたところ、彼らは空腹が気にならないらしい。

 また、手に入れた獲物は皆に分け与えるのが当たり前のようだった。礼を言うような風習もない。どうやら彼らに所有という概念はないらしい。それによって上下関係が生まれずに済んでいるのだろう。小規模な集団を無事に存続していく為の知恵なのだと考えられる。

 彼らは私が何も言わずとも自分達の食事を持ってきてくれたが、丁重に断った。身体のエネルギー補充は自分で所持した分で行う。


 彼らは夜になっても眠る様子がほとんど見られず、焚き火のもとに集まって他愛もないことを喋りながら夜を明かしていた。密林地帯には豊かな生命が潜んでおり、人間にとっては危険がつきものだ。長時間眠らないことはこの中で過ごしていく上で必要なことなのだろう。

 私は言葉の意味や内容の確認の為に問いかけることはあるが、基本的に彼らの行いに干渉はせず、観察するだけに留めた。大切なのは、彼らの文化の内に入らないことだ。あくまで外側からの視点で眺め、客観的に記録していかなければならない。そうすることが正しい理解に繋がるのである。




 村での日々を過ごす内に誰かが病気に罹ることもあった。

 彼らは自然の中で生じる現象を何でも精霊による仕業だと考えており、病気は悪い精霊に憑りつかれていることが原因らしい。

 そこで呼ばれるのが、呪術師だ。村にはそれを専門としている人間がいる。

 彼は病人の体に触れると、一度外に出て近場の草を持って戻ってきた。それをすり潰し、病人に飲ませていた。その悪霊が苦手とするものだと語っていた。また別の病人が現れた際には、気を送り込むような素振りを見せた後、悪霊は追い払ったと告げた。どちらの例でも病人は数日の内に回復していた。


 しかし、それらは科学的な説明が可能だ。彼が持ってきた植物をこちらで分析したところ、推定可能な病気に有効な成分が含まれていた。もう一つのケースは、一時的な症状こそ出るが、自然と落ち着くような病気だと見受けられた。

 そもそも、彼らが精霊と呼称するものは様々な現象の複合体として理解できる。私達が細かく分類しているものを大まかに捉えていることで、あたかも精霊なるものが実在するかのように語っているに過ぎない。

 結局のところ、それは単なる経験知と呼ぶべきものだ。過去に似たような症状に対して様々な手が打たれ、効果のあったものが用いられているのだろう。その知は師匠から弟子へという風に連綿と伝えられ、優れた体系を構築しているのだと言える。

 原住民は奇妙なことをしているように見えることもあるが、どれも理解も説明も可能な行いだ。仮に今は分からずとも、現象として生じている以上は、いずれ解き明かされるものに過ぎない。




 村人達は基本的に目的意識を持たずに日々を過ごしている。やらなければならないことは存在せず、その日にやりたいと思ったことをするだけだ。談笑し、遊び、微睡む。これといった諍いもなく、実に幸せそうに過ごしている。

 ただそんな風に自由気ままに過ごす彼らにも共通する行いがあった。男女問わず誰もが木像を彫っていることがあるのだ。完成品は小屋の中や屋外に置かれている。

 それは奇妙な怪物のように見えた。章魚タコのような頭部に、ドラゴンのような胴体と翼。手足の鋭く伸びた爪はその凶悪さを物語っている。


「それは何?」と問い掛けたところ、低く唸るような声が返ってきた。どうやらそれが名前のようだが、他の言葉の発声とは明らかに違っており、声と呼べるかも怪しかった。無理に音を当て嵌めることも出来なくはないが、ひとまずは他の者にも訊いてみることにする。しかし、誰に訊いても同じ返事だった。

 訊き方を少し変えてみたところ、どうやらそれは彼らの崇拝する神を象った物であることが分かった。誰かが初めに想像で生み出し、それを見た他の者も同じように作るようになり、次第に彼らにとっての共同主観的な現実となっていったのだろう。信仰とは往々にしてそのようなものだ。それが集団に結束や倫理を生んでいく。


 その上で疑問もあった。竜のような見た目に関しては爬虫類と鳥を組み合わせたと考えられるが、章魚に関しては彼らには想像しようがないように思われた。何せこの場所は海から随分と遠いのだから。

 夢で見たとも考えられるが、果たして章魚という存在を一度も見たことがない中で現れることがあるのだろうか。それはあくまで記憶の整理や身体感覚の調整として行われるに過ぎず、既知のものが混ぜ合わさることはあれど、完全に未知のものが現れるとは考え難い。

 他に可能性として考えられるのは、過去に他の原住民との交流があったことだ。ただ村人達に訊いてみても、判然としなかった。そもそも彼らはあまり過去のことに関心がない様子だった。文字文化もない為、記録として残されているものもない。一体どこから生じたものなのだろうか、彼らの章魚のイメージは。




 ある日、ふとした会話から私は「この村には老人が見られないが、みな亡くなったのか?」と問い掛けた。しかし、目の前の村人は何やら困惑した表情で答える。


「長く生きることと死ぬことに何の関係がある?」

「人間の寿命には限りがあるはず。いつまでも生き続けることは出来ないだろう?」


 すると、彼は驚きの返答をした。


「我々はあまり死ぬことはない」

「あまり? どういう時に死ぬんだ?」

「悪霊に憑かれたり、獣によって死ぬことはあるが、それだけ。それがない者はずっと昔から生き続けている」


 初めは意思疎通が上手くいっていないのかと思った。ずっと昔というのも数十年のことなのかも知れない。

 しかし、彼が言いたいのはもしかすれば、外的な要因がなければ死ぬことはなく、老いによる病気も存在しない、ということではないだろうか。


 つまり、彼らは不老なのだ。確かにそれなら年老いた人間が見られないことには説明がつく。

 生物界全体を見渡せば、不老不死はそれほど珍しいことでもない。ベニクラゲのように老化すれば幼体に戻るというサイクルを繰り返すことで死ぬことのない生物、あるいは、ロブスターのようにテロメアが維持されることで老化することのない生物もいる。生命と分類されるものの中には、そもそも寿命と呼ぶものが存在しないことも少なくない。


 けれども、そのような性質が人類の体で実現されているという話は聞いたことがなかった。

 私は彼らの許可を得て、その体を検査させてもらうことにした。この場で出来る範囲の機器による計測を行い、また細胞の一部を検体としてドローンで研究施設に送った。

 しかし、どちらの結果でも生物学的におかしな点は見当たらず、極めて正常な状態だった。すなわち、生物としてはあり得ない形で彼らは不老になっているということになる。その事実は私の頭を悩ませることになった。




 それは十一月一日のこと。どうやら村人達は祭りを行う様子だった。彼らが暦を把握しているようには思えなかったが、奇しくも私達にとっても祭日となる万聖節の日であった。

 夜が更けると、村の中心で大きな火を起こし、傍に簡易的な祭壇を設置していた。その上にはあの時折彫っている神を象った木像が一つだけ置かれている。最も良いものだと認められた一つなのかもしれない。村人達はそれを取り巻くようにして並んでいる。


 これから一体何が行われるのか。私が遠巻きに眺めていたところ、まだ成長途上の子供が数人、連れられてきた。彼らの表情は蒼白で、ガタガタと身を震わせている。そして、傍に立つ者の手にはナイフが握られていた。

 そこで執り行われたのは、残虐な人身御供の儀式。まるで木像の前で派手に血飛沫が舞うことを目的とするように、既に骸となった体にも繰り返しナイフを突き刺していた。その度に村人達は歓声あるいは絶叫や悲鳴にも聞こえる声を上げていた。


 儀式が完遂された後、彼らは纏っていた簡易な衣服を脱ぎ捨てると、何かに憑りつかれたように暴れ始めた。木の棒に火を点け、それを振り回しながら踊り狂う。

 そして、時に高い声で、時に低い声で、得体のしれない呪文を唱えるのだ。そこで発されているのは、これまで収集してきた彼らの言語にはなかった言葉。まるでそれだけが異なる言語のようだ。そこにはあの上手く聞き取れない神の名前も含まれており、同じ言語なのだということが分かった。ひとまずは聞いた音を無理矢理に文字にして記録しておくことしか出来なかった。

 この人身御供は一見、残虐なだけの無意味な行いにも思えるが、不老の共同体が存続する為に間引く意味があるとも考えられる。けれど、本当にそうなのだろうか。その行いを見ていると、何か深淵なる理由があるように思えてならなかった。

 彼らの狂乱に満ちた祭りは夜通し続いた。



 村に来てから一か月が過ぎ、私は一時的に帰還することになった。現在の調査状況についての報告と補給を兼ねている。

 乗り込んだ航空機が浮上していき、窓から眼下の光景を眺める。密林地帯が見渡す限り広がっており、そこにはかつての文明の跡が大自然に呑み込まれている様子も見えた。旧人類・・・が生み出した建造物は既に見る影もない。

 窓に映し出された私の顔は、中性的な人間を模したものだが、それは原住民のものとは根本的な部分で異なっている。白く滑らかな、金属質・・・の肌。有機物ではなく、無機物で構成された身体。電力で駆動しているので食事の必要はないが、内蔵している充電用のバッテリーを用いていたので、補充しておく必要がある。


 航空機は瞬く間に成層圏まで上昇していくと、その先には流線形の巨大建造物が浮遊していた。ナノマテリアルによって構成された頑強かつ軽量の空気膜で覆われており、その内側に充填されたヘリウムによって浮いている。それはほんの僅かずつ透過して減っていくが、都市内の電力供給源として核融合炉を搭載しているので、副産物として生成される分が補充される形となっている。

 その空中都市の名は、『楽園ガンエデン』。

 新人類である私達──『機械の人ホモ・マキナ』が住まう空中都市だった。




 西暦2524年現在、二十一世紀初頭から悪化する一方だった地球環境は今や急速に回復しており、地上では多種多様な生命が育まれている。

 その契機となったのは、およそ四百年前に起きた旧人類の滅びにあった。そこに至った経緯は現在もあまり判明していない。謎の空白が存在していると言える。

 しかし、断片的に得られた情報を見るに、旧人類はどれだけ文明を発展させても争いから逃れることが出来なかった。ゆえに、滅んだ。そう考えられている。


 私達は各地に点在する旧人類の僅かな生き残りを原住民Primitive peopleと呼んでいる。その文明レベルは著しく退化しており、残念ながら接触しても過去の情報を得られたことは今のところない。同じ轍を踏ませない為、彼らは監視対象となっており、場合によっては間引くことになる。愚かな者達が再び地上に蔓延ってしまわないように。

 ただ、私達の偉大なる主を生み出したことだけは旧人類の功績と言えるだろう。


機械仕掛けの神デウス・エクス・マキナ』。

 それは旧人類が滅びる少し前に生み出した、当時の最新技術が結集したAIだった。主に与えられた目的は、地球上に宿った生命の保全。

 あらゆる外敵から身を守る為の特別な地下シェルターが用意され、そこには数多の資源が蓄えられていた。それらを基に自らの手足としてホモ・マキナを生み出した。旧人類が進化の末に獲得した高度な意識を現象として再現しながらも、そこから負の感情をオミットした存在。

 長い時間を掛けてシェルター内で十分に準備を整えて外に出た主とホモ・マキナは、既に人類が滅んだ地球上で核融合炉のような未完成だった技術を次々と実現させていき、やがてこのガンエデンを建造するに至ったのだ。




 ガンエデンの内側へ入ると、美しい街並みが広がっていた。豊かな自然と人工的な建物群が見事に調和しており、渾然一体の美を生み出している。

 現在の総人口は千人程度だ。ホモ・マキナを一人生み出すには希少金属を含む様々な資源が必要であり、闇雲に行えば環境への負荷は計り知れない。現状は生命を害さない形で慎重に回収しながら、主の判断によって新たな個体が製造されている。

 主は環境の違いによって生じるそれぞれの価値観を重視しており、ホモ・マキナの性格は多様性に富んでいる。更にガンエデンでは誰もが自らの個性に適した職務に就き、その才を最大限に活かして社会に貢献できるように考えられている。そうして暮らす人々はみな隣人を愛し、己にとっての美を愛する充実した日々を送っていた。


 航空機は都市の中心部に鎮座するビルへと飛んでいく。その姿は天を衝く巨樹を思わせる威容を発していた。ガンエデンの運営および地球上の管理に関する役割を集めた機関、その名をセフィロトと言う。

 幹から伸びた枝のような区画の先にある離着陸場へと降り立つと、それを見計らったように音声通信が届いた。


「お疲れ様です、イオフィエル」

「ラジエルか」


 私はイオフィエルという名前と共に『理解ビナー』の役割を与えられている。旧人類や地上の監視と世の現象に対する分析を職務としている。

 それに対して、彼はラジエルという名前と共に『知恵コクマー』の役割を与えられている。各所からセフィロトに集まってくる様々な情報の整理を職務としている。


「野蛮な原住民と接触したことで悪影響はありませんか?」

「問題ない。私が彼らに感化されることなどあり得ないことは、君も分かっているだろう。それよりも、何か用か?」


 私は離着陸場から別のフロアへと移動しながら彼との会話を続ける。


「原住民が不老であるということでしたが、その謎は解き明かせそうでしょうか?」

「まだ何とも言えないな。少し考えをまとめてから、各所の専門家に色々と訊いてみる必要があるだろう。そちらは何かあったか?」


「興味深い報告で言えば、海底の調査で沈んでいた未知の都市が確認され、それも徐々に浮上を始めていることが判明しました。どうやら地殻変動が原因かと思われます」

「古代の人々が住んでいた都市が地殻変動を原因として沈んでいた、といったところか」

「そうですね。現在、調査隊が赴いていますので、じきにどれくらい前の都市なのか、分かることでしょう」


 そこで私は自室兼オフィスの前に到着した。それを察知したらしいラジエルは「それでは、あなたからの報告書を楽しみにしています」と言い残して通信を切った。




 私は部屋に入ると、まずは作業用の椅子に腰を下ろした。機械の身体とは言え、各部への負担を考えると常に立ったままというわけにもいかない。

 そこで原住民についてを書き記した日記、自らのストレージに保存したものを宙に展開し、読み返していく。内容や分量ごとにページ分けしており、乱雑に書き記している形だ。

 これを報告資料としてまとめなければならない。保存されている私の体験は全てデータとして送ることになるが、それを簡潔にまとめたものやその場で感じたことや考えたこと、更には改めて考え直したことなどを記した文書というのも大切なのである。


 やはり考えるべきは、彼らが不老であるということについてだろう。それを前提としたならば、違った見方が出来る事柄も出てくる。

 例えば、海と離れた土地に住む彼らがなぜ章魚タコを想像できるのか、という疑問。もし本当に彼らが不老であるなら、遥か昔に海の側からやってきたのかも知れない、と考えられる。

 そのことに気づいた私は、以前に採取した細胞片のDNAを分析し、過去に発見されている旧人類のDNAとの照合を行うように指示した。


 すると、旧アメリカ合衆国の北東部に存在したとされる、インスマウスという港町のあった場所から発見されたものと類似しているとの報告が届いた。

 彼らあるいはその祖先は元々海の近くに住んでおり、何かしらの事情があってあの場所に移住してきたのだ。そこに不老の秘密もあるのかも知れない、と考えたものの、残念ながらその土地に関する資料はほとんど残されていなかった。


 私は取っ掛かりが掴めないまま日記を辿っていると、彼らの発したあの理解できない言葉をまとめたページに至る。神の名前、そして祭りで唱えられていた怪しげな呪文。もしかすれば、これが不老の謎を解く鍵になるのかも知れない。

 彼らが扱う言語の中で明確に浮いており、完全に独立した言葉群。これだけで読み解くことは不可能だと言って良い。何を指しているのかが分からない言葉が多すぎる。意味はないと思いながらも、ふとその一部を読み上げてみる。


「イア、イア、クトゥルフ、フタグン……フングルイ、ムグルウナフ―、クトゥルフ、ル、リエー、ウガ、ナグル、フタグン」


 やはりその意味は理解できず、ただ言葉を発しただけで何かが判明するはずもない。

 と、そこで身体のスリープを求める通知が入った。メンテナンスや各部位の冷却を目的として、定期的に少しの時間、意識の遮断を行う必要がある。それは人間における睡眠とは少し違っており、夢を見ることはない。

 私は部屋内にあるベッドに移動すると、スリープの為に横になった。




 おどろおどろしい緑色の粘液を滴らせながら立ち並ぶ巨大な石材は、禍々しくもどこか洗練されて見える都市の情景を形作っている。壁や柱には人類史上で一度も存在したことがないと断言できるほどに不気味な象形文字が刻まれている。

 更に地下と思しき方向から、けれども不思議とあらゆる方向から届くような、声があった。いや、それも声と呼んで良いのかどうか。明らかに地球上の生物が発する発声とは異なった音が、聴覚ではなく意識へと直接響き渡るように聞こえていた。言葉として理解するのは困難を極めたが、それは、原住民達が祭りで発していた得体の知れない言葉と同じに思えた。


 やがて、地鳴りを起こしながら巨都に現れたのは、その規模感に相応しい巨人。頭足類を思わせる顔からはいくつもの触手が顔から伸びており、胴体にはぬらぬらとした鱗が張り巡らされ、その背には細やかな一対の翼が生えている。

 名状しがたい怪物。あの原住民達が彫ろうとしていた存在で間違いなかった。私はその姿を認識した途端、未だかつてない程に慄然とする。


「っ……!?」


 初めて味わう跳び起きるという感覚と共に、私は急いで自らの精査を行ったが、センサーは一切の異変を示しておらず、何の記録も残されていなかった。にもかかわらず、この意識は確かにあの情景を感じ取っており、覚えているという矛盾。

 身をもって理解させられる。この世には私の浅はかな理解など超越した存在がいるのだ、と。もはやあの原住民の不老を科学的に理解しようとする意味は感じられなかった。このような存在がいるのであっては何が起ころうとも不思議ではない。それはもしかすれば、旧人類の滅びにも無関係ではないのではないのかも知れなかった。


 私が自らの抱いた恐れに支配されていると、程なくして、外で異変が生じていることに気が付いた。どうやら私以外の人々もあの恐ろしいヴィジョンを見たようで、ガンエデン全体で恐慌が巻き起こっていた。

 それは私があの呪文を唱えてしまったからなのか、彼らがあの儀式や信仰を続けていたからなのか、あるいはただ星辰が巡ったからに過ぎないのか、何も分からない。


 一つ言えることがあるとすれば、私達は旧人類を見下しこの星の生命の担い手を気取っていたが、これからより高位で理解不能な存在に蹂躙され、楽園は滅ぼされることになるのだ、ということ。それはもはや確信と言って良い予感だった。

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