第22話 助手くん

 

「はーい、お茶どうぞ。シロちゃんは白湯ね」

 

 僕とお父さんが不毛な問答をしている内に、紗枝さんが途轍もなく香りのいい紅茶を入れてくれた。

 カップもポットも見るからに高級そうで、気後れしつつも一口飲めば芳醇な——いや、正直僕の舌では紅茶の違いなんてよく分からなかった。


 それでも心は落ち着くもので、場の空気は間違いなく和やかさを取り戻した。

 優雅にカップを傾けた後、お父さんは真っ直ぐとこちらを見据えながらハッキリと宣言する。


「まとめるとだな。ぽっと出の貴様は知らないだろうが、我々はシロちゃんのRTAに全面協力体勢だ。それに付随する諸問題も、可能な限り許容するだけの覚悟がある!」


「なるほ……諸問題扱い……」


「そういうのわざわざ言わなくて良いから、パパ」


 紗枝さんもそうだが、すごく強い人達だ。推し量るまでもなく、これほど愛する娘を失う未来が宣告されているのにどうしてこんなに“普通”で居られるのだろう。

 今も僕は千早さんの前に並ぶ一回分の錠剤の量に胸を締め付けられているというのに。

 

「ひーふーみー……あっ、一個上に置きっぱだ。取ってくるっ」

 

 千早さんは軽い足取りで部屋を出て、ゆっくりと階段を登っていく音が聞こえる。

 彼女が居ない隙に、念を入れるためにお父さんに一つ確認を取るために問いかける。


「自分で言うのもアレですが、やっぱり娘さんと二人きりで、お父さん的に色々不安ではないですか……? その、ご病気のこととかもありますし」


 “ハグ一つであんなに取り乱していたし”という部分は何とか喉元に留めた。

 問いに対してお父さんはやれやれと言わんばかりに首を横に振ってから答えてくれた。


「愚問だな。俺は娘を信頼している。そして娘は、忌々しいことに、君を信頼した。ならば俺がその件に関してはとやかく言うことは無い。病気の方も、こちらにも色々備えはある。あとお義父さんと呼ぶな! わざとか貴様。これからは修治で良い」


「では、修治さんと……えっと答えてくれて、受け入れてくれて、ありがとうございます」


 気にかかることはあるが、ここまで断言されると僕の悩みは本当に杞憂だったのだと理解させられた。なんというか、とことん僕は千早家に色々な意味で敵わない。


「それに、シロちゃんの目標の為に速水クンが必要なんだろう?」


 その問いかけはちょうどリビングに戻ってきた千早さんに向かってのものだった。とても柔らかい語調だ。

 千早さんは話を飲み込むのに一瞬間をおいてから、満面の笑みで答えた。


「うん。もう私、悠生くん無しの人生は考えられないくらい!」


「えっ、千早さん、その言い方はちょっと」


 おそらく予想外の回答だったのだろう。千早さんを見る修治さんの横顔が一瞬で複雑に歪みそうになって持ちこたえたのが分かった。紗枝さんは今日一番の笑顔で「あら大胆」とか言っている。


「一応、一応確認しておこうかな。うん。シロちゃんにとって速水クンはどういう存在なのかなぁ……パパ気になるなぁ」


 それは祈りを込めたような震える声だった。そして僕の方も、彼女の回答に今後が左右される可能性があるという緊張が走る。


「えー? 前は相棒になってって言ったけど、それもちょっと違うかもって感じなんだよね。んー、私の走りを助けてくれる……あっ! “助手くん”がピッタリな言葉かも」


 助手くん。

 確かにこの関係性を表すのにはこの上ない言葉かもしれない。実際にやっていることもまさに助手のイメージにぴったりだ。

 それなのに、何故か僕の胸はモヤモヤとした感覚が生じた。


 お父さんが嬉しそうに何かを言おうと口を開けた瞬間、彼のスマホが着信を告げた。

 ワンコールで応答するその声と表情は先ほどまでと一転して真剣そのものだった。


「すまない。急患だ。——よし助手くん。これからもその調子で、その距離間で! 娘のこと、よろしく頼んだぞ。もちろん結果次第では賞与も辞さな——」


「もーパパ、お仕事なんでしょ? 早く行きなよ。悠生くんも困ってるじゃん」


「ああ、シロちゃんそんな押さないで……とにかく、距離感だぞ! 距離感を——」


 修治さんはそのまま千早さんに背中を押されて、締め出されてしまった。存外雑な扱いだがその気安さがなんだか微笑ましい。

 父を見送った千早さんは「全くもう」と呆れ半分な笑顔で戻ってきた。


「修治さん、悠生くんのこと相当気に入ったみたいねー」


 突然、紗枝さんがそんなことを言い出して、思わず口に含んだ紅茶を吹き出しそうになってしまった。


「えっ!? 全然そんな風には……むしろ煙たがられていたような」


「パパが家族以外の前であんなに感情剥き出しにするの珍しいよ。最初のはビックリしたからだとしても、途中から凄く砕けてて楽しそうだった」


 そうだっただろうか。全くわからなかった。

 さすが家族、ということなのだろうか。実感は全く湧かないが、自然と頬が緩みそうになってしまう。


 それを誤魔化すように残った紅茶を飲み干す。底の方は味が濃くて少し咽そうになってしまった。


「悠生くん、せっかくだし泊まってく? 私は今日もうゲームできないけど、デビソ全クリするまで帰れまてん! とかなら付き合うよ」


「あー、魅力的な提案ですけど明日から学校ですし、僕もそろそろお暇します」


 さすがに泊まりは色々な意味でハードルが高い。

 千早さんの休憩中などにデビソは地道に進めているがあのペースだと徹夜は確実だろうし、明日何も無かったとしても少しシンドイ。


「えー、まぁ仕方ないか……ふぁあ、私もさすがに眠いし」


 渋々だが、納得してくれて安心した。彼女の為にも今日はお互いゆっくり休むべきだろう。あれだけの集中力を保つのは並大抵な事ではない。


「紗枝さん、晩ご飯美味しかったです。ごちそうさまでした」


「うふふ、お粗末様でした。いつでも遠慮なくご飯食べてってね。ほらシロちゃん、玄関までお見送りしてあげて。ママはお風呂の準備しないと」


 言いながら紗枝さんは茶器類を下げ始めた。手伝おうかと思ったが、下手なことをして高級品をダメにしたらと思うと言葉が引っ込んだ。


 大人しく帰ろうと席を立ち、千早さんと共に玄関まで出たところで、それまで妙に静かだった彼女が不意に声を掛けてきた。


「助手くん——って言ったとき、ちょっと残念そうにしてたでしょ」


「そ、んなこと……ないですよ」


「イヒヒ、嘘下手すぎ。パパの前だから言えなかったけどね——」


 次の瞬間、何か甘い香りと共にトンと軽い衝撃が身体に響いた。再び彼女が抱きついてきたと理解するのにさほど時間は掛からなかった。

 だが計測後の時と違い、今度は頭を胸に押し付けたり、力いっぱいに腕を締め付ける衝動的なものではなく、静かで優しい抱擁だった。


「君はもう私のだよ。悠生くん」


 耳元で囁かれて、全身にむず痒さが広がるのを感じる。心臓が跳ね回って騒々しい。耳から頬にかけて熱が広がっていき、何を言われたのか理解した頭は茹だるようだった。


「なっ……千早さん!?」


「顔赤すぎっ。初心なんだー」


 そう言って悪戯っ子のように笑う彼女の頬もまた、朱に染まっていた。

 ああ、ほんとうに敵わない。

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