第2話 ゆっくりしていってね


 外に出ると空一面を薄雲が覆っていた。なんとなく朝よりも曇り空がどんより重たい気がする。それが妙に気になって思わず溜息が漏れそうになるが、なんとか堪えた。


「いやはや、話が早くて助かるよ。勇気を出して声を掛けた甲斐があったなー」


「あの、“頼み事”が内緒なのは良いんですが、どこに行くかは教えて貰えませんか」


 校門を抜けてから心なしか上機嫌に前を歩く千早シロは淀みなく僕の通学路と同じ方向へ曲がった。「とにかく付いてきて」とだけ言われた僕は今、彼女の三歩後ろを歩いている。

 彼女を刺激しないように慎重に尋ねた声は自分でも驚くほど弱々しい。彼女の持つ底知れない雰囲気にすっかり飲まれてしまっている。


「すぐ着くよ。ところで速水君、今から私が言う事に誤りがあったら言ってね」


 答えになっていない答えと共にそう前置きすると、彼女はこちらの返事を待つことなく問答無用で続けた。


速水悠生はやみゆうせい、十六歳。男。誕生日は十二月五日で生まれも育ちもこの街。父母妹と四人暮らし、血液型A型の身長ひゃくなな——」


「ちょ、ちょっと待ってください! いったい何ですか!?」


「何って、君のステータス。まぁ確かにここは不要な部分ではあったね」


 全身が総毛立った。なぜ僕の素性を調べている。なぜ悪びれもせずそれを披露する——考えたところで、全く意味が分からない。

 見た目、雰囲気、喋り方……全て普通ではないと思っていたが、僕はやっと本当の意味で千早シロという存在に警戒心を持った。

 当の本人はこちらの心情の変化など気にする様子もなく、後ろ歩きでじっと僕の顔を見つめながら続ける。


「特記事項は学力と授業態度。昨年から全ての定期考査で一位。真面目で教師からの評判も良く、友人は少ないながらも良好な人間関係を築……ここも今は良いか。とにかく! 君が非常に優秀な人間で、おそらく人間、ということが大切なんだ」


「素養……? 一体、なにをさせる気ですか」


 何やら認められているのは分かるが、その意図がまるで読めない。

 彼女が僕に何をさせようとしているのか——思い浮かぶのは碌でもない事ばかりだ。これは彼女への現時点での印象に引っ張られているところはあるだろうが、この回答次第では脇目も振らずに逃げ出さなければならない。


「それは実際に見てもらった方が早い。ただそうだな、“真面目な君がきっと知らない楽しいこと”、とだけ言っておこうかな。きっと新しい知見を得られ——おっ、丁度目的地に到着だね。お喋りをしていると時間があっという間だ。いい気付きを得た」


 ほとんど一方的に喋っていただけだろう、という言葉がすんでのところまで出かかった。

 回答自体も微妙に濁されて判断ができない。依然として怪しさもあるが、不思議と何の裏もない純真な言葉にも聞こえた。

 そして何より判断を鈍らせたのは、彼女が指差す建物がどう見ても普通の一軒家で、表札に“千早”の文字が刻まれていることだ。


「えっと、千早……さんの家ですか」


「そうだよー。ふぅ、喋りながらだったから疲れちゃったな」


 なるほど道理で見覚えがあると思ったが、我が家から徒歩五分圏内だ。


「さすがに家はちょっと——」


 言いかけた時にはもう彼女は片手で顔を仰ぎながら玄関の鍵を指し捻っていた。

 そのまま開かれる扉の先に真っ直ぐ伸びている薄暗い廊下がやけに長く見える。


「遠慮はいらないよ。さ、どうぞ」


 初対面の同級生、しかも異性を家に招くなんて普通じゃない。そしてそのどう考えても普通じゃない人間の家に招かれるまま入るなんてのも正気の沙汰じゃない。

 

 ——でも、千早シロへの好奇心が無いと言えば嘘になる。


 教室で彼女の姿を見た瞬間、そして声を掛けられたとき、確かに僕の心は揺れたのだ。

 頭の中で恐怖と興味がせめぎ合ってぐちゃぐちゃだ。


「お邪魔、します」


 だからこれは正常な判断ではなかったと思う。何かに突き動かされるように体が動いたとしか言いようがない。

 それでも不思議と後悔の念は湧いてこなかった。


「いらっしゃい。ゆっくりしていってね」


「……用が済んだらすぐ帰りますよ」


「えー、ノリ悪いぞー」

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