ガールミーツ──

  アクロは、少年のまっすぐな優しさに触れ、心に抱え続けてきた苦しみから、解放された気がした。

 

──自分は迫害ハクガイされ続けるだけ──

 

 ずっと──そう思っていた──。

 それほど、ヒドい扱いを受けて来たのだ。

 

──知ったような口を聞かないで──私の……何が分かるの……?──

 

 誰かが手を差し伸べてくれたとしても、そう言えるつもりでいた。

 だが、言えなかったのだ──。

 世界に対して無知な少年の──素直な言葉──。

 だからこそ、信じられたのか──。

 その、まっすぐな視線と、言葉に、反発することができない──。

 何故か信じられると──心が──そう感じる──。

 その優しさを──何故か──自然に受け入れてしまう──。

 出会いの形が良かっただけの偶然か──出会ったばかりの異種族の少年の事が、無性に、気になり始めていた──。

 もっと深く──知りたいと──。


「ねぇ、黒猫さん? 今度はあなたの名前を、私に教えてくれないかしら……?」

 

 少女がそう尋ねると、少年は、何故か一瞬、視線を落とす。

 

「僕には名前が無いんだ。ナナシさ──」

 

 少しを置いて──悲しそうに微笑むと──少年はそう答えた──。

 

──名前が無い──

 

 アクロは両手で口を塞ぎ、息を呑む──。

 

──〝ナナシ〟──


──そんな悲しい事があってはならない──


 そう、思った──。

 

猫人国ネコノヒトノクニでは、全身、黒毛に生まれた者は皆、一括りにナナシと呼ばれるんだ。猫人ネコノヒトの掟で、たとえ親であっても、その子供に名前を与えることは、決して許されないんだ。この国では、黒猫人クロノネコノヒトは、昔から不吉の象徴ショウチョウとされていて、み嫌われているから──」

 

 ナナシが、そう淡々と語ることが、アクロにはたまらなく、悲しい──。

 

「──ナナシは普段、この暗い森の中で自給自足で生活している。猫人ネコノヒトの町に立ち入る事は許されていない。時々、町の中で誰も受けたがらない様な危険な仕事や汚い仕事があると、町から此処へ役人がやって来て、その仕事を引き受ければ、特別に町の中に入る事を許可されて、仕事の報酬としてお金を貰える。その日だけは、町の中での買い物も許可されるんだ──」

 

 アクロの視界が、涙で波打ち、ボヤケていく──。

 

「──この社会では──僕、……は──仲間達とは暮らせない……ルールなんだ──」

 

 アクロは、ナナシが少し、言葉を詰まらせた事が気になった。

 

「僕は──? 他の──ナナシさん達は──?」

 

 アクロはそう質問を続ける。

 

「──今はもう──ナナシは僕、一人なんだ──」

 

 その言葉を聞いて、アクロは再び言葉を失う──。

 

「──ナナシを産んでしまった場合、その両親は、子供が五歳になるまでの間だけ、町の中で面倒をみる。ナナシはその間に最低限の生きる方法を両親から学んで、その後は森のナナシと一緒に生活する。両親は子供の事は忘れて、そのまま町の中で新たな暮らしを始める。それが、この国の掟で、正しい在り方なんだ……」

 

 ナナシは表情を変える事なく、流暢に説明を終えた。

 

「──だから、ほとんどのナナシは十歳を迎える事が出来ない……。大人になると国を出て行く者も多くて、元々、僕みたいに、ナナシじゃない両親から産まれること自体が珍しいから……ここでは徐々に数が減っていった……」

 

 そう言うと、ナナシは天井を仰いだ──。

 

「──猫人にとっては、ナナシが生きようが死のうが──関係ないんだ……」

 

 ナナシは瞳を閉じて、そう、小さく呟いた……。

 

「ムウゥ……」

 

 アクロの目から、涙が溢れる──。

 アクロも、ナナシと同じ様に迫害され、ツラい経験をして生きて来た。

 だが、決して恵まれた生まれではなかったが、優しい両親が傍らにいて、そのような理不尽リフジンオキテなどは無かった──。

 ナナシは、自分よりもハルかにツラい環境で、一人で生きている──。

 

「実際──僕の父親は僕が五歳になった時──迷わず僕を捨てようとした。それまでもずっと、自分の子供を見るような目じゃ無かった。気味悪がって……怖れる様な目で……僕の事を見てた……。小さかった頃は──いつも怒鳴られて、殴られて──」

 

 ナナシは中腰で立ち上がると、身体中の至る所に手でれ、そこを目で示しながら、話しを続けた──。

 

「──だけど、母さんだけは違ってて──いつも僕の為に泣いてくれていた。ごめんね……。ごめんね……。って、そう言いながら──優しく抱き締めてくれた──」

 

 ナナシはそっと目を閉じ──微笑んだ──。

 

「──本当に、愛してくれていたんだ──」

 

 目を開くと、ナナシは確信めいた眼差しで、そう言い放った──。


「五歳になった時に、僕を捨てようとした父親に母さんは怒って、喧嘩の末に、二人は別れた。父親が今、何処ドコで、何をしているのか、生きているのかも知らないし、興味もない──」

 

 無表情のまま、淡々とナナシは語る。

 

「──それから十歳になるまで、母さんはこの森の中に一緒に住んでくれて、僕を育ててくれた。母さんには、本当に感謝している。母さんがいなければ、ほとんどのナナシと同じように、僕は子供の時にはもう……死んでいたと思う……」

 

 ナナシはそう言うと、ウツムき、両手を強くニギめた。

 

「それで──お母様は……今は何処に……?」

 

 アクロは両手を胸に当てながら、恐る恐る尋ねる。

 

「──母さんは……過労がたたって──病気にかかって、死んだよ……」

 

 ナナシは床を見て、そう答え、唇を噛んだ。

 アクロは胸元で両手を握り、顔をせる。

 

「こんな森の中でも、小さかった僕に──不自由な生活なんてさせたくない──って、そう言って……無理してたんだ……。母さんはナナシでは無かったけど、猫人ネコノヒトの掟を破ってこの森の中で生活をする様になれば、町の猫人ネコノヒトからは仲間扱いはされなくなる。キツイ仕事、汚い仕事──母さんも、町の中でそれ迄していたような普通の仕事は出来なくなるんだ──」

 

 ナナシは再び椅子イス腰掛コシカけると、ヒジヒザの上に乗せ、両手を顔の前で合わせて、話しを続ける──。

 

「──自給自足ジキュウジソクの生活だけなら、なんとかなる。でも、母さんは僕に、町の中と同じような、普通の生活をさせようとしてくれて──」

 

 ナナシは両手で頭を抑えてうずくまる──。

 

「──少しでも……森の中でも勉強をできるようにって! 町の子供達と同じように、しっかりと食べられるようにって! 僕の将来の為に、お金を貯めなきゃって!」

 

 ナナシはコブシヒザタタきながら、強い口調クチョウで話す──。

 

「──そう言って……。そんな生活──僕には無理に決まってるのに……。母さんがいなくなってから──隣に一人で住んでいた、小さい頃から僕の事を可愛がってくれていたナナシのおじさんと、一緒に助け合って生活して来た。でも、そのおじさんも数年前に亡くなった……」

 

 ナナシの声は、もう消えてしまいそうなほど、弱々しい──。

 

「黒猫さん!──もういいわ!──ごめんなさい……悲しいお話を──させてしまって……」

 

 二人はそこで言葉を失い、音を無くした時間が流れた──。


「あのね! 黒猫さん! あなたと私が出会えた事は──運命かもしれないわ──!」

 

 突然──アクロが力強く口火を切る。

 

「運命って……大袈裟だな……。そんな気を使って、笑わそうとしなくても大丈夫だよ──アクロは優しいね……。ありがとう──」

 

 ナナシは笑いながら──そう返した。

 

「──ずっと──胸の奥に──一人で抱え込んでいた気持ち──初めて、誰かに打ち明けられた──。なんだか、今は──とってもスッキリした気分なんだ──」

 

 ナナシはそう言うと、アクロに優しく微笑む──。

 

「違うの──黒猫さん……私とあなたは──なんだか……とても似ているの──これはきっと……運命よ──」

 

 アクロは目を輝かせ、身を乗り出すようにして訴える──。

 

「──運命──か……。良いね──それは素敵だ……」

 

 ナナシはそう答えると、四角い窓から外を眺めた──。

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