SEREN ─ IS A EX-NAMELESS BLACK CAT ─ [旧題 黒猫のセレン〜約束の旅〜]

アクロ

　少女が口を閉ざしてからしばらくの間──沈黙が続いた後──徐ろに少年が口を開く──。

「ちょっと……待っててね──」

　そう言うと、少年は腰を曲げたままの状態で、ゆっくりと立ち上がった。

　先程、少女の感じたように、少年の身体の大きさでは、この家は小さ過ぎるようだ。

──気をつけて立ち上がらなければ、天井に頭をぶつけてしまうだろう……。何故、こんな小さな家で暮らしているのだろう……？　彼は一人で暮らしているようだが……近くに誰か他の住人はいるのだろうか……？──

　少年の事が気になり、色々と考えている内に少しずつ、少女の思考は現実と向き合い始めていた……。　

　少女の目の前で、少年の腰の辺りから伸びる長い尻尾（シッポ）が、クネクネと動いている。

──ちょっと……カワイイかも──

　気がつけば、そんな事を考えられる位には、少女も気持ちの落ち着きを取り戻したようだ。

　一度、家の外に出た後に、少年はまたすぐに戻って来た。

「熱はだいぶ下がっていたみたいだったから、そろそろ、目を覚ますんじゃないかな……？　と思ってたんだ……」

　少年は右手に二人分のお椀（ワン）とスプーンを重ねて持ち、左手には木の蓋をのせた湯気（ユゲ）の立つ鍋を、お玉と共に握（ニギ）ってぶら下げている。

「君の身体……かなり痩（ヤ）せ細っていたから……。当分、何も食べられていないんでしょ？　ほらっ、ちょうど夕飯が出来た所なんだ……。一緒に……食べよう……？」

　そう言って、少年は机に鍋を置くと、お椀（ワン）に鍋の具をよそい始める。

　木の蓋（フタ）を開けた瞬間（シュンカン）、野菜の甘い香りが小さな家中に充満（ジュウマン）し、少女の口の中は瞬時に唾液（ダエキ）で満（ミ）たされ、お腹が小さなホールで大合唱をしていた。

「お肉は入っていないけれど、鶏の卵に大豆、芋、カボチャ、トマト、他にも野菜たっぷりのスープだよ！　食材は全部、僕の自家製さ！」

　そう言うと少年は、大盛りに具をよそった方のお椀を少女に手渡す。

「あっ……あたたかい……。あのっ……あっ……ありがとう……」

　感動のあまり、少女は目頭（メガシラ）に涙を浮かべ、声を震（フル）わせながらお椀（ワン）を受け取った。

　だが、すぐにはスープに手を付けずに、それをじっと見つめている。

　頭の中で、この一年余りの苦しかった日々の記憶が、走馬灯（ソウマトウ）のように駆け巡っていく……。

　少女の心は、突然現れて目の前に立っている黒猫人（クロノネコノヒト）の少年の優しさで、すでにお腹一杯になっていた。

　そうとは知らず、この心優しい少年は、止まったまま動かなくなった少女の立場を想像して、少し焦りだす。

「あっ……！　え〜っと……大丈夫だよ！　見ててっ！」

　そう言うと、慌（アワ）てて自分のスープを、一気に口の中に掻（カ）き込んで、飲み干（ホ）してみせた。

「全然！！　何も変な物とかは入っていないよ！　そんなに！　警戒しなくても、大丈夫だよ！？」

　あたふたとしている少年の姿を見て、少女は目を細めて、クスリと笑う。

　嬉しい感情と、可笑しいと思う感情が合わさって、少女の目からは一雫、安堵の涙がこぼれ落ちる。

「ムウゥ……」

　少年の顔を見て微笑むと、少女はスープを一気にたいらげた。

「ムウゥ〜！」

　どうやら、これは少女の口癖のようだ。

「おいしい〜！　あの……おかわり……もらえる……？」

　少女は元気に叫んだ後、空になったお椀を少年に見せると、恥ずかしそうにそう言って、少年に満面の笑顔を見せた。

「うんっ！　おかわり！　どうぞっ！」

　少年も嬉しくなって、大きな笑いがこぼれる。

　出会ったばかりの二人の間に、今、小さな絆が生まれた。

　机の上には空の鍋とお椀が二つ、どうやら食事を共にして、二人は完全に打ち解けている様子だ──。

「君は外の世界の種族だよね？　僕、猫人（ネコノヒト）以外に出会ったのは初めてだよ。僕はこの国の中の事以外は何も知らないんだ……。世界にはどんな国があって、どんな種族がいるのか？　どんな物があるのか？　食べ物とか文化とか……。正直、この国の中の物事ですら、知らない事が沢山あるんだ……」

　少女はとても不思議そうな顔をして、少年の話を聞いている。

「教えて！　君は、何ていう種族なの？」

　少年はどうやら、少女と彼女がやって来た外の世界に、興味津々（キョウミシンシン）の様子だ。

「ヒト……」

　少年の質問に、少女は短くそう答えた。

「ヒト……？　何ヒト？」

　少年は目を点にして首をかしげ、今度は少女の方にしっかりと耳を傾けて聞き返した。

「ヒト、ヒ、ト、二文字で種族の名前よ」

　口に両手を当てて、少年の耳に近づけ少女は答える。

「本当に！？　凄い！　面白いな！　ヒ、ト、それだけが名前の種族がいるんだ！」

　少年は手を叩いて、納得している様子だ。

「君みたいな、頭に白くて長い綺麗な毛を持つ種族は初めて見たよ！　身体には毛が生えていないし、肌の色は褐色だし！」

　少女は目を見開いて、少年を見ている。

──どうやら、本当に何も知らないようだ……──

　少年の、大きな声で興奮した様子を見て、少女はそう理解した。

「違うわ……。普通、若いヒトは、こんな白い髪を持ってはいないの……。これは……私だけが特別なの……病気、みたいなものよ……」

　少女は少し辛そうな顔をして、うつむきながら呟（ツブヤ）く……。

「そうなの？　その病気って、どんな病気？　今、身体は大丈夫かい！？」

　少年は心配になって、前のめりになりなって質問をする。

「別に……。ただ髪が白いってだけ。身体には……別に問題はないの。身体……にはね……」

　少年は、少女の詰まらせた返答が少し引っかかり、気になった──。

「普通、ヒトの髪は歳を取るにつれて白くなり、抜け落ちて減っていく。髪が黒いヒト、赤茶色や黄色いヒトもいるわ……」

　少年は未知の世界の話に、目をキラキラと輝かせている。

「凄い！　いつか……僕もヒトの国に行ってみたいな……」

　少年は開いた両脚の間から椅子の縁を両手で掴み、瞳を閉じて想像し、微笑む。

「それと、もう一つ……説明不足だったから言っておくとね……」

　少女はそう言ってから、次の言葉を言い淀（ヨド）んだ……。

「私はヒト、だけど……私みたいな黒い肌のヒトの事は、クロノヒト……って言うの。普通のヒトは、もっと白っぽい肌の色をしているの……」

　少女は先ほどから、下を向いて、暗い声で話している。

「凄いな！　世界には知らない事がいっぱいある！　ヒトにも色々なヒトがいる。素敵だね……」

　少年は何となく、少女の事情に気づき始めていた……。

「私なんて！　ヒトの世界では醜い見世物よっ……！」

　少女は突然、顔を伏せ、目を閉じ、両手を強く握りしめ震わせ、声を荒らげる。

「違うよ……？　僕は……君の白い髪と褐色の肌……どちらも、とても美しいと思う……」

　少年は、まっすぐな眼差しで少女を見つめ、微笑む……。

──この少年は自分に同情しているのか……？──

　少女は顔を上げ少年の方を向く。

「突然……何よ……」

　そう言って睨みつけ、少しムッとした表情をする。

「森で初めて君を見つけた時、君がとても綺麗で、僕は言葉を失った……。すぐに助けないといけない状況なのに……一瞬──立ち尽くして……倒れている君に見惚れちゃったんだ……」

　真剣にそう言うと、少年は頭を掻（カ）きながら、笑った──。

「あなた……馬鹿なの……？　恥ずかしくないの……？」

　少女は、両手で胸を抑える。

「少なくとも、僕が知っている世界で一番、綺麗なヒトは──君だよ──」

　少女の頬は、とても甘い桃のように紅潮した。

「やっぱり……馬鹿ね……」

　少女はそう小さくつぶやく。

「僕は君の事、大好きだよ！」

　少年は満面の笑みで言い放つ。

「……」

　少女は少年の顔を見つめたまま、固まって動かない。

「君はとても綺麗だよ？」

　少女は少年の無垢な眼差しを、何故か……とても美しいと感じた。

「ありがとう……。うれしい……」

　少女は手の平で顔を隠してうつむき、もにょもにょと、とても小さな声で返す。

「まだ、君の名前……聞いてなかったね……？」

　少年は少女に尋ねる。

「アクロ……。アクロ・イレイナ……」

「よろしくね──！　アクロ──！」

　少女の名は──アクロ──。