第54話 懺悔

「山崎さんが……? 襲われた高校生のお父さん?」


「はい……」


 声はかすれていた。


「庭林さんは娘の智子ともこが男に襲われたところを偶然見つけてくれたのです……」


「そうだったんですか……」


「私が、私が……、あの日、仕事で遅くなったあまり……、こんなことに……」


 コーヒーカップを握る手が、かすかに震えているのが見えた。


 話によると、娘を男手一人で育てているということだった。

 刑事という職業柄、生活が不規則になるのは避けられなかったことだろう。その罪悪感が彼の表情に刻まれていた。


「私は何があったのかを智子から聞き、兎にも角にも彼女を休ませました。それから庭林さんを家に招き入れ、さらに詳しく事情を聞きました。彼は本当に娘の命の恩人でした……」


 元刑事は、遠い記憶を辿るように目を細める。


「庭林さんは、男を殺してしまったと私に焦った様子で告白しました。私が刑事であることを明かすと、彼はすぐに出頭したい旨を告げてきました」


 山崎さんは二度三度と頷く。それは庭さんの行動が倫理的に正しいことを後押ししているように見えた。


「その時の時刻は、深夜の3時頃だったと思います。公園に放置してある死体が見つかるのは時間の問題です。私は、彼を落ち着かせることに務めました。出頭するのを思いとどまらせようとしたのです」


「それは……、どうしてですか?」


 警察に事情を説明するのに、早いに越したことはない。

 確かに相手を絞め殺してしまったのかもしれないが、他人を助けた場合でも正当防衛は成立すると聞いたことがあった。


 僕がそう伝えると、山崎さんは「仰るとおりです」と力なく頷いた。


「その場合、被害にあった者の証明が必要になります。つまり……」


 山崎さんが小さく呻く。


「娘の智子の証言です」


「証言……」


「それと必要に応じて、負傷状況の医療記録なんかも求められるかもしれません」


 山崎さんが話を続ける。


「実は、以前私が担当した事件の中に、ある強姦事件がありました……。被害者は22歳の大学生でした。寝てる間にアパートの窓から押し入られて暴行されたのです。

 多くの証拠から犯人はすぐに捕まりました。ですが、犯人は侵入は認めましたが、暴行は認めませんでした。性犯罪は証拠に乏しい事件が多いものです」


 元刑事の表情に苦痛が浮かんだ。


「強姦における刑事裁判では、被害者が実際に法廷に立って、その時の状況を説明しなければならない場合があります。特に加害側が加害事実を認めていない場合は、被害者の証言に頼らざるを得ません。

 この時の女性被害者の心理的負荷は、想像を絶するものとなります……。何度もトラウマになるような体験を思い起こさないといけません」


 僕は無意識に拳を握り締めていた。被害者を二度傷つけるような仕組みに怒りが込み上げた。


「最終的に裁判所は被告人に有罪判決を下しました。しかし……、被害者の女性は、裁判のプロセスで受けた精神的ダメージから立ち直れず、大学を中退し、長期の心理療法を受けることになりました。

 私たちは犯人を捕まえ、裁判で勝訴しました……。ですが、被害者を守ることはできなかったのです」


 雨に消え入るような声だった。


「私は、娘を司法の場に立たせたることだけは、絶対に避けたかったのです……。このままではそうなる可能性がありました。私は、庭林さんに懇願しました。どうか出頭することだけはやめてほしいと」


 山崎さんの表情には、父親としての苦悩と刑事としての葛藤が混じっていた。


「それに、もしこの事件が、社会的関心が高くなった場合、被害者特定に繋がりかねない危険性もあるわけです。そうなったら、性被害を受けた者は、いわれのないそしりを受けることもあるのです」


 心が痛んだ。山崎さんの葛藤がひしひしと伝わってくる。


「職業倫理に反していることも重々承知していました……。ですが、ですが、私は父親として娘を守らなければならなかったのです……!」


 急に思い浮かんだのは、敬三の横顔だった。

 自分でも意外だった。

 正直、これまで彼に対してあまり思いを馳せることしなかった。事件の関係者の一人としか捉えていなかった。

 だが今は、父親としての彼の姿が、痛ましいほどに人間味を帯びていた。

 想像の中の疲れた横顔が、どこか元刑事と重なった。


 山崎さんは過去を思い出すように目を閉じた。


「私は庭林さんから事件の詳細を聞きました。公園の入口に防犯カメラが付いていることは知っていました。被害者の男が入る姿、そのあとに庭林さんが入る姿は映っていることでしょう。

 私は頭の中で状況を整理しました。その日の庭林さんの格好は、ダウンジャケットにニットとマスク。個人の特定は難しいと判断しました。

 娘は裏口から引きずり込まれて、裏口から出ていきました。暴行現場も表入口から離れた場所です。公園裏口にはカメラは設置されていません。つまり、娘の姿は一切カメラに映ってないはずです」


 元刑事の目が鋭く光る。

 彼なりに全ての可能性を考慮し、希望があるかを模索したのだろう。


「私は情報を勘案し、庭林さんが、特定される可能性は極めて低いと踏みました。それが分かると、改めて彼を説得しました。娘を守るために、お願いだから出頭することだけはやめてほしいと、そう懇願したのです。

 それでも、庭林さんは憂いていました。殺してしまったであろう男に対する罪悪感です」


 僕の脳裏に、肩を落とす庭さんの姿が浮かぶ。


「私は、暴行するような男に同情する必要などありませんと鼻息荒く説得し続けました。庭林さんがようやくそれに応じてくれたのは、夜明け前でした……」


 山崎さんの表情が和らいだように見えた。当時のことを思い出したのかもしれない。

 だが言葉の端々には葛藤や自責が滲んでいた。


 店内に沈黙が広がる。僕は山崎さんの手元を見つめていた。ゆっくりとカップが揺れ、コーヒーの表面に小さな波紋が広がる。

 彼の言葉を待った。


「……私は、庭林さんが着ていたダウンジャケットを預かり、代わりに自分のコートを着てもらいました。そうして、急いで車で庭林さんを自宅まで送り届けました。道中、私たちは殆ど言葉を交わしませんでした。

 それと入れ違うように、早朝、例の公園には多くの人だかりができていました」


 雨音が響く店内で、重い告白が続いていた。

 窓の外を見ると、時折通りを走る車が水しぶきを上げ、その軌跡が一瞬の光を反射して消えた。


「それから、庭林さんとは折に触れて会合の機会を設けました。私は、件の事件の担当ではありませんが、可能な限り進捗を探っていました。それを時々彼と共有していたのです」


 山崎さんは複雑な表情を見せて言った。


「殺された東京桜雲大学の若者に対して、世間は同情的でした。その度に私は、本当はただの暴行犯だと毒づきました。正直言うと私は、警察が庭林さんに辿り着くのではないかと、いつも心配していました」


「警察が……、辿り着く?」


 山崎さんがテーブルに視線を落とす。


「公園は住宅街にあり、周辺の防犯カメラに庭林さんが映っている可能性がありました……。ですが、1992年当時、一般家庭への防犯カメラの普及率はまだまだ低く、また庭林さんの歩いたルートが裏道だったため、警察は公園以外での彼の足取りを掴めませんでした。ほっとしたものです」


 山崎さんは一旦言葉を切り、深いため息をついた。


「私は何度も何度も庭林さんに感謝を伝えました……。娘の人生……、そして私の人生は、庭林さんの犠牲の上に成り立っている言っても過言ではないのです……」


 山崎さんには涙が光っているように見えた。


「庭林さんは私にこう言いました。『もし私が山崎さんと同じ立場なら、娘を守るために同じ行動を取ったかもしれません』と……。庭林さんは、自分の人生が面倒なことに巻き込まれているにも関わらず、私なんかにまだ配慮をするのです」


 山崎さんは話しながら、時折、嗚咽し、震える手で目頭を押さえた。


「その時から、私は庭林さんのためなら何でも力になろうと心に誓ったのです」元刑事は鼻をすすり上げた。


 元刑事が、これほどまでに庭さんに協力する理由がようやく判明した。


「娘はその後、重いPTSDを抱え、高校を退学しました……。私は警察の職を辞し、娘を伴って、祖母が住む香川へと引っ越したのです」


 僕は感情の焦点が合わないでいた。

 胸の中で何かが渦を巻き、出口を見つけられずに行場を失っている。

 庭さんと山崎さん。ただ、二人の重い葛藤が、僕の中に、重く沈殿していくだけのようだった。


 息苦しささえ感じていた。何かを言わなければと思うが、何も思いつかない。


 キヨの手帳の言葉が脳裏をよぎった。


 間違いない、あの事件の犯人だ――。


 キヨのいう「事件」はこのことだったのだろう。

 五年経過してもなお、東京桜雲大学生通り魔殺人事件は未解決のままだ。


 キヨだけが知っている。

 ダウンジャケットの男と、最御崎寺の駐車場でバス遍路に話しかける男が、まったく同じ歩き方をしていたのを。


「森沢さん」


 ハンカチで目元を拭っていた山崎さんがこちらを見る。


「庭林さんの小説に『懺悔』というのがあるのをご存知ですか……?」


「ええ……」


 そう頷いて、反射的に小説の内容を頭に描いた。


「もちろん知っていま――」そこまで言葉を発した時、雷が落ちたような衝撃が全身を走り抜けた。


「ああ……っ!」


『懺悔』は、男に襲われていた女性を助けようとして、誤って犯人を殺してしまった主人公が苦悩する物語だ。

 あの痛々しいほどリアルな描写に僕は惹かれた。

 偶然なはずがない。この類似性が。


「あれは……」言葉が喉につかえる。


 あそこに書かれていた懺悔は、


「庭さん……」口からくぐもった声が漏れた。


 僕は行方不明になった庭さんに思いを馳せる。

 どうしようもなく、居ても立っても居られない気分だった。


 小説『懺悔』では、 物語の最後、主人公の男は自殺を遂げる。


「あの……、山崎さん」僕は声を震わせながら尋ねた。


「庭さんは今、どこにいるのでしょうか?」


 テーブルに手をついて、無意識に前のめりになっていた。気づけば、山崎さんに詰め寄るような体勢になっていた。


「庭さんはどうして、どうして……、急にいなくなったのでしょうか? い、生きているのでしょうか……?」自然と、涙声になっていた。


 庭さんがよく口にしていた「破滅」という言葉と、自身の小説『懺悔』がどうしても結びついてしまう。

 彼も、同じ道を歩むつもりなのだろうか。

 別れ際に言った「新たな一歩を踏み出そうと思っている」とはまさか――。


 心が引きちぎられそうだ。


 山崎さんは一瞬言葉を探しているようだった。

 やがて、かすかな笑みをこぼし、


「心配いりませんよ、森沢さん」


 そう言った。


「そのうち、庭林さんがどこにいて、何をしているか、きっと分かると思いますよ」


 元刑事は、どこか悟ったような口ぶりだった。

 彼の中に何か確信があるようだったが、それが何か僕には分からなかった。

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