第53話 ダウンジャケットの男

 雨音が窓ガラスを静かに叩く。

 薄暗い喫茶店には、僕ら以外に客はいなかった。


 窓際の席に座る僕たちの間には、湯気の立つコーヒーカップと、重苦しい沈黙だけが漂っていた。


「山崎さん、今日は一体……」


 目の前の男は、雨に濡れた薄い髪を、ハンカチで絞るように拭った。

 四国で誘拐殺人事件の資料を届けてくれた元刑事が会いに来たのは、僕が庭さんの家を訪問してから二週間が過ぎた頃だった。


 元刑事は、目の前のブラックコーヒーをずずっと一口啜る。

 その伏せた目も、コーヒーのように暗く沈んでいる。


「庭林さんが行方不明になっていることは、ご存知でしょう?」男はどこか疲れた表情を浮かべている。


 僕はゆっくりと頷く。

 元刑事は天井を見上げ、ふーっと長い息を吐いた。


 あの日、庭さんの家を訪問したのを境に、ふっつりと連絡が途絶えてしまった。

 いくら電話をかけても通じない。


 やがて、庭さんの住んでいたマンションの管理人がやってきて、僕に荷物を預けた。

 両手で抱えるほどの段ボール箱が一つ。

 庭さんが、管理人に頼んだらしい。彼は引っ越ししたということだった。


 庭さんに置いていかれたようで、胸の奥にぽっかりと穴が開いた気分だった。

 彼の突然の失踪に、僕は動揺を隠せずにいた。


「……庭林さんは、君にきっと真実を告げていないと思ったんです。あの人はこういうことを自分から言うタイプではないでしょうから」


「……真実」


 庭さんは謎を残したまま突然消えた。そして僕は彼の過去を知らない。


「山崎さん……、何かご存知なのですか?」


 元刑事はコーヒーを啜る。沈黙が肯定を意味していた。


「東京桜雲おううん大学生通り魔殺人事件」


「え?」


「五年前に発生した未解決事件です」


 僕は記憶を辿る。事件に聞き覚えがあった。


「ああ……、あの事件……」


 それは冬だったと思う。

 ある公園で、大学生の青年が死亡しているのが発見された。死因は確か絞殺だった。


「確か、あの事件は、防犯カメラに犯人の姿が……」僕が口にする。


「そうです。ダウンジャケットの男です。

 公園の入口には防犯カメラが設置されていました。死亡推定時刻である夜11時に、公園に入っていく被害者の姿が防犯カメラに記録されていて、その数分後、ダウンジャケットを着込んだ別の男が同じように公園へと入っていきます。

 さらに数分後、ダウンジャケットの男と被害者の男がもみ合う様子がカメラの隅に捉えられていました」


 山崎さんはちらりと、窓の外を見やった。

 周りを気にする様子が、どことなく刑事っぽい印象を受けた。雨粒が窓ガラスを伝い落ちる様子が、彼の瞳に映っていた。


「警察の調べによると、被害者の大学生井ノ原いのはら大介だいすけの交流関係からは、ダウンジャケットの男に該当する人物は浮かび上がってこなかったということです」


 山崎さんは言葉を切り、重い表情で話を続けた。


「あの公園には公衆トイレがあります。用を足そうとした井ノ原と、あとからきたダウンジャケットの男が何らかの理由で争いに発展した、というのが警察の見解です。

 警察は、ダウンジャケットの男を被疑者と特定し、防犯カメラの映像を公開して情報を募った。そういう経緯です」


 思い出す。ワイドショーのレポーターが雪の降りしきる公園で寒そうにレポートしていたことを。

「ダウンの男」とか「ダウンジャケットの男」としきりにテレビで連呼していた。


「単刀直入に言うと、


 僕は絶句した。


「庭さんが……? まさか」


 にわかには信じられない。

 あの優しい庭さんが、大学生を殺害?


「嘘でしょう……」声が震えた。


 山崎さんは小さく嘆息する。


「森沢さん。庭林さんから私のことを何とお聞きしてます?」


「えっと……、確かファンだと……。わりと熱狂的な」


 山崎さんは苦笑した。表情にどこか悲しみが滲んでいた。


「あの人らしいですね。私は別に、あの人の書く小説のファンというわけではありません。そもそもあまり小説は読みません」


「そうなんですか……? では……」僕は困惑した。山崎さんの立場がますます謎めいてきた。


「件の大学生通り魔殺人事件が発生した時、私は東京で刑事をやっていました。自首しようとしていた庭林さんを引き止めたのが、他ならぬ私だったのです」


「は? 自首……? 引き止め……、ですか?」


 何が何だかまったく分からない。

 庭さんが自首をしようとした? それを山崎さんが引き止めた? 警察なのに?

 その矛盾に戸惑った。

 法を守るべき立場でありながら、なぜ真実を隠そうとするのか。

 話の文脈が見えない。


「実は、つい数日前、庭林さんから私宛に手紙が送られてきました」


 山崎さんは僕の目をまっすぐに見つめた。


「日付指定を利用して、自分が失踪した後に僕に届くようにしていたようなのです。その中に『森沢くんにあの事件のことをすべて伝えてあげてほしい』と記されていました。だから私はあなたを信用してつまびらかに話そうと決めたのです」


 雨音が激しさを増し、店内に静かに響くジャズの音色が溶けていく。

 僕は唾を飲み込んだ。

 一体何を聞かされるのだろう。


「今から五年前。1992年2月4日の午後11時。その日庭林さんは、小説執筆に行き詰まって、気分転換に散歩に出たそうです」


 山崎さんの話は、まるで昨日のことのように鮮明だった。


 庭さんは、家から少し遠いT駅の方まで足を伸ばしたという。

 チラチラと雪が降る日だった。自分以外に人は誰も歩いていなかった。

 裏道を通り、住宅街にある小さな公園の横を通りかかった時、庭さんはふと小さな悲鳴を聞いた。


 公園に入って周りを見渡すと、隅の方で、若い女性に馬乗りになっている男を発見する。

 思わず庭さんは、背後から男を羽交い締めにして引き剥がした。

 暴れ狂う若い男を何とかしようとして思わず首を絞めてしまった。

 ところが男は、そのまま泡を吹いて動かなくなってしまった。


 襲われていた女性は高校生だった。口から出血し、服とスカートは破かれていた。

 帰宅途中、突然公園に引きずり込まれたという。男は暴行目的で女性を狙っていたらしい。

 幸い未遂で済んだが、女性はショックで茫然自失の状態だった。


 庭さんは男を花壇の脇に放置し、恐怖に震える高校生を連れてその場をあとにした。

 高校生を家まで送り届けた庭さんだったが、家は留守だった。


 男のもとへ戻ろうとしたが、彼女を一人にするのも気が引けた。

 かといって勝手に家に上がり込むこともできず、両親の電話番号すら聞きそびれた庭さんは、傷心した彼女が何かしでかさないかとオロオロ心配しながら、玄関ドアの前で両親の帰宅を待つしかなかった。


 彼女の父親が帰ってきたのは深夜だった。


「それが私でした」山崎さんが言った。

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