第52話 破滅
庭さんは腰を上げると、窓の近くにあった小さなプラスチックの灰皿をテーブルに隅に置いた。
ポケットからタバコを取り出して火を付ける。
「……君から突然僕の家に来たいと連絡があった時、正直僕は複雑な気分でした」大きく煙を吐く。
「好奇心と恐怖心が入り混じってるような……。きっと何かを発見したんだろうなと直感的に分かりました」
庭さんが考え込むような表情で、さらに何度か煙を吐いた。
紫煙が部屋に立ち昇り、二人の間に薄いベールを作るように広がった。
「だけど、こうして君の考察を聞いてみると、キヨくんの能力が本物なんだと改めて思い知らされます……。僕はそのことに、ある意味感動しています」
「庭さんは……、自分がひょっとして、キヨの見た『ハンニン』かもしれないと自覚していたんですか?」
庭さんは一瞬言葉を飲み込み、タバコの煙を、今度は控えめに吐き出した。
「はい……。その可能性はあると、ずっと感じていました」
その言葉にドキリとした。
庭さんが『ハンニン』であるなら、それは過去に犯罪を犯しているはずだった。
それを聞くのが怖かった。
同時に、知らなければならないという思いもあった。
「庭さん、あなたは一体何を……」続く言葉が出てこない。
一体過去に何を犯したのか。だけど彼の過去の犯罪を暴きたくない。
キヨが手帳に記した『間違いない、あの事件の犯人だ』とは、一体何の事件のことだ。
窓の外からカラスの鳴き声が聞こえてきた。
庭さんは僕の動揺を察したのか、静かに尋ねる。
「森沢くん、君は僕を怖くないのですか?」
「え……?」
「過去に僕が何か犯罪を犯していると疑っているのなら」声色は柔らかいがその目は真剣だった。
「それは……」
僕は少しだけ思案して後、断言した。
「怖くないです」
「なぜ?」
「庭さんが……、結衣子さんを救おうとして、自らガソリンをかぶった姿を僕は見ているからです。あの行動を見て、僕は確信しています。人を傷つける人間じゃないと。犯罪者だなんて、とても思えません」
それを聞いた庭さんはタバコを持ったまま大笑いした。
だけど僕は真面目にそう思っていた。
彼は、自分の犠牲を厭わずに、結衣子の命を守ろうとした。その姿が、僕の心に深く焼き付いていた。
僕が怖いのは、自分が傷つけられる危険を感じているからではない。
怖いのは、庭さんに何らかの過去が発覚した時に、自分がどう感じるかということだ。それが分からない。
「僕の中で庭さんは、験担ぎとエクソシストの音楽が好きなおじさんのままです」
作家は苦笑を浮かべて、静かにタバコを灰皿に押し付けた。
「ひょっとしてどこかでキヨくんに見られるかもしれないという思いはありました。彼と直接相対することはありませんでしたが、僕は遍路道で取材をしていましたし、結局キヨくんも同じ範囲を歩いていましたからね。
だけど、香川幼児誘拐殺人事件の話が持ち上がった時は、こっちが絶対に本命だと思いました」
「でも『ハンニン』は、妙子さんでも、結衣子さんでもありませんでした……」
庭さんは微笑を浮かべたまま頷く。
僕の心の中には、疑問が渦巻いていた。
「庭さんは、なぜ自分が『ハンニン』であるにも関わらず、『ハンニン』を探そうなんて僕に言ったんです? なぜ僕を四国に誘ったんですか?」
その点が大いに矛盾している気がしていた。
庭さんは顎をザリザリとかく。
「だってそうじゃないですか」と、僕は興奮気味に話を続ける。
「そもそも四国を再訪しなければ、自分が『ハンニン』だってバレずに済んだでしょう。なのに……、どうして自分の過去の犯罪が明るみになる危険を犯してまで、僕を誘ったんです? 一緒に『ハンニン』を探そうだなんて、どうして言い出したんです?」
「うーん、それはねぇ……」
庭さんは何かを言おうとしたが、途中で言葉を飲み込んでしまった。
短い沈黙が訪れ、時計の秒針の音だけが異様に大きく響いた。
「僕は、庭さんが『ハンニン』だなんて、いまだに信じられません……。だって『ハンニン』自らが『ハンニンを探そう』だなんて言うはずがないからです!」
「森沢くん……」彼はしばらく僕の顔をじっと見つめていた。タバコを吸い終わった彼の指先が、ほんのわずかに震えているのが見えた。
「結衣子さんが、言ったことを覚えていますか?」
「え……?」
「彼女、僕らに向かって、『あなた方のような人をずっと待ち続けていたのかもしれません』、そう言ったのです……。僕はその気持が少し分かるのですよ」
言われて僕は困惑した。
「一体……、どういう意味なんです?」
「僕も、心のどこかで、キヨくんに見つけてもらいたいと思っていたのかもしれません……。そんな期待が、少なからずあった気がします」
庭さんはぐっと表情を引き締めた。
「四国遍路は死出の旅ですね。僕は、それくらいの覚悟を持ってキヨくんの謎に挑んだつもりです。魅力的な謎を調べるのに理由はいりません。たとえその先に破滅が待っていようとも」
まるで自分に言い聞かせているようだった。
破滅――。その言葉が重い鉛のように、僕の胸にゆっくりと沈んでいく。
庭さんは前にもその言葉を口にした気がする。彼にとって破滅とは一体何を意味するのだろう。
何か大きな影が近づいてくるような気がした。
「森沢くん」
彼は言った。
「僕は……、この手で人を殺めたことがあるのです」
僕の体は硬直した。血の気が引き、全身がすーっと冷たくなっていくのを感じる。
やっとの思いで言葉を絞り出す。
「人、ですか……?」
心臓の鼓動が耳元で大きく響き、呼吸が浅くなっていく。
「どうして……。なぜ?」自分の声だとは思えなかった。
庭さんの口元に視線が釘付けになる。
「君の質問に答えるには、今は少し難しいようです……」
「え……?」
「僕に、少しだけ時間をくれませんか……? 必ず君が納得がいくような答えを用意したいと思っています……」
庭さんがふっと窓の外に目をやる。
遠くのマンションの光が窓ガラス越しに淡く差し込んでくる。その柔らかな光が、庭さんの横顔に影を落としていた。
「今、執筆中の小説があります」
庭さんは再びテーブルに視線を戻した。
「少しだけ時間をください……。僕はこの物語とともに、新たな一歩を踏み出そうと思っているのです……」
まるで独り言のような作家の言葉に、僕は戸惑いを覚えた。
忘れられないのは、彼がひどく暗い瞳をしていたことだった。
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