第45話 告白2
やるべきことが決まったら、姉の行動は早かったという。
父の運転する軽トラックで、夜の山道を登った。目的地は人知れず朽ちた炭焼小屋だった。
そこで三人は、毛布に包まれた有紀の遺体を焼き、夜明けまで静かに弔った。
ほとんど消し炭になった骨を見て結衣子は泣いた。
「泣きゆう場合やないき。こりゃあんたを守るためやきね」姉の声は静かだったが、その言葉には強い決意が滲んでいた。
結衣子は我が子の骨を見つめ、深い絶望感に襲われた。もう後戻りはできない。その現実が胸に突き刺さる。涙が止めどなく流れた。
同時に激しく煩悶した。
「自分の身勝手のせいで……、どうして姉が……」
結衣子の心は引き裂かれ、葛藤が渦巻いた。
姉は人生を犠牲にしてまで、なぜ自分を守ろうとするのか。
理解できない。やはり自分はそれを受け入れることができない。
骨を地元の警察に持ち込むという妙子を、結衣子は必死に引き止めた。もっと違う方法があると。
逮捕されて有罪となれば、何十年も服役することになるのは分かりきっていた。
「へっちゃらよ」
姉は驚くほど軽やかに笑ったという。
7月13日の午前9時。突然自首してきた妙子を、警察は驚きをもって逮捕した。
誘拐事件が発生してから二十三時間後のことだった。
すでにテレビで報じられつつあったため、急転直下の逮捕劇に世間は沸いた。
妙子の計画は、亡くなった有紀の骨を持ち込み、それをY夫妻の長女のものと誤認させることだった。
当時のDNA鑑定技術では、焼かれた骨からの個人特定は不可能だった。
この一見強引とも思える計画が成就したのは、いくつかの偶然が味方したためだ。
事件当時、妙子が有給休暇を消化中で自宅にいたことは、皮肉にもアリバイの不在を生み出した。
この時間的空白は、彼女がスーパー『マツカワ』まで車を運転したと主張するには十分だった。
さらに、妙子が勤め先において、上司からの強いハラスメントに苦しんでいたことが後に報じられる。
当時、彼女が精神的に疲弊していたことは事実だった。長い有給休暇を利用していたのはそのことが理由でもあった。
妙子はそれを見越し、徹底した沈黙の上に、ノイローゼの仮面を被った。
『犯人はメンタルに問題があり、突発的な行動を取ってしまった』
警察にそう結論付けさせるように誘導したのだ。
もう一つの偶然は、結衣子と妙子が、当時同じような長髪だったこと。
スーパーには防犯カメラが設置されていて、そこに結衣子自身が映っていたことは、結衣子にとっては完全に計算外だった。しかもその映像は、誘拐事件が起こったその夜、すぐにテレビで流された。
カメラに自分が映っているなら言い訳のしようがないと結衣子は諦めかけたが、その映像があまりにも不鮮明だった。
これなら誰かは分からない。
ここに到ってようやく腹を据えた結衣子は、姉の指示通りに、その日の内にバッサリと髪を切った。
最終的に警察は、防犯カメラの映像と自首してきた人物の外見的特徴が一致すると結論付けた。
僕は震える思いで結衣子の話を聞いていた。
だけど、どこか半信半疑でいた。
警察というプロ集団を果たしてそんなにうまく騙せるのだろうか。本当にそんなにうまく事が運ぶのだろうか。
頭の中で疑問がぐるぐると巡っていた。
「私は……、姉の助言に従って、事件の翌日、盗んだ赤ん坊と一緒にすぐにアパートを出ました。理由は、赤ん坊の入れ替わりに気づかれるのを防ぐためです」
確かに、赤ん坊が入れ替われば、周りの人間が気づかないはずがない。だから彼女は急いで引っ越しを敢行したのだろう。
結衣子の口元はかすかに震えていた。言葉を絞り出すように続ける。
「姉が骨を返さなければ、私の方まで捜査の手が及んでいたかもしれません……。警察は血まなこになって盗まれた赤ん坊の行方を探したでしょうから」
結衣子は両手を胸にやった。
「預かったこの子は、姉と私の秘密の絆でした……。だけど、抱きしめるたびに、本当の母親を想像するようになった。悲しみが胸に突き刺さりました……。
毎晩、本当の両親の夢を見て冷や汗をかきました。それでも朝、この子の笑顔を見ると、もう手放すことはできないと思い知らされます。罪悪感と愛情が、私の中で常に葛藤していました」
警察は、結衣子に疑いの目を向けることはなかったという。
僕は、にわかには信じ難かった。警察の捜査はどこか片手落ちに感じられた。
なぜ妙子の持ち込んだ骨を、Y夫妻の娘のものだと簡単に信じ込んだのだろう。
「姉は警察を欺けると自信を持っていました」
「どうしてなのか、聞いてもいいですか……?」僕は恐る恐る質問する。
「私がこの事件を起こす半年前、佐賀県の唐津市である殺人事件がありました」
「唐津……」
「替え玉保険金殺人事件ですね……」庭さんが答えた。
僕はハッとした。
まるで映画のように結末が二転三転する衝撃的な事件を、僕は知っていた。
昔、週刊誌で読んだ覚えがあったのだ。
※ ※ ※ ※ ※
――佐賀替え玉保険金殺人事件
1981年1月、佐賀県唐津市S漁港にて、水没した車両から男性の遺体が発見された。当初、水産会社社長殺害事件として捜査は進められたが、実際は社長本人による保険金詐欺だったと判明。
借金を抱えていた社長は、自身の死を偽装するため無関係な男性を殺害し、妻と愛人の協力を得て警察の捜査を撹乱した。
警察は、妻らの証言を鵜呑みにし遺体の指紋照合すら行わなかったため、事件は錯綜。最終的に、妻と愛人が逮捕された後、社長は自殺。遺書により事件の真相が明らかになった。
本事件では、基本的な科学捜査の不備や安易な判断により真相解明が遅れたとして、警察の捜査手法に厳しい批判が集中した。
※ ※ ※ ※ ※
「姉が引き合いに出したのはその事件でした」
結衣子は目を閉じる。
「警察は、目の前の事実よりも証言に重きを置くのです。特に加害者の証言――、つまり自白さえあれば、その方向にすぐ舵を切るだろうと、姉はそう確信していました」
確かに、警察の自白至上主義は前々から語られていたことではあった。
「そして実際そうなったのです。警察は姉の自白を鵜呑みにして捜査にピリオドを打ちました……」
この誘拐事件は、確か全国ニュースになっていたはずだ。地元の警察署としては是が非でも犯人を上げたかったに違いない。
捕まえたい警察と捕まりたい犯人。暗黙的に両者の利害が一致した稀有なパターンだった。
自白は警察にとって最強の矛となっただろう。
他がどれほど疑わしく思えても、目をつぶった可能性は大きい。唐津の事件のように。
「唐津の事件があったから、作戦に自信を持てたわけですか……。警察を欺けると」僕は尋ねた。
結衣子は遠くを見つめたまま、吐息のように言葉を発する。
「ノイローゼの女が発狂して他人の赤ん坊を焼き殺した……。警察は、都合の良いそんなシナリオに飛びついたのです……」
抑揚のない声だったが、どこか怒りと諦めが混ざり合っている気がした。
警察は、真相究明のためには動かない。組織のために動く。妙子はそれを知っていたのだ。
僕は、一晩でこの作戦を導き出した妙子の
だが結衣子の話が進むにつれ、僕は胸の奥で、悲しみなのか怒りなのか分からない感情が、蔦のように絡みつき広がっていくのを感じていた。
「あなたは勝手です。あなたは……、お姉さんの人生を潰しています……」
感情を抑えようとしたが、それでも声に滲み出ていたかもしれない。
「そんな作戦、意地でも止めるべきだったのでは?」
結衣子は目を伏せるだけだった。
「お姉さんだけではないでしょう……。Y夫妻の人生も、その娘さんの人生も、狂わせているのです!」
「森沢くん」庭さんがそっと僕の肩に手を置いた。
「今思えば……」結衣子がポツリと言った。「姉は、自首するぐらいなら死ぬつもりだった私に感づいたんだと思います」
僕は妙子に視線を移した。
妹のすぐそば、影のように静かにじっと立ち尽くしている。
潮風が吹き妙子の髪をさっと巻き上げた。垣間見えた表情は虚ろだった。
彼女が本当にそんな作戦を立てたとは信じられなかった。
結衣子が両手で顔を覆い、肩を震わせた。
「分かっているのです。私が、お姉ちゃんの人生を無茶苦茶にしたことを……」
最後の言葉は、喉元で絞められるように消えた。
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