第44話 告白

 結衣子は、車のすぐ外で伏し目がちに立ち尽くしている。遠い目をして何かを考え込んでいるようだった。

 隣に立つ妙子も、ただ静かに佇んでいる。


「今から十六年前の話です……」結衣子がポツリと口を開く。


 僕と庭さんは、彼女から数歩離れた場所に立っていた。結衣子の吐息のような小声が辛うじて聞こえる距離。


「すでに夫と離婚していた私は、今とは別のアパートで、まだ生後半年にも満たない娘の有紀と二人で暮らしていました……。日々の育児とパートに追われ、まるで毎日同じ台本を演じているような気分でした……」


 誰に語りかけるともなく、結衣子は視線を落とし、まるで現実から切り離されたような表情を浮かべていた。


「実家に住む姉が時々家までやってきて育児を手伝ってくれたことは、本当に救いでした。疲れていたけれど、それでも小さな幸せを感じていました……」


 昔の出来事であるにも関わらず、結衣子の話は、に入り細を穿うがったものだった。


 1981年7月12日。夕刻。

 彼女は娘の有紀を布団で寝かしつけていたという。


 日々の疲れに負けて、ふとした油断からうたた寝をしてしまった。目が覚めると、有紀はクッションに顔を埋めて動かなくなっていた。

 心臓が凍りついた。


 反射的に抱き寄せたが、すでに息はなかった。クッションに埋もれて窒息死していたのだ。

 すぐに人工呼吸を施したが、息を吹き返すことはなかった。

 頭が真っ白になった。

 結衣子は信じられない思いで、動かなくなった我が子を呆然と見ていた。


「人って……、こんなに簡単に死ぬの……?」


 結衣子はそのまま、我が子を毛布にくるむと車に乗せた。

 なぜすぐに病院に連れて行かなかったのか。いまだに当時の心境は整理しきれない。罪悪感、自己嫌悪、現実逃避。すべての感情が混ざり合っていた。

 嗚咽しながら運転を続けた。


 助手席のベビーバスケットに入れた我が子の顔を時々覗き込み、息を吹き返しているかどうかを何度も確かめた。だけど奇跡は起こらない。


 結衣子は、一晩中車を走らせた。向かう先はどこでも良かった。

 高知を抜けて愛媛に入り、香川に辿り着いた頃、朝日が東の空を染め始めていた。


『マツカワ』という大型スーパーの駐車場に車を止めた。

 一番隅っこの目立たぬ場所に止めたのは、誰かに咎められそうな気がしたからだ。おまえは我が子を殺したのだろうと。

 誰にも、何も、知られていないのに。


 結衣子は死ぬつもりだった。

 炭とロープを買おうと思った。どこかで有紀を焼いて骨にしてから、自分も首を吊ろうと考えた。


 時刻は午前8時。駐車場は閑散としていた。


 車を降りてしばらく歩いた時、偶然見かけたのがY夫妻だった。

 母親が赤ん坊を持ち上げ、父親が引くベビーカーに乗せ替えようとしていた。

 結衣子はその姿に釘付けになった。


 赤ん坊の服装から、性別は女の子だと推測できた。

 自分の死んだ娘と似ている気がした。そう思いたかっただけなのかもしれない。

 妻が夫に何かを話しかけると、そのままスーパーに駆け足で戻っていった。

 買い忘れのようだった。


 夫はベビーカーを自分のワゴン車の後ろにつけ、運転席の方に回り込んだ。エンジンをかけるつもりなのだろう。


 放置されたベビーカー。中には赤ん坊がいる。自分の位置は、夫からは死角になっていた。


 今なら誰も見ていない――。


 結衣子は思った。あの子は運命の子だ。自分の子だ。

 ベビーカーに駆け寄ると子供を抱き上げた。


 無我夢中で走って車に戻った。

 誰にも呼び止められることはなかった。

 その後の父親の反応も確かめず、急いで駐車場の裏手から出た。

 その足で高知の実家へと向かった。


 結衣子が事情を説明すると、父は頭を抱えた。

 姉は半狂乱になった。なんて馬鹿なことをしたのかと号泣した。


「妙子さんが、ですか……?」庭さんが、話の途中で、遠慮がちに口を挟んだ。


 結衣子はゆるゆると彼の顔を見返した。

 目は虚ろで、まるで抜け殻のような表情だった。


「そうです……」


 庭さんはチラリと妙子に視線を送る。


「今の姉は……、本来の姉ではありません。昔は明るくて優しくて、とても聡明な人だったのです……」


 父と姉は、他人の赤ん坊を攫ってきた結衣子に対して、絶対自首するべきだと主張した。

 至極当たり前の話だ。


 自首を勧められることは分かっていた、と結衣子は言った。


「……だけど、有紀が死んだ今後の人生なんて、私には考えられませんでした……。その時の私は、名前も知らないこの子を育てることこそが、自分にとって唯一生きるための希望だと思い込んでいました」


 彼女は少しだけ口角を上げ、


「あの駐車場の夫妻に対する罪悪感なんて、微塵もなかった……」


 子を亡くした母の暴走に、僕の心の奥底で複雑な思いが交錯した。

 結衣子は立ち尽くしたまま、拳を握っていた。青い血管が浮いている。


「自首するということはこの赤ん坊を返すということ……。赤ん坊の顔を見ながら、私は、私は……、また子供をなくすのかと、すごく辛くて、情けない気分になったのです。

 何とかこの子を私の手で育てる方法はないかと、二人にそう頼み込みました……。それでも二人はがんとして首を縦に振りませんでした……。

 夜中じゅう話し合いました。だけどどこまでいっても平行線でした。私もひどく頑なになっていました」


 俯く彼女の頬を涙が伝い、ポタリと足元に落ちた。


「その時のことをよく覚えています。赤ん坊が、大声で泣いたのです……。

 私は夢中でその子をあやしつけ、それから乳をやりました。私の胸から必死に乳を飲むその子を見て、涙が出ました。小さな手が私の指をぎゅっと握って、乳を吸うたびに、母親としての感情が波のように押し寄せてきたのです」


 言葉を絞り出すように続ける。


「それを見た姉が、とうとう折れたのです……」


 姉は、赤ん坊を返さないと主張する妹の味方になった。

 結衣子は言葉を詰まらせ「優しい人だったのです……」と付け加えた。


 それでも、父は最後まで反対した。

 だが、何度も話し合いが続く中、娘たちの切実な表情を前にして、彼の抵抗は徐々に弱まっていった。

 最終的には、娘たちを守らなければならないという責任感が、それに勝った。


 赤ん坊を育てるために、妙子の立てた作戦は驚くべきものだった。

 自分が自首するというのだ。


「私は、もっと違う方法があると言ったけど、これしかないと姉は譲りませんでした……。有紀の遺体を燃やして骨にして、これを盗まれた赤ん坊だと偽ろう。姉はそう主張したのです……」

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