第35話 張り込み
時計を見ると深夜の1時だった。
街道から、細い道が枝分かれしている。細道は、洞場沢家の集落へと続いている。
僕と庭さんは、その喉元のような分岐点をじっと見つめていた。
幸いなことに、近くに小さな漁港があり、廃屋そばの目立たぬ場所に車を停車させておくことができた。
そこから見渡せた。
洞場沢家から
「森沢くん」
「はい」
「静かですね」
波が岩を叩く音が、遠く、断続的に響いてくる。
洞場沢家を訪れた翌日から、僕たちは住人の動向を探るために張り込みを行っていた。
この行為にどれだけ意味があるのかは分からないが、他に有意義な方法が思いつかなかった。
洞場沢家の裏庭で見た、あの目が忘れられない。
般若心経と共にこちらをじっと凝視していた、あの目が。
あれは洞場沢妙子だったのだろうか。
三日間見張りを続けてみて分かったことがある。
白い軽トラックが、朝に出て夕方帰ってくることだ。乗っているのは男のようだった。
帰ってくるトラックの荷台には、家電や雑貨が積まれている事がある。
それは仕事のように思えた。
目を引く出来事といえばそれぐらいだった。
張り込みは今日で四日目になる。
車中泊を続けているため、さすがに腰が痛くなってくる。それは庭さんも同様のようで、椅子の上でしきりに姿勢を変えている。
だけど、諦めるつもりはなかった。
不安と期待が入り混じる中、静かに夜を見守っている。小さな糸口でもいい。何かが起こることを願いながら息を潜めていた。
僕は改めて考える。
洞場沢家――。あの家は、この土地の人間にとってどんな存在なのだろうか。
ひっそりと林の奥に隠れるように建っているその姿は、どこか異物感すら漂っていた。
あの集落は洞場沢家を除いて、すべてが空き家だった。
人が住まなくなったのは、あの家があるからだろうか。
妙子が幼児を誘拐し、殺害したという過去は、地元では今も語り草になっているのかもしれない。
例のコンビニ本でも、世間から相当バッシングがあったことを示唆していた。
やはりあの家は地域から孤立しているのだろう。
キヨが本当に洞場沢妙子を目撃したのだとすれば、それはどこかで出歩く彼女を見たはずだ。
キヨ自らがあの家を訪れることは考えにくい。なぜなら、あの家が洞場沢家だとは知らないはずだからだ。
そのことを踏まえると、いずれ妙子が外出する瞬間を捉えられるかもしれない。
僕たちは息を潜めて待った。
誰かが、洞場沢家へ続く細道を
運転席に庭さんが座り、僕は助手席から、時々街道を行き交う車を目で追った。
静寂が続く中、庭さんがじっと細道の先を見つめたまま、ぽつりと口を開く。
「森沢くん」
「はい」
「結局どれぐらい、歩き遍路をしたんですか?」
庭さんは時々こうしてふいに声をかけてくる。だいたいは脈絡のないことだ。
「えっと……」僕は記憶をたどる。「十八日間ぐらいですね」
「十八日間ですかぁ。実際に歩くとまた景色も違うんでしょうね」
「そうですねぇ……。道の先が遠すぎて、果てしなく感じることはよくありました」
「遍路道に、集落に続くこんな脇道があったなんて気づきました?」
「いえ、歩いてる時は夢中なんでまったく気が付かないですね」
「住宅地図を見ていて思いました。集落って意外と点在してるもんですね」
僕は頷く。
「結局何番霊場まで打ったんでしたっけ?」
「二十五番の津照寺までです。そこでキヨから『ハンニン ミッケ』のメッセージを受け取って引き返しました」
「途中で終わったのはやっぱり心残りですか?」
「そうですね……。でも、正直言えば、寺を回ること自体にそれほど意味を見出していたわけじゃないんです」
「へえ」
「歩きながら考える時間っていうんでしょうか。寺と寺の間の距離が僕にとって一番重要だったかもしれません。歩きながら自分と向き合う時間。これが何よりも宝だと感じましたね」
少し照れながらそう答えた。
自分の遍路旅を思い出す。歩くことは、僕にとって自分自身の迷いや閉塞感と向き合う時間だった。
「なるほどねぇ……」
時折、車が通るのを僕たちは見送る。洞場沢家の集落に向かう車はない。
ふと、僕は庭さんに聞く。
「庭さんは僕と別れたあと、どうしてたんですか?」
「うん?」
「誰かお遍路さんに会いましたか?」
「それがねぇ……、全然会わなかったんですよ。3月の終わりじゃないですか。春休みも終わって、歩き遍路をしてた学生さんもいなくなって、一気に閑散としました。
ただ、バスツアーはまだまだ盛況で、二十四番の最御崎寺の駐車場で降りてくるバス遍路さんに少し話を聞いたりしてましたよ。だけど……」
庭さんはお手上げのポーズを取る。
「全く収穫ナシでした。バス遍路と歩き遍路は別世界です」
僕は苦笑する。
「最御崎寺ですか。あそこ、海が見えてロケーション良かったでしょう。きっとバス遍路さんにとっても最高の撮影スポットですよ」
「見晴らしねぇ」庭さんはまるで興味がなさそうだった。
「あ、でも、ちょうどお祭りをやってたみたいなんですよ」庭さんが続けた。
「お祭りですか?」
「そうそう、『月が~出た出た~』って歌が駐車場まで聞こえてきましたよ。多分、境内の方でやってたと思うんですけど、鐘の音も混じって、風流でしたねぇ」
「へぇ。僕が訪れた時は何もやってなかったですね。少し羨ましいです」
「まぁ観光に来たわけじゃないので、僕はわざわざ見に行きませんでしたよ」
庭さんが薄く笑い、再び静寂が戻った。
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