第34話 般若心経
午前の柔らかな日差しが差し込む車内。車は海沿いの街道を走っていた。
僕が遍路として歩いた道を、今は車でなぞっている。
車窓から見える海は穏やかだが、車内の空気はどこか重かった。
僕らは洞場沢家に向かっていた。
具体的にいうと、目的地は街道沿いにある小さな集落だ。
僕は助手席で手元の地図を確認する。地図によると、洞場沢家はその集落の外れにあった。
「訪問販売員のふりをして接触してみましょう」と言い出したのは庭さんだった。
正直なところ、その提案には賛成しかねた。
誘拐殺人犯に接触するのが恐ろしかったのだ。
何せ相手は誘拐と殺人を犯して遺体を焼却した女だ。どんな反応をするのか想像がつかない。
「いやぁ、そのへんの心配はいらないと思いますよ。訪問販売員をいきなり殺す人間はいないと思いますし、僕らがいきなり何かされることはないでしょう」
庭さんは、まるで根拠のないことを飄々と言ってのける。
「分かってますけど……」言葉が喉に詰まる。恐怖というのは、理屈では片付けられないものだ。
「何にせよ、まずは彼女が本当にその家に住んでいるかどうかの確認ですね」庭さんがハンドルを握りながら話す。
「それより森沢くん、僕はひとつ疑問に思ってることがあるのです」
「……何です?」
「いえね、水を差すつもりはないのですが……。なぜ、キヨくんはポケベルに『ハンニン ミッケ』という文言を打ったのでしょう?」
僕は首を傾げる。「どういう意味です?」
「つまり、どうしてそんなわざわざ謎かけのような文言にしたのか、ということですよ。まるでクイズの出題のように思えるのです。わざわざ『ハンニン ミッケ』と打たなくとも、普通に『洞場沢妙子を見つけた』と打てば森沢くんには伝わると思うのですが……、どうです?」
庭さんの指摘は最もだった。
フルネームを伝えれば、彼女がどこの誰で何をした人間かは、
だがキヨはそうしなかった。
それにはできない事情があった。
僕のポケベルの仕様――9文字までしか受信できないことを説明すると、庭さんは目を丸くした。
「9文字までの旧型……?」
「はい。濁点も一文字扱いなので『ト゛ウシ゛ョウサ゛ワ』はそれだけで10文字使います」
「ははあ、そういうことでしたか……」
「『ト゛ウシ゛ョウサ゛ワタエコ』は単純に文字数が多すぎて入らないのです。『ハンニン ミッケ』と簡略したのは、キヨなりの苦肉の策だと思います。
二度打って文章を分けるとか他にも方法があったかもしれませんが、これまでの経験からキヨが分割してメッセージを送ってきたことはありません。これはスタイルの違いです」
「なるほどなるほど。納得です……」と頬に手を当てた。
車窓の外では、海岸線に沿って消波ブロックが延々と続いていた。打ち付ける波の音が、かすかに聞こえてくる。
「庭さんがポケベルの話をしてくれたおかげで、実は僕も一つ、失念していたことを思い出しました」
「ほう。失念?」
「キヨが死んだ時のことです」
「キヨくんが……? なんでしょう……」
「キヨは黒木君子に殺されましたが、僕は当初、キヨは、黒木を発見して『ハンニン ミッケ』と打ったと考えていました」
「ええ。そう主張していましたね」
「ですが黒木は、指名手配犯として映像が残されていなかったんです。つまり、キヨには黒木を判断するための材料がなかったんです」
僕は下を向く。
「僕が……、もっと早く気づくべきだったのは、もし仮にキヨが黒木のことを指名手配犯だと認識したのなら、シンプルに『クロキキミコミッケ』と送ってきたはずなのです。9文字きっかりだから入ります。
だけど現実はそうではなかった……。『クロキキミコミッケ』ではなく『ハンニン ミッケ』でした。僕はその時点で『ハンニン』は黒木君子を示していないと気づくべきでした」
庭さんは、ハンドルを握りしめたまま、納得したように何度も頷いた。
「キヨの死に動揺しすぎていたのです……。でも、今思えば……『ハンニン』は最初から別の人物を指していたと分かります」僕は小さくため息をつく。
それに気づいたからといって何かが変わることはない。死んだキヨが戻ってくることはない。
ただ胸に重く沈む後悔の念だけを感じる。
庭さんは何も言わなかった。
やがて、目的地が近付いてきた。
街道から一本細道を入ると、小さな集落がある。
地図上では、五軒民家が連なっているが名前は書かれていなかった。案の定、すべて空き家のようだった。
空き家を通り過ぎ、集落の外れへと向かう。
ふと見上げると、いつの間にか厚い雲が垂れ込め、空は
海から風が吹き寄せ、木々の間をざわざわと揺らす。
薄暗い林の中、ボロボロのあばら家が、ゴミの山に、
僕は最初それを見た時、前にテレビのワイドショーでやっていた、迷惑ゴミ屋敷の特集を思い出した。
冷蔵庫や電子レンジなどの壊れた家電が軒先の至るところにうず高く積み上げられていて、多くは雨ざらしとなって色が剥げ落ちていた。
油の腐ったような臭いがあたりに漂っていた。
辛うじて玄関だと分かるのは、唯一そこだけが物に覆われていないためだ。
この光景に驚きつつも、強く意識させられたのは疎外感だった。地域の輪に溶け込んでいたら、おそらくこんな外観にはならない。この家は孤立しているのだ。
背中がひやりとした。
家の前に車を停めて、庭さんは迷う様子もなく呼び鈴を押した。ブーッという古臭いベルの音が家の奥の方で響いた。
こうなると腹をくくるしかない。僕も慌てて車から出た。
ところで庭さんは何の訪問員と偽るのだろうか。何も聞いていなかった。不安だ。
急に胃が重くなってきた気がする。冷や汗が背中を伝う。
が、誰も出てこない。正直ホッとした。
庭さんは何度か呼び鈴を押す。
「うーん、留守でしょうか」首を傾げる。
「出直しますか?」
そう聞くと、庭さんは突然、指に手を当てて静かにするよう合図した。
風が木々を揺らす音――。そのざわめきに混じって何かが聞こえてくる。
低い女の声だった。
「
よくよく耳を澄ますと、家の中から、一本調子の般若心経が聞こえている。
参拝する遍路が霊場で唱えているのは何度も見てきた。僕自身も、辿々しいながら、同じように唱えたものだ。
だが今は、寺で聞くような荘厳さは感じられない。むしろ、沈んだヘドロのような陰鬱さを漂わせていた。
低い女の声が朗々と響く。
実は最初から聞こえていたのかもしれない。だけど気づいていなかった。
まるで夏場の蝉の声のように、初めから存在していた環境音。そこに意識を向けたような気分だった。
「あっちは裏庭みたいですね」庭さんが小さな声で言う。「少し回り込んでみましょうか」
「えっ、ちょっと待ってくださいよ……」
僕が静止する間もなく、庭さんはすっと家の裏手に回り込んでいく。仕方なく僕もそれに続く。
裏手は、表よりもさらに荒れ果てた光景が広がっていた。朽ち果てた柵が崩れかけ、雑草が膝丈まで伸びている。
何やらプラスチックの残骸や、よく分からない電子パーツがあちらこちらに散らばっている。
庭さんが雑草をかきわけていく。僕はそのあとに続く。すると家の窓があらわれた。
汚れたガラスに、厚手のカーテンがぴったりと閉じられている。
近づくにつれて声は大きくなっている。
家の中から、まるで僕らの存在を拒むかのように読経が続く。
本能が警告を発し、これ以上近づくべきではないと訴えかけてくる。
だが、前を行く庭さんは一切躊躇することなく、窓のそばにしゃがみ込んで身を寄せた。
カーテンのわずかな隙間から中を覗こうとしている。
「庭さん……、やめましょうよ。まずいですよ」僕は声をひそめて、必死に庭さんを止めようとする。
その時、ほんのわずか、カーテンがゆらりと波打った。
僕はハッと見上げる。
家の中に風は吹かない。
息を呑んだ。窓の上部、ほんの指先ほど開いたカーテンの隙間から、人間の片目が覗いていたのだ。
庭さんはそれに気づいていない。
片目は、
ガクガクと腰が砕けそうになっていた。
「庭さんっ」叫ぼうとしたのに、あまりの恐怖で声が出ない。
その目は、読経の主に違いなかった。
「にわっ、庭さん」声がかすれて出ない。
僕は庭さんを背後から羽交い締めにするように引き剥がし、後ろへずずっと引っ張った。
「ちょ、ちょっと森沢くん」
「庭さん!」
何とか声を絞り出し、庭さんを背後へ引っ張って窓から引き剥がす。
僕はそのまま全身の力を振り絞って玄関先まで無理やり引っ張っていった。
「ええ? カーテンの隙間から、そんな目が?」
車内で事情を話すと、庭さんは驚いた声を上げた。
「全然気づきませんでした。面目ない……」庭さんは両手を合わせ、申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
結局家の中は薄暗くて何も見えなかったそうだ。
「でも何だったんでしょうね……。その目……」ハンドルを握りながら、どこか悔しそうに庭さんは言った。
車内にはエクソシストのBGMが流れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます