第36話 推測
僕たちは無言で洞場沢家の方角を見つめていた。
動きがあったのは深夜2時を過ぎたあたりだった。
「あっ」僕は思わず小さく声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
洞場沢家の暗闇から車のライトが光った。白い軽トラックがゆっくりと道を下ってきた。
「庭さんっ」僕は、緊張で喉が引きつるのを感じた。
庭さんも身を乗り出すように前を見つめている。
これまでにない時間帯の動きに、僕らはじっと息を潜め、その動きを見守った。
軽トラは脇道から街道に出ると、トトトトト、と軽快な音を立てて、室戸の方角へと向かっていく。
軽トラのライトが十分すぎるぐらい遠ざかったところで、庭さんは静かにエンジンをかけた。
ゆっくりと車を動かして軽トラの後を追う。
「こんな深夜に何でしょうか……」庭さんが呟く。
海沿いの遍路道は道路灯もない暗い道が続く。
見えるのは、ずっと道の先を行く軽トラのライト。追い越してしまわないように、一定の距離を保ったまま車を追った。
スローペースだ。
空を見上げると、雲の中にすっかり月は隠れていた。
やがてトラックが道端に停止して、ふっとライトが消えた。
「庭さん、どうします?」
「止まると逆に不自然ですから、このまま通り過ぎます」
ライトをつけたままゆっくり進む。
軽トラは停車場の暗闇に、ひっそりと沈んでいた。
目を凝らすと運転席ドア付近で何かがゴソゴソと動いている。人影だ。どうやら車から降りているらしい。
庭さんは速度を緩めて、軽トラと人影のすぐ横を通り過ぎる。
僕は見た。
人影は男だった。薄汚れた作業着を着ている。
そしてもう一人、助手席側に人物が立っていた。
僕は息を呑んだ。
車体に隠れていたが白衣を着ていることが確認できる。長髪の女。
まるでスローモーションのように、人影が視界から遠ざかっていく。
間違いなく、遍路Xの姿だった。
通り過ぎてからしばらくすると僕はぶはーっと息を吐いた。
「庭さん、み、み、見ましたか?」
「森沢くん! あれはひょっとして……」庭さんの声がわずかに震えていた。
「ええ。あ、あれは、遍路Xです」
「やっぱり……! ど、どういうことです! 洞場沢家から遍路Xが出てきたということですか!?」
「僕にも分かりません!」
僕は呼吸を整える。
「だけど、あれは、僕が見た遍路Xです。間違いありません……」
庭さんが鼻息を荒くする。
「洞場沢妙子……」
そう呟いた庭さんの顔を僕は見た。
庭さんはハンドルを握りしめたまま前を向いている。
「森沢くん、あの白衣の女性は洞場沢妙子なのでしょうか……」
同じことを考えていた。
「遍路Xは、香川幼児誘拐殺人事件の洞場沢妙子?」
沈黙が車内を支配する。庭さんはのろのろと車を進めていた。
僕は窓の外に目をやり、ふと気がつく。
「庭さん……。ここからもう少し進むと廃商店があります。その場所は、僕が最初に遍路Xを見た場所です」
僕は声を潜めて続ける。
「おそらく遍路Xは、今からこちらに向かって――、つまり高知方面に向かって歩いてくるはずです。彼女は多分同じコースを歩いています……。だとすれば、この先にある廃商店まで、歩いてくるはずです」
「なるほど……」庭さんは前方を見たまま三度頷く。
「よし、そこに車を停めて観察しましょう」
やがて、朽ち果てた商店が見えてきた。店の前には使い古された例のベンチが置いてある。前に僕が寝床として使用したベンチ。そして遍路Xを目撃した場所だった。
庭さんは、車をゆっくりと商店の裏手に滑り込ませエンジンを切る。
車から出て建物の脇に身を潜めると、僕らはその時を待った。
海からの潮風が頬を撫でる。
雲に覆われた暗闇が支配していた。波の音が遠くから聞こえ、その律動が夜の静寂を際立たせる。廃商店の周りには雑草が生い茂り、月明かりもない夜空を背景に、不気味な影となって佇んでいた。
やがて女がやってきた。
闇から白いシルエットがぼうっと浮かぶ。
ペタ ペタ ペタ。
こちらに向かって歩いてくる。
ペタペタペタペタペタ。
痩せた体躯にまとった白衣。艶のない髪の毛が、風を浴びて揺れる。
遍路Xの姿。相変わらず彼女は裸足だ。
この間に見た時と変わらない。
そして左手には人間の手首を持っている。
「森沢くん、よく見てください」庭さんが小さく唸る。
「あれは……、マネキンの手首ではないですか?」
「えっ!?」言われて僕は目を凝らす。
よくよく見ると、重力感が乏しいように感じる。本物の人間の手首なら、重みでもう少し慣性が働く。
中身がまるで空洞のように頼りなく振られている。
「本当だ……。あれはマネキンです」
どこか安堵した気持ちになった。彼女は人間の体を
だけど、不穏なことには変わらない。
マネキンの手首をなぜ持ち歩いてるのか。謎は謎のままだ。
遍路Xが、ひたひたと僕らの前を通り過ぎていく。
前と同じく奇妙な微笑をたたえている。こちらには気づいていない。
手首を持った様子は、やはり誰かの手を引いているように見える。
それも子供の手だ。手の位置が低い身長を示している。
彼女は見えない子供を連れているようだった。
ここに霊能力者がいたなら、手を握る子供の幽霊の姿が見えるのだろうか。
彼女は、本当に洞場沢妙子なのだろうか。
もしそうだとしたら、香川誘拐殺人事件と関係があるのだろうか。
僕はじっと女を見る。
よく見ると、彼女の口が微かに動いている。唇の形から、何かを繰り返し呟いているのが分かった。
耳を澄ませてみると、風に乗ってかすかにその声が届いた。
「般若心経……」庭さんが呟く。
その低く、ゆっくりとしたリズムが、夜の静寂を微かに揺らしている。
その時だった。
彼女が一瞬、こちらを向いたような気がした。
その目――。洞場沢家のカーテンの隙間から覗いていた目と同じだった。
まるで何かを見透かすような。
ぞわっと悪寒が全身を駆け巡る。
女が通り過ぎていく。
唾を飲み込もうとしたが、口が乾きすぎて喉に何も流れない。
「洞場沢家で見たあの目は……」
好奇なのか恐怖なのか、はたまたその両方か、胸の奥で何かが膨れ上がるのを感じながら、じっと彼女の姿を目で追っていた。
生温かい風が頬を撫でる。
彼女が進む室戸の方角を呆然と見つめた。
薄闇に包まれた道に、白い人影だけが小さく浮かんでいる。
道の山手側には、工事現場のようなバリケードが続く。
その中に見覚えのある建物、今は廃墟となったパチンコ屋が暗闇の中に屹立していた。
女はその前を通り過ぎていった。
僕の目は、白い人影と暗い背景の境界線をさまよっていた。現実とも幻想とも区別がつかなくなりそうだった。
しばらくすると背後から、軽トラの音が聞こえてきた。
さっきと同じ軽トラだった。
さっと商店の裏に身を隠す。
通り過ぎた車を目で追うと、しばらく走った道の先で停車した。白いシルエットの隣に停まっている。遠目に観察していると、どうやら女を拾って乗せているようだった。
軽トラはそのままUターンして、僕らの前を過ぎ、もと来た道を戻っていった。
「庭さん」僕は息を整える。
「さっき、軽トラを運転する男の顔がうっすら見えたのですが……。あれは、黒木に襲われた時に助けてくれた男だと確信しています」
「本当ですか? それは……、黒木を背後から殴りつけたっていう、例の男性? あの運転していた人が、ですか?」
「はい。あの軽トラの独特のエンジン音にも聞き覚えがあります。なんていうか、間の抜けたポンポン船のような、不思議な音です。黒木に襲われた時にも、あの軽トラは一度近くを通っています」
「ということは……、いよいよ森沢くんを助けたのは、あの人達という可能性が高くなりますね」
だけどなぜだろう。
なぜ僕を助けたのだろう。
よくよく考えると、一番最初に遍路Xを目撃した時も、彼女が去ったあとに、あとを追うように軽トラが通過していった。あれも多分、道の先で彼女を乗せるために予め待機していたのだろう。
遍路Xは――、彼女は、一体何をやっているのだろう。
遍路の格好で、マネキンの手首を持って、深夜の遍路道を歩いている。
その意図はさっぱり分からない。
ただ、どこか習慣的なことのように思えた。
繰り返しているからこそ、こうして目撃者がいるのだ。時子お婆さんにも見られている。他にも見た人はいるだろう。
キヨも多分、どこかでこの光景を見たのだ。遍路Xを見たのだ。
そして歩行パターンの一致から、遍路Xの正体に気づいた。
あれは香川幼児誘拐殺人事件の犯人、洞場沢妙子だと。
コンビニで本を買ったのは、事件の詳細を確認するためだったに違いない。
そして僕にこうポケベルを打った。
『ハンニン ミッケ』と。
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