第24話 庭林の話
これが、僕が四国で体験したことのすべてだった。
次に目を覚ました時、周囲は白い壁だった。
点滴のチューブが自分に取り付けられているのを見て、病院のベッドにいることを理解した。
明け方にあなた達は救急車で運ばれてきた、と年配の看護師が教えてくれた。
「達」というのは、僕と小人のことだった。
庭さんは目を閉じて、僕の話を黙って聞いていたが、やがて「なるほど」とおもむろに顔上げる。
「それで、君は……、最後に……、遍路Xの姿を、見たんですね……?」一語一語、噛み締めるように、そう言った。
意識を失う前、最後の力を振り絞って見た光景。
確かにそこに遍路Xがいた。
僕は小さく頷く。
「遍路Xは何か喋りましたか?」
「いえ……、立ち尽くしているだけでした」
「君は遍路Xがその場に現れたことをどう解釈しています? あまりに不自然なことですよね?」
「まったく、理由が思い当たりません……」
「遍路X以外にもう一人いた?」
「はい。男性だったと思います。多分、年配の人でした……」
庭さんが、ふうんと頷きながら顎をさする。
「遍路Xともう一人……。君はその人達に助けられたと思いますか?」
あのままだと首を絞められて殺されていたのは確かだ。
自分は助けられたのだろうか。
分からない。僕は黙り込んだ。
「そのこと、警察には伝えました?」
「いえ、伝えてません……」
退院する前、警察から事情聴取を受けているが、遍路Xのことも含めて何も伝えていない。
キヨのことがあまりにショックで気が動転していたのと、取り調べを担当した二人の刑事がやたらと事務的だったのでとにかくすべてが億劫だった。
だから必要最低限のことしか話していない。
庭さんはペットボトルのお茶を飲んで喉を潤す。
「ところで森沢くんは、聞きましたか? 小人こと黒木君子が、どうしてそんな女性のような名前なのかを」
事情聴取の時に担当刑事から、小人の本名がそんな名だというのはすでに聞いている。
違和感を抱いたものの特に理由は聞かなかった。いや聞いたのかもしれないが覚えていない。
「偽名ですか?」
「いや、本名です。黒木君子、53歳。1944年生まれ」
庭さんは、再び手帳に目を落とす。
1944年といえば「戦時中……?」
「そう、太平洋戦争
庭さんが説明してくれた詳細はこういうことだった。
1944年――。
日本は戦争の真っ最中で、徴兵が急速に進められていた。
そんな中、ある噂が流れていた。対象者の名前が女性名だと兵事係が見過ごすというものだ。
黒木の母は早くに亡くなり、名付け親である父はこの噂を信じ、息子にわざと女性名をつけた。
「嘘のような話ですが、黒木本人が取り調べでそう言ったのです。君子は『きみこ』と読めますが、家では『くんし』と呼ばれていたとか。父親は藁にも縋る思いで我が子を徴兵から守ろうとしたのでしょう。ところが翌年、原子爆弾が落とされ、戦争は終わりました」
庭さんはそこまで話すと、僕の顔を見た。
「ちなみに、このような女性名による徴兵回避は、他にも実際に起こっていたようです。例えば、喜劇俳優の三木のり平さんは、本名の
僕にとっては、今はどうでも良い話だった。黒木の名前が女性名の理由だとか。
庭さんは話を続けようとしたが、僕は「もう全部終わったことです」と遮った。
キヨは死んでしまった。殺害した犯人の黒木は捕まった。
僕たちの四国遍路は終わったのだ。最悪の形で。
それだけだ。
「そうですね」庭さんがポツリと呟く。「警察も思ってるはずです。事件は解決したと……」
外から、キィーキィーときしんだ自転車を漕ぐ音が聞こえてくる。子供達の笑い合う声。
雨はいつの間にか止んだらしい。
どこか遠い異国から聞こえてくるようだった。
窓からカーテン越しの夕日が差し込み、部屋をほのかにオレンジ色に染める。
ローテーブルの足が影を伸ばしていた。
「庭さん……」
一つだけ、胸の奥に引っかかっていた。
それだけがどうしても気になっている。
庭さんが、うんと言って二人の沈黙を埋める。
作家は、僕の言いたいことを何となく察したようだった。
「森沢くん。僕もずっとそのことを考えています。小人の本名が女性名だとかどうだとか、君の言う通り、結局どうでもいいことなんです」
僕は庭さんの目を見た。
「黒木はなぜキヨを殺したんです?」
それに尽きる。
庭さんがゆっくり頷いた。
「順を追って説明します」
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