第23話 死闘
僕は、はぁはぁと荒い息を吐いた。
後ずさりをするも、ここは電話ボックスの中だ。すぐに背中にガラスがあたる。
袋の鼠だ。逃げ場がない。
どうすればいい。
次の瞬間、男はカメレオンの舌のようなすごいスピードでドアの隙間から手を伸ばしてきた。
瞬時に奥襟首を掴まれた。
驚く間もなくボックスから引っ張り出される。
そのまま首根っこを掴まれ強引に引きずられる。
僕は恐怖のあまり抵抗もできず、なされるがままに男にずるずると身体を引きずられていく。
一体何が起こってるのか。
男は周りをキョロキョロと見渡し、僕を掴んだまま道路を渡り始める。その先には先程の廃集落がある。
このままでは再び隘路に引き込まれてしまう。
そう思った矢先、
トトトトトトトト。
低く唸るエンジン音が耳に届いた。
こちらに向かってくる車のヘッドライトが、闇に浮かんでいる。一台の車が、徐々に距離を詰めてくるのが見えた。
男はチッと舌打ちすると、身体を起こそうとする僕を、藪の中に強引に押さえつけた。すごい力でねじ伏せられて、声を上げることができない。
助けて――。
叫び出したい。だけど身体ごとのしかかられていて声が出せない。ムッと酒の匂いが鼻を突く。
その時視界の端に何かが見えた。
ブルーシートを被せた大きな荷物だった。見覚えがある。それは、木の陰に隠れるようにひっそりと置かれた、小人のキャリーだった。
ハッとした。
今思えば、この男と遭遇した時、手ぶらだった。キャリーを引いてなかった。
職業遍路にとって自分の荷物は生命線だ。キャリーには、すべての生活用具が収められている。
男は一旦キャリーをここに隠し置いた。そして、再びここへ取りに戻ることを想定していたに違いない。
なぜだ?
分からない。ともかく、彼にとってここは既知の場所に間違いなかった。
向こうからやってきたのは軽トラのようだった。
男の、はぁーーはぁーーー……、という酒臭い息が降ってくる。
すぐ脇には酒瓶が置かれている。
トトトトトトトト……。
少し間の抜けたエンジン音を響かせて、軽トラはこちらに気が付かず、室戸の方角へ走り去っていった。
男に引っ張り上げられ無理やり立たされる。
恐怖は極限まで達しようとしていた。
股間が温かくなるのを感じた。
「ああん?」男が甲高い声を上げた。
「なんや情けないなぁ。ションベン漏らしたんかい?」
「うう……、うっ……」
いつの間にか失禁していたらしい。ズボンの股がビショビショに濡れていた。
冷静に物事を考えられない。だけどはっきり理解していることがある。
目の前の男――、小人が、キヨの行方に関係している。ポケベルを持っていたからだ。
そして、最悪の考えが頭をよぎる。
この男こそキヨの見た『ハンニン』ではないのか。
瞬間、全身の血の気が引いた。
男は何らかの事件の指名手配犯で、キヨはそれに気がついた。そして、キヨはこの男に殺されたのではないか。
僕は体を震わせる。
おそらく、僕も殺すつもりなんだろう……。
ほとんど無意識の内に湿った股間を触っていた。
ぐしょぐしょに濡れたジーンズ。情けないと嘆く余裕すらない。
崖の前に立たされて背後からドンと押されるような、死が目前に迫った感覚。
無意識に、震える手でモゾモゾとジーンズを握った時、手に硬いものが触れた。
ポケットに何か入っている。
ほとんどがむしゃらだった。
僕はポケットに手を突っ込み、それを引き抜くと、男の顔面に向かって突き立てた。
「おっ、ああっ?」
小人がおどけたような声を漏らす。
「なんや、あいたたたたぁー」
物体は、ケースに格納されたままの果物ナイフだった。
それが、ケースごと、小人の左目に刺さった。
男が僕の足元に
衝撃はワンテンポ遅れてやってきたらしい。
「ぐぉおおおあああーーーー!」獣の咆哮のような絶叫が夜に響いた。
逃げなければ。
だが体が震えて動かない。
足がすくむ。震える。
一歩、後ずさる。
がばっと立ち上がった小人の顔は、憤怒の表情だった。
刺さったナイフを地面に叩きつけ襲いかかってきた。
運動会のヨーイドンが鳴った時のように、僕は脱兎のごとくに飛び
もつれて転びそうになりながら、必死に走った。先には隘路があった。
その道しかなかった。
息を切らせて勾配の道を必死に駆け
捕まれば殺される。
走る。転ぶ。泥を掴んで立ち上がってまた走る。
ここは一体どこだ。どこに続いている。
どうしてこんなことになった。
頬を伝った涙が、背後に流れていく。
腐ったような刺激臭が鼻を突く。
どこまで走ったのか。
一瞬、速度を緩めた途端、背後から、タタタタタタタタタタタタ、規則正しい足音が聞こえてきた。
振り返ると、凄まじいスピードで駆け上ってくる白衣が見えた。
「うわぁあああーーーーーーー!」
悲鳴を上げるのとほとんど同じタイミングで、髪を掴まれ、地面に叩きつけられた。
続けざまに頭の横に衝撃を受ける。
空が地面に埋まった。地面が空に浮かぶ。世界が反転している。
声が出せない。
思い切り殴られたらしい。
三半規管がイカれたと分かった。
動けない。
小人に引きずられ、僕は道の奥にまで連れて行かれる。抵抗できず、為されるがままに。
「ど……」
どこまで行く、という声が出ない。
唾を飲もうとしたが、それもできない。喉が痛む。
「あ、あんたは一体、誰なんです……?」
ようやく声が出た。
夜空に男の顔がふわふわと浮かんでいる。三半規管がまだおかしい。
だけどニヤリと笑ったのだけは分かった。
「ただの真面目な歩き遍路やで」
男は片手で僕を引きずりながら、もう片方の手には酒瓶とロープのようなものをぶら下げていた。
絶望的な気分になった。
本当におしまいかもしれない。
小人が歩みを止めた。
突き当りだろうか。青いブルーシートのようなものが地面に広げて置かれている。
「これ、探してた子やろ?」
小人がブルーシートをさっとめくった。
無意識の内に、どこかで心の準備をしていたのかもしれない。
それでも、キヨの死体が地面に横たわっているのを見た時、自分の心臓が停止したような気がした。
藪に上半身を預け、両足を投げ出した状態で死んでいた。苦しそうな表情を浮かべていた。
人間の舌はこんなに長いのかと妙な感慨を覚えた。
首には紐が絡まっていた。
白衣に近鉄の野球帽。こんな格好で歩き遍路をしていたのか。キヨらしい。
なぜか両方の手首がなかった。切断されている。
キヨ、なぜ君は死んでいる。
悲しいという感情は湧かなかった。
ただ、僕は絶望していた。それだけだった。
「なぜ、殺した……」
返事の代わりに、背後から首に何かが回された。
固い。ごわごわとした何か。
それは荷造りに使うようなロープだった。
「やめてくれ……」
絞め殺されてしまう。恐怖と悲しみで涙が溢れてきた。
嗚咽が止まらない。
「お願いだ……」
目の前にはキヨの死体がある。
僕は手を伸ばす。もう少しで触れられる。
首が絞まる。息ができない。
息が――。
視界が滲んで、意識が遠のく。
このまま自分は死ぬ。目の前が真っ白になっていく。
ゴッ――。
突如背後で鈍い音がした。同時に、首にかかっていた力が緩む。
「ゲハッゲハッ……!」
そのまま前のめりに倒れた。咄嗟にロープをほどいて何度も呼吸を繰り返した。
「ゴホッ! ガハァッ!」肺に酸素が供給される。
だが視界は滲んだままだ。眩しい光の中にいる。
急に酸素を取り入れたからだろうか、意識がふっと途切れそうになる。
僕は力を振り絞って、恐る恐る振り返る。
驚いたことに、小人がうつ伏せに倒れていた。
その背後。誰かがいる。
僕は四つん這いのまま、光の中を凝視する。
人が立っていた。
滲んでなかなか像を結ばない。が、辛うじて男だと認識できる。
作業着を着た、疲れた様子の男だった。
雪かきに使うようなシャベルを握っていた。あれで後ろから殴ったらしい。
僕は口を開こうとしたが、声が出ない。
意識を保てない。
明滅する光の中、よく見ると背後にもう一人いる。
髪が長い。女だ。
「あ……」
佇んでいたのは、遍路Xの姿だった。
まるで幽霊のように静かに立っている。
そこで意識が途切れた。
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